第20話 無詠唱とは。詠唱とは。
宿屋の階段は、夜更けの木が鳴くようにきしり、手すりに触れれば昼の熱の名残がほのかに温かい。廊下の奥、昨日と同じ扉の前で、アルドは一拍だけ呼吸を整えた。
今日こそは別室を、と淡い期待を抱いて女将に尋ねた。
『ごめんなさいね。今日も満室なんです』
返ってきたのは昨日と寸分違わぬ笑顔と、寸分違わぬ言葉。いや、どこか楽しげな笑みだったかもしれない。
結局、エリシャと今日も同室で過ごすことになった。
(……別に、やましいことは何もない。ないのだが)
扉を開けると、いつもの二つの寝台と、窓辺の小卓。
ランプを灯すと琥珀の円が壁に揺れ、浴場帰りの湯気の匂いがまだ薄く漂っていた。先に風呂を終えたエリシャは、薄手の貸しローブに身を包み、濡れた白銀の髪をタオルで押さえている。お風呂上がりで頬が火照っていて、貸しローブが昨日以上に色っぽく感じてしまってどぎまぎする。
「あの、先生。すみません、今日もお願いします」
「あ、ああ」
椅子を窓辺に引き、エリシャを座らせる。アルドは背後に立ち、手のひらを柔らかく開いた。
昨日と同じように、温風をふわりと彼女の髪へと送り込む。水滴が微かな音で解け、首筋の肌に小さな粟が立つのが、間近な距離のせいで見えてしまう。
(落ち着け。髪を乾かすくらい、昨日もやっただろう)
そう自分に言い聞かせながら、アルドは指先に微弱な風の陣を組んだ。昨日よりも細かく、より低温で、湿り気だけを攫う風。が──昨日よりも緊張してしまっているのは、何故だろうか?
一方のエリシャは、心地よさそうに目を細めていた。耳の付け根に触れる風の温度を確かめるように、肩の力を抜いている。
アルドは適度に風の角度を変え、温度を少し落とした。細い髪の束が指の関節を撫でていく。むず痒い。手のひらなのか、胸の奥なのか自分でも判然としなかった。
(早く髪ぐらい自分で乾かせるようになってもらわねば。俺の心臓が持たんぞ)
やっていることは昨日と変わらないはずなのに、今日はやたらと余計な情報を拾ってしまう。温度、湿度、香草の石鹸の匂い、首筋に残る湯気の輪郭、そして視界の端に時折覗く、ローブの合わせ目の影。……いや、これらの情報は昨日も十分拾っていたか。
「先生?」
「む! な、なんだ!?」
胸元の谷間に目がいきそうだった時に声を掛けられ、思わずびくりとする。魔力の風が一瞬揺らぎ、慌てて制御を立て直した。
エリシャはアルドの反応を怪訝そうにしつつも、おずおずと訊いてきた。
「あの……無詠唱魔法というのは、一体何なんでしょう? あの守護獣、先生と同じやり方で無詠唱魔法を扱っていましたよね?」
髪を乾かすアルドの手が思わず止まる。風が弱まり、細い髪束が肩に落ちた。
やはり、エリシャも気付いていたようだ。アルドの中にあるものと、遺跡との共通性に。だが、今日の一連の出来事を思い出せば、関連付けないという方が無理なのかもしれない。
彼女の髪を乾かすのを再開し、アルドは正直に言った。
「そうだな……その質問に対しては『わからん』という答えしか返せないのが正直なところだ。それが今の俺の無詠唱魔法への理解度と思ってくれていい。そもそも、使用者である俺がほとんどわかっていないからな」
「わからないまま、使えるようになったんですか!?」
エリシャが吃驚の声を漏らした。背後から振り向こうとする気配を手で制しつつ、苦笑いを漏らす。
まあ、その反応が普通だろう。
「そうだな……こうしてついて来てくれてるんだ。お前には全て話しておいた方がよさそうだな」
ここは宿屋であるし、ふたりきりの空間でもある。
扉の隙間から廊下の気配を探るが、人影は遠かった。誰かに聞かれることはない。
それから、アルドは初めて無詠唱魔法について他者に話した。言葉にするほど、己の輪郭が露わになるような、奇妙な落ち着かなさ。だが、弟子に隠し通す理由もない。
学院に入学したばかりの幼少期の頃から、『詠唱とは何か?』について思いを馳せていたこと。学院に入学して以降は図書館に篭り切り、研究に勤しんだこと。それから──そうして研究を重ねるうちに、詠唱文を『言葉の並び』としてではなく、『意味構造』として分解するという発想に至ったこと。そして、通常の詠唱文の奥に隠された『根源言語』に感覚的に気付いたこと。それから、その理解は論理として理解したのではなく、直感的共鳴のようなものだったことまで、全て。
説明しながらも、彼女の髪には温風を送り続けていた。風の温度をわずかに下げ、毛先を指で梳く。髪は陽だまりの繊維のように軽くなりつつあった。
「意味構造として分解? すみません……全然、わからないんですけど」
「だろうな」
アルドは思わず笑ってしまった。実際に自分で説明するのも難しい。
あの当時も、言語学の棚で長椅子に沈み、閉館の鐘が鳴るまでページの上でしか進まない議論を何度も繰り返した。紙の上では到達できなかったのに、ある日突然、何かが舌の奥へ落ちてきたのだ。
「まあ、わかりやすく言うと……言葉で命じる前に、世界の理を理解できるようになった、という感覚だ。それを得てから、俺は詠唱を省略できるようになった。それが、無詠唱魔法の正体だ」
「言葉で命じる前に、世界の理を理解……? そんな領域に、今の私よりも若い頃に至っていたんですか? やっぱり、先生は化け物ですよ……」
エリシャが呆れたように言うので、アルドも負けじと言い返す。
「それでいうと、お前の方が化け物だぞ。学院での成績でいうなら、俺はせいぜい中の上だったからな。決して優秀な学生ではなかった」
実際に、在学中にアルドの成績は上位組には至らなかった。ぎりぎり上位に入るか入らないか、という具合。課題は期限通りに出したが、常に「あと半歩」の評価がつきまとった。少なくとも、成績表の上では。危ない実験の点数なんて、まともに加点してもらえない。評価基準がアルドに合っていなかったのだ。
それでいうと、学院の成績でいえば、エリシャの方が遥かに優秀だ。実際に、それは魔法の精度から見てもわかる。アルドは魔法の精度でいえば、現時点でエリシャには敵わない。それを今日は実感した。
「でも、私は先生の域にはまだ辿り着けていません」
「それは仕方ないな。考え方というか、発想がそもそも違う」
「発想?」
「ああ、そうだ」
毛先の水気が抜けきったのを確かめ、アルドは風を収めた。手のひらの温度が自分のものに戻り、静けさが部屋に降りる。
ちょうど良い具合に彼女の髪も乾き終えたので、アルドはベッドに腰掛けた。エリシャも椅子の向きを変えて、アルドと向かい合う。
濡れ髪は今や柔らかに光り、薄いローブの袖口から覗く手首に湯上がりの色が残っていた。
「俺はただ、詠唱というものにひたすら拘って、追究していただけなんだ。詠唱とは何か、とな。そしてその答えに辿り着いて、結果として無詠唱魔法を習得したに過ぎない」
「い、いやいや! だからそれが凄すぎるんですってば! そんなの、魔法学会の全てがひっくり返ってしまいますよ!?」
エリシャが慌てふためいた。その拍子に、薄い袖がひらりと踊る。
ローブの合わせ目が危うい角度で揺れるので、アルドは視線をそっと窓の外へ逃した。
「そう。学会がひっくり返る。それこそが、俺の研究が進まなかった原因でもあった」
詠唱なしで魔法を発動させるなど、学会では禁忌中の禁忌。それは、悪魔の所業、或いは神の領分とされている。
学生だった自分がそれを口にすれば、石を投げられずとも、石の沈黙に囲まれるのが目に見えていた。いや、魔法を学ぶことさえ禁じられていたかもしれない。
だからこそ、アルドは誰にも無詠唱魔法については言えなかったし、独自にそれ以上の研究を進めることもできなかった。論文の形にも講義の形にも落とし込めず、悶々と考えるだけだったのだ。
「訊いてもいいですか?」
「俺にわかることならな」
「詠唱って……何なんですか?」
弟子からの問いに、思わず苦笑いが漏れた。
そう。その問いから、アルドの魔法学は始まった。そして、その道の終わりはまだ見えていない。
「あくまでも俺の理解にしか過ぎないが」
そう前置いてから、アルドは続けた。
「詠唱とは、世界を説得する行為に過ぎないんだ。俺の場合は、説得する前に世界が頷いてくれるだけの話だよ」
「世界を説得……」
アルドの言葉を繰り返し、エリシャは考え込むようにして顎に手を当てた。指先が唇の前で止まり、緑の瞳が少しだけ泳ぐ。
多分、エリシャがこれを理解するのはまだ難しい。
彼女はアルドの無詠唱魔法を見て、詠唱をとにかく短くすることで無詠唱魔法に近づこうとしていた。それは今日の戦いを見ていてもわかる。
だが、根本的にアプローチが違うのだ。そのやり方では、どうやっても無詠唱魔法は体得できない。そして、そのやり方を今の彼女に言ったとて、おそらく解決には至らないだろう。
こればっかりは、考えて理解し、自分で至るしかない。
「すまんが、そうとしか言えないんだ。要するに俺は……途中式が何もわからないのに、直感で答えを導き出してしまっただけだからな。だから、その途中式をずっと、求めている」
「先生……」
エリシャがそんなアルドを見て、辛そうな顔をした。
慰めではなく、理解したいという顔。それは嬉しくもあり、説明できない自分にもどかしさも感じた。
アルドが禁呪を専攻としていたのも、禁呪という側面からこの無詠唱魔法に辿り着けるのではないか、と思い至ったからだった。禁忌に触れる魔法だからこそ、学会のタブーに辿り着けるのではないか、と。結局、その結果は出ないまま学院を出ることになったのだが。
「だが──今日、ようやくそのヒントが見つかった」
「それが、古代語ですか?」
「多分な」
アルドは言って、腕を組んだ。
封印の遺跡ノア=セリアと、守護獣の命令波。それから、壁に浮いた古代の浮き彫りが与えた選定の声。
確証はないが、無詠唱魔法と古代語に関連性は確かに見出した。あの守護獣が無詠唱魔法を使っていたのがその証拠だ。
窓の外で風が変わった。夜の層が一段濃くなり、ランプの炎がほんの少し背伸びをする。
「エリシャ、明日から冒険者活動は打ち止めだ。暫く図書館に篭るぞ。俺の研究に付き合ってくれ」
「もちろんです!」
アルドの願いに、エリシャは嬉しそうに頷いた。
師の力になれることが嬉しいのだろう。彼女にとっても、戦いは道であって目的ではない。探究の火が、二つの灯に分かれて同じ方向を照らした。
静けさが降りた。言うべきことは言った、という種類の静けさ。窓辺のカーテンが微かに揺れ、外の夜気が肌を撫でる。アルドは立ち上がり、水差しからコップに水を注いでひと口飲んだ。喉を落ちる冷たさに、昼の残滓が剥がれていく。
エリシャが何かを思い出したように「あっ」と声を上げた。
「どうした?」
「図書館に篭るなら、お弁当を用意しないとですね」
「弁当? 何故だ?」
「だって先生、読み始めるとご飯食べるの忘れるじゃないですか。だから、いつでも食べれるように、と」
エリシャが悪戯っぽく笑って言う。
図星だった。一度睡眠と食事を全て忘れて研究に没頭していたせいで倒れてしまい、一度授業をすっぽかしてしまったことがあったが……そういえば、あの授業は彼女も受けていたのだった。
アルドは咳払いでごまかし、寝台のランプに手を伸ばした。
「無駄話はいいから、もう消すぞ。明日も早いからな」
「はい。おやすみなさい」
「おやすみ」
ランプを落とすと、窓の外の月光だけが薄く残った。
寝返りの衣擦れが二度、三度。しばらくして、規則的な呼吸が隣の寝台から聞こえてくる。
なんだかんだ、昨日に続いて今日も眠気が限界だったようだ。アルドも今日はさすがに眠い。
(やれやれ。すっかりと、俺も弟子に振り回されているな)
闇に目を閉じると、胸の拍はようやく一定になった。
むず痒さは、眠りの手前でやわらかい重さに変わって。
アルドは、少しだけ口元を緩めたまま、静かな眠りへ落ちていった。




