第22話 リーヴェ市立大図書館にて
宿を出てから、川筋とは反対側へ。坂をゆるやかに上っていくと、通りの先にそれは見えてきた。
──リーヴェ市立大図書館。
城壁と同じ灰色の石を積み上げた重厚な建物で、三階分の高さがある。正面には太い柱が並び、階段をいくつか登った先に大扉が構えていた。扉の上には半月形の大窓がはめ込まれているが、その表面には薄く魔力の膜が揺らいでいる。魔法障壁だろう。外からの衝撃だけでなく、内部の環境も一定に保っているのが見て取れた。
左右の壁面にも縦長の大窓が複数並び、いずれも淡く光を返している。石壁の各所には蔦を模した彫刻が絡み、それが窓枠の縁で本の背表紙や巻物の意匠に変わっていた。入口の上には、本と羽ペンを交差させた紋章が掲げられている。台座に開かれた本、その上に斜めに置かれた羽ペン。その周囲を、小さな星々の模様が取り巻いていた。
階段の両脇には、翼を畳んだ獅子像が一対。口にはそれぞれ石の板を咥えており、そこにも細かい文字が刻まれている。近づけば、魔力の線がかすかに走っているのがアルドにはわかった。
罰則条項か、利用規約か。或いは、侵入者対策の術式陣、というところだろう。
「わあ……!」
隣でエリシャが感嘆の声を上げた。瞳がきらきらと輝き、首が忙しなく上へ下へと動いている。
「見てください先生! 窓、全部に魔法障壁が……! あっ、あの紋章も凝ってますよ! 本と羽ペンの周りの星って、多分『知識の灯』の象徴ですよね? あれ、そういえばこの獅子像って──」
「……静かにな」
アルドは小声でたしなめた。
図書館の前でこれだけはしゃいでいれば、既に中から何人かに聞こえているだろう。
「あっ……すみません」
エリシャが慌てて口元を押さえたが、頬の紅潮と瞳の輝きは消えない。はしゃぎ気味なのは明らかだった。
(まあ、気持ちはわからんでもないがな)
学院に入ったばかりの頃、自分も初めてあの巨大な書庫を見た時には似たような顔をしていた。今はすっかり慣れてしまっただけだ。
階段を上がり、重い木扉を押し開ける。内側に張られた防音の結界をくぐると、街路の喧噪はすっと遠のいた。代わりに、紙とインクと革の匂いが濃くなる。高く伸びた天井、それから中央には丸い受付カウンターがあり、その背後には放射状に書架フロアが広がっていた。
正面の壁一面に、床から天井まで届く巨大な本棚がそびえている。梯子がいくつも掛けられ、上階へと続く階段も見えた。天井から吊られた魔導灯が柔らかい光を落とし、その光に舞う埃がゆっくりと螺旋を描いている。
(これはまた凄いな)
エリシャではないが、アルドも年甲斐もなくはしゃいでしまいそうだ。隣のエリシャなど、さっきよりも瞳の輝きが増している。目だけで『先生、凄いですよ!』と訴えかけてきていて、思わず笑ってしまった。
受付カウンターには、丸眼鏡をかけた中年の女性司書が一人、本を整理している。淡い茶色の髪をきちんと纏め、胸元には先ほどの紋章と同じ意匠のブローチが光っていた。
「ようこそ、リーヴェ市立大図書館へ。ご利用ですか?」
声も、抑えた調子ながらよく通る。アルドは頷いてカウンターに近づいた。
「初めて利用する。閲覧のための登録をしたい」
「かしこまりました。まずはお名前とご身分を……」
司書が言いかけたところで、アルドは懐から冒険者カードを取り出した。
「これでいいか? 一応、これで俺たちの身分は確認できるはずだが」
冒険者カードを差し出すと、司書は少しだけ目を瞬かせた。
ギルドカードが図書館の利用登録にも使えることは、事前にアリアから確認済だ。
「冒険者の方でしたか。失礼いたします」
カードを両手で受け取り、司書はカウンター脇の小さな魔導具に差し込む。淡い光が走り、符号が浮かんでは消えた。司書の視線が、刻まれた文字を追っていく。
次の瞬間、彼女の眉がぴくりと動いた。
「……まあ」
抑えきれなかった驚きが、思わず声になったようだった。
すぐに表情を整えたものの、目元だけは僅かに丸くなっている。
「アルド=グラン様、エリシャ=リュミエール様──冒険者ランク、A……! え、しかも登録してたった二日で?」
最後の一言だけ、思わず確認するような調子になった。
しっかりと、登録した日付やランクまで既に冒険者カードが更新されていたらしい。ギルドの評判の回り方は、どうやら書物より速いようだ。
「ええと……でしたら、通常の閲覧許可に加えて、学術資料室の一部も閲覧許可をお出しできます。危険指定の禁書類や、王家管理の文書には別の手続きが必要ですが、古代史・封印術関係の基礎的な資料なら問題ありません」
司書が手早く用紙を取り出し、さらさらとペンを走らせる。
「ご利用の目的を、簡単に伺ってもよろしいでしょうか? 閲覧室のご案内にも関わってまいりますので」
来た。目的の確認。ここで藪をつついて蛇を出すわけにはいかない。
「最近見つかった『封印の遺跡・ノア=セリア』について調べたい。構造や過去の調査記録があれば、それも併せて読んでおきたいんだが」
アルドは、あくまで表向きの目的だけを口にした。
古代語と無詠唱魔法の関連性については、一言も触れない。
横でエリシャも頷き、少し身を乗り出す。
「遺跡で見た古い文字が気になっていて……その、古代遺跡の調査に役立てられればと思ってます」
古代遺跡の調査、というラインから一歩も踏み出ない。無難な補足だが、こうして同行者が言ってくれるのはありがたい。本当に良くできた弟子だった。
「ノア=セリア……そういえば、王立考古学会の速報にも載っていましたね」
司書は顎に指を当てて少し考え、それから頷いた。
「でしたら、まず二階の『古代遺跡・封印史料』の棚をお勧めします。『古代遺跡誌』と『王国考古学年報』が並んでおりますので、最近号からお調べになるとよろしいかと。それから、封印術でしたら三階の『魔導理論・結界術』の一角に封印魔法の基礎文献が揃っております」
司書は、館内の簡略図が描かれた栞を取り出し、いくつかの場所に印を入れて差し出した。栞の上にも、本と羽ペンの紋章が小さく刷られている。
「古代語についての文献でしたら……三階学術資料室の『古文書学・言語史』の棚にございます。こちらは少し専門的な内容ですが、冒険者ギルドからのご紹介であれば閲覧は可能です。ただし、複写や写しの持ち出しには制限がございますので、その点はご了承ください」
「問題ない。写す必要があれば、手で書き写す」
アルドがそう答えると、司書は満足げに微笑んだ。
「では──はい、こちらが利用者証になります。入館の際は、毎回こちらをお見せください。それと、館内では私語は控えめに。お連れ様も」
最後だけ、僅かに視線がエリシャに流れた。エリシャが「ひっ」と小さく肩を竦める。
きっと、入り口で騒いでいたのが中まで聞こえていたのだろう。
「は、はい。気をつけます……」
エリシャは苦笑いを浮かべて、頭を下げた。
利用者証と栞を受け取り、軽く会釈をしてから二人は書架フロアへと向かった。
二階への階段を登ると、空気の密度が少し変わる。足元の絨毯が音を吸い、本棚の影が長く伸びていた。
『古代遺跡・封印史料』と書かれた木札が吊るされた一角には、背の高い本棚がいくつも並び、背表紙に金の文字が整然と並んでいる。『ラゼリア王国古代遺跡誌』、『地方別遺跡一覧』、『封印遺跡編纂録』──どれも厚さは指二本分以上あった。重さも、それに比例するに違いない。
「わあ……」
早速エリシャの口から感嘆の声が漏れていた。今度は辛うじて音量を抑えているあたり、司書の忠告が効いているらしい。
彼女は棚の前に立つと、片っ端から背表紙に指を滑らせていった。
「『ノア=セリア』については書いてあるのは……あっ、この『封印遺跡小事典』に索引がありましたよっ。それから『王国考古学年報』、こっちは──」
既に両腕に三冊ほど抱え込んでいる。視線はまだ棚を走っていた。
「待て。全部読む時間はないぞ」
アルドは小声で制した。
いくら時間があっても足りるはずがない。今日はあくまで入口だ。
「えっと……では、とりあえずノア=セリアが載っているものだけに絞ります」
そう言いつつも、彼女はさらに一冊引き抜いた。『最新封印遺跡研究』と銘打たれた、これまた分厚い論文集だ。腕の中の本の山が、限界ぎりぎりの高さに達する。
「それ以上抱えると落とすぞ。ほら、まずは卓を確保してからだ」
アルドは近くの閲覧卓を見つけ、椅子を二脚引き出した。エリシャがどさりと本を置くと、木の机が小さく軋む。栞とノートがその隙間に滑り込んだ。
まずは、王国考古学年報の最新号を開く。ページの端には年号と巻数、そして『特集:新発見封印遺跡ノア=セリア』の文字が踊っていた。
(やはり、話題になっているな)
目次には、『位置と地質学的特徴』『封印構造の概略』『初期調査隊報告』『魔力反応と危険度評価』といった項目がずらりと並んでいる。その中から、『封印構造の概略』と『初期調査隊報告』のページを開いた。
見慣れた遺跡の平面図が、墨線で描かれている。円形の広間、その周囲を取り囲むように配置された回廊。中央部には、アルドたちが戦った守護獣がいたとおぼしき空白が残されていた。
図の側には、簡潔な説明文が添えられている。
『ノア=セリアは、古代王国期の封印施設と推定される。その封印構造は、多重の魔法陣および物理的障壁から成り、特筆すべきは言語情報を媒介とする封印術式の存在である──』
早速、気になる単語が出てきた。
「……やはり、あの遺跡の封印構造は言語情報が核になっているようだな」
アルドは思わず呟いていた。指先で図の一部──魔法陣の外周に描かれた小さな文字列をなぞる。そこには、見覚えのある曲線と角張りが混在していた。
「守護獣の身体の中を走っていたあの文字……やっぱり古代語だったんですね」
エリシャが、アルドの視線を追って身を乗り出す。
あの時、守護獣の身体内部を走っていた光の文字列と同じ形のものが、ここにも描かれていた。
守護獣の体内を縦横に駆け巡っていた光の線。それは単なる魔力の流れではなく、文字列そのものが命令信号の役目を果たしていたのだと、この図は示している。
論文には続きがあった。
『本封印施設における魔法陣は、従来の封印術と比較しても極めて高度な言語構造を有している。魔力回路と並行して刻まれた文字列は、現行の王国共通語とも古語とも一致せず、既知の古代語系統の一派と推測されるが、その全容は未解読である』
古代語。アルドが昨日から口にしている仮称と同じ単語が、ここでも使われていた。ただし、この論文の執筆者たちにとっても、それはまだ推測の域を出ていないようだ。
『なお、本稿では仮に本文字体系を「ノア=セリア系古代語」と呼称するが、その系譜については──』
そこまで読んだところで、ページの下部に小さな脚注が目に入った。
『※本文字体系については、後述する神代語仮説との関連も指摘されているが、本稿では紙幅の都合上詳細な言及を避ける』
神代語仮説……?
聞き慣れない単語だった。神代。神々の時代。神話に語られる、世界創成の頃の言葉──そういった連想が、自然と浮かぶ。
エリシャも脚注に目を留めたようで、指先でそこを軽く叩いた。
「後述するってことは、どこかに詳しい説明があるんですよね?」
「そう書いてあるな。……だが、この号では触りだけかもしれん」
アルドは目次をもう一度ざっと追う。たしかに巻末近くに『言語構造から見た封印術の一考察』という論考があり、その中に小さく『神代語仮説』の文字があった。
(神代の言葉、か。それを元にした封印構造……)
ページの上で、守護獣の図と古代文字の断片が静かに紙の上に佇んでいる。昨日、遺跡の中で肌で感じた『選別する』という声。詠唱抜きで世界を動かしたあの違和感。それらが、すべてこの『言語情報』という言葉に束ねられていく感覚があった。
無詠唱で魔法が発動するのではなく、初めから世界の側に刻まれている言葉。それを、どこかで誰かが『神代語』と呼んだのだとしたら?
胸の奥で、長い間止まっていた歯車が一つ、かちりと噛み合う音がした気がした。
「先生?」
エリシャが不安そうに覗き込む。アルドはハッとして、本から視線を外した。
「……いや。少し、面白い言葉が目についてな」
そう言って、脚注の『神代語仮説』の文字を指先で軽く叩いた。
「まずは、ここからだ。この仮説とやらを追いかけてみる価値はある」
古代語と封印術。それから神代語仮説。
まだ断片に過ぎないそれらが、どんな全体像へと繋がっていくのか……。
アルドは、ページをめくる指先に、いつの間にか僅かな高揚を感じていた。
それはいつか、魔法に出会ったばかりの頃のようだった。




