第21話 弟子に管理される師
翌朝の食堂は、まだ湯気の立つパンとスープの匂いで満ちていた。
大鍋の蓋が持ち上がるたびに香草の香りがふわりと広がる。木の窓から差し込む光が埃を細い筋にして、テーブルの上を斜めに渡っていった。常連らしい商人たちがパンをかじりながら今日の相場を語り合い、旅装の男たちが地図を広げている。
アルドは、壁際の隅の席で黒い液体を啜っていた。苦味の深いコーヒーだ。眠気を追い払うよりも、頭の奥の歯車を静かに噛み合わせるための一杯。口に含むと舌の上に重い苦味が落ち、その下で思考の流れがゆっくりと澄んでいく。
封印の遺跡ノア=セリアと古代語。それから、アルドの無詠唱魔法。
カップの縁を指でなぞりながら、昨夜の会話の断片を反芻していたところに、軽い足音が近づいてきた。
「先生、ノートとペンと……あ、栞も一応持ってきました!」
向かいの席で、エリシャが小さな鞄の中身を一つずつ取り出しては机に並べていく。
革表紙のノート、数本の羽ペン、インク壺、色付きの紙片。さらに小さな紐つきの栞が何枚も、色ごとに分けられている。まるで移動式書斎だ。
昨夜の「研究の日々宣言」を受けてか、エリシャは妙に張り切っていた。その緑眼がいつも以上にきらきらしているのは、決して気のせいではない。
「……栞はそんなに要らんだろう」
机の上に広がる色の洪水に、アルドは思わず眉を顰める。
ページを挟む紙切れごときで、机上の作業スペースが圧迫される未来が見えた。
「いいえ、必要です。ページをまたいで参照する時に便利なんですよ。それに、こういうのって並べているだけでテンション上がりますし」
エリシャは少し咎めるような表情を作って反論しつつ、最後の『テンション上がりますし』でにっこりと嬉しそうな笑みを浮かべた。
どうやら、本気で言っているらしい。色とりどりの紙片を指で弾きながらも、どこか誇らしげだ。研究や勉強に向かう儀式のようなものなのだろう。
アルドは軽く肩を竦め、コーヒーをもう一口飲んだ。口の中の苦味と、向かいの席の賑やかさが妙な対比を成していた。
「今日は図書館の利用登録と、ノア=セリアの資料漁りだな」
カップをソーサーに戻しながら、今日の方針を確認する。
まずは市の大図書館で利用者登録を済ませ、一般開架のほか、可能であれば学術資料室にも入れるようにしたい。ノア=セリアに関する報告書や論文、それから封印術・古代語についての基礎文献を押さえるのが第一段階だ。
「冒険も楽しいですけど、やっぱり本に囲まれるのも落ち着きますね」
エリシャはどこか遠くを見るような目で言った。
視線の先には湯気の立つスープしかないのに、きっと彼女の脳裏には、高い書架と積まれた本の山が浮かんでいるのだろう。
「……俺たちにとっては、こっちが本職みたいなものだからな」
アルドはパンを割りながら返す。ぱき、と良い音を立てて白い中身が露わになり、香ばしい香りが鼻をかすめた。
昨夜の戦いぶりからしても、彼女は戦闘の才を大いに持っている。あの守護獣の無詠唱魔法に即興で対応し、詠唱を限界まで削って対処した判断は、並の学生ではできない芸当だ。
それでも、こうして『本に囲まれる方が落ち着く』と言うあたり、根っこはやはり研究者なのだろう。
(それは……正直、少し安心する)
戦場に出れば、いつかは失う。どんなに腕が立とうと、魔力に恵まれようと、運が悪ければそれで終わりだ。失うための道を選ばせるには、あまりにも惜しい才だった。
だが、書架に籠るなら、失う代わりに積み重ねていける。ページをめくるごとに、昨日よりも理解が深まり、術式が洗練されていく。教える側としても、生徒の未来を削るより、積む方を選べるのは悪くない。
まあ、それを言うなら、冒険者稼業や危険な遺跡探索に弟子を付き合わせるのはどうなんだ、という話にもなってくるが。ただ、今のところ、彼女がそれを嫌がっている気配もなかった。
「さっさと食え。午前中のうちに登録まで済ませたい」
「はい!」
エリシャは元気よく返事をし、パンを頬張る速度も、いつもより気持ち早かった。
アルドもスープを口に運ぶ。程よく冷めた野菜スープは、昨夜の疲れをじんわりと溶かしてくれるようだった。塩気と香草が喉を通るたびに、頭の中の曇りが一枚ずつ剥がれていく。
ひとしきりパンとスープを片づけると、エリシャは小さく気合を入れて立ち上がった。椅子が軽く後ろに引かれ、木の床がきゅっと鳴る。
「先生、ちょっとだけ台所、借りてきてもいいですか?」
「台所? 朝食は今食べたばかりだろう」
こんがり焼けたパン籠は空っぽになっている。腹は十分満たされていたはずだが、とアルドは首を傾げた。
「違いますってば。昨日、言ったじゃないですか。図書館に籠るなら、お弁当を用意しないとって」
「……覚えてやがったか」
「忘れるわけないじゃないですか。授業をすっぽかした教師なんて、先生以外いませんでしたよ?」
エリシャが悪戯っぽく笑った。
実際に、その授業をすっぽかした件では学院長から酷く叱られたものだ。
きっと、研究に没頭する度にこの話でいじられるのだろう。どこかで挽回しておかないと、一生言われそうだ。
「宿の女将さんに、簡単なものなら自分で詰めていいって許可もらいましたし。余ってるパンと、ゆで卵と……あとはスープを少し分けてもらって」
完全に段取り済みらしい。女将ともすっかり仲良くなっているようで、カウンターの向こうから時折こちらに視線と笑みが飛んでくる。
アルドは思わず額に手をやった。
「……そこまでして管理される師というのも、どうなんだろうな」
研究者としての自尊心が、ほんの僅かにむず痒さを訴える。かつては自分の食事も睡眠も、自分で管理していたはずなのに。
いや、自己管理ができていなかったからこうして弟子に管理される羽目になっているのか。
「倒れられるより、ずっといいです」
きっぱりと言い切ると、エリシャは空になった皿を抱えて奥の厨房の方へ走っていく。
ローブの裾がふわりと揺れ、白銀の髪が背中で跳ねた。
カウンターの向こうで女将が笑いながら何か声を掛け、それに元気よく返事をする声が聞こえた。卵を数える声、木の器が重なる音、鍋の蓋が持ち上がる音──それらが食堂のざわめきに解けていく。
そのやりとりを耳の端で聞きながら、アルドはコーヒーを飲み干した。すでに冷めかけた苦味が、喉をゆっくりと落ちていく。
(……弟子にここまで気を遣わせているあたり、俺の研究の仕方にも問題があるのかもしれん)
学院図書館に通っていた頃、何度も司書に「閉館ですよ」と肩を叩かれた記憶がある。腹が鳴っているのに、気付くのは最後のページを読み切った後だ。
そう思いつつも、止める気はあまり起きなかった。自分では気付かないところを補ってくれるのなら、それもまた、師弟という関係性の一つの形だろう。
早々に朝食を終えた他の宿泊客たちが席を立ち始め、食堂は少しずつ静けさを取り戻していく。窓からの光も高くなり、埃の筋がさっきよりも白く細くなっていた。
ほどなくして、エリシャが戻ってきた。手には布で包まれた小さな包みをひとつ提げている。宿の紋章が刺繍された布でふんわりと巻かれ、その端をしっかりと結んであった。
「できました。簡単ですけど……お昼になったら一緒に食べましょう」
「ああ。世話になるな」
素直に礼を言うと、エリシャは嬉しそうに包みを胸に抱き直した。
その仕草が、何だかいつも以上に弾んで見えた。
「じゃあ、行きましょうか」
エリシャが鞄の口を締め、ノートとペンを丁寧に収める。色とりどりの栞も、用途別に分けられて革のポケットに滑り込んだ。
アルドは椅子から立ち上がり、会計を済ませた。
扉を押し開けると、朝の街路が広がっていた。石畳の隙間には夜露の光がまだ残り、店先には半開きの扉と新しいパン籠が並び始めている。行商人の声が遠くで上がり、荷車の車輪がごろごろと音を立てながら通り過ぎていった。
昨日のように慌ただしくなく、穏やかな朝の空気が頬を撫でる、新しい一日の始まりの匂いだ。
エリシャが隣に並び、布包みを片手に、もう片方の手でローブの襟を掻き合わせた。白銀の髪は陽光を受けて淡く輝き、その瞳には期待と好奇心が詰まっている。
「リーヴェの図書館って、どれくらい大きいんでしょう?」
「確か、かなりの規模だったはずだぞ。一般書も多く取り扱っている分、学院の図書館よりも大きかったのは覚えている」
「学院の図書館も相当でしたけど……それよりもですか。凄く楽しみです」
エリシャの声が弾む。冒険に向かうときの高揚とは、また少し違う種類の熱。未知の敵ではなく、未知の知識に会いに行くための熱。
アルドもエリシャも、こちらの方が合っている。それを再確認できたようで、妙に嬉しかった。
(さて……古代文字の謎を、解き明かしてやろうじゃないか)
ふたりで宿を後にし、朝の石畳の上を歩き出す。目指す先は、市立図書館。文字と紙でできた、新たな迷宮だった。




