第19話 弟子とディナー
川筋に沿って石畳を下ると、涼しい風が頬を撫でた。
水面には灯が千切れて流れ、橋の欄干に吊るされたランタンが一つずつ夜を点じていく。水門亭はその橋のたもと、木組みの二階家だ。表に掲げられた丸い看板に水車の印が描かれている。戸口からは炙り肉の香りと香草の湯気がこぼれ、腹の底が素直に鳴いた。
戸を引くと、内の喧噪が温かく押し寄せた。磨かれた長いカウンター、梁に吊るされた乾いた香草束、壁の黒板には手書きの献立。甲冑の金具がきらりと灯を弾き、店の者が一斉にこちらへ視線を上げる。見慣れぬ顔を値踏みする──いつもの酒場の視線だ、と思った矢先。
「おや、もしかして……北門のワイバーンを片づけたっていう魔導師のふたり組じゃないですか?」
先に声を掛けたのは、若い男性店員だった。こちらが否定する間もなく、奥に向かって声が飛ぶ。
「マスターさん、例の人たちが来ましたよ!」
奥から釜戸の湯気の向こうに、瘦せ型のマスターが顔を出した。頬にかかった汗を布で拭い、こちらの姿を見た途端に手を打つ。
「おお、あんたらが例の救世主か。俺は北区に住んでてな。あんたらの活躍は、しかと拝ませてもらってたんだ」
どうやら、今朝の戦いをしっかりとこの店のマスターに見られていたらしい。
それならば、否定のしようがない。
「こいつは運がいい。ちょうど川べりのテラス席が空いてるんだ。VIP席ってやつさ。あんたらに使わせてやるよ」
VIP──何やら落ち着かない言葉が耳に残る。気後れする間もなく、マスターは笑顔で踵を返した。
ただ、他人の親切を無碍に断る理由も特にない。アルドはエリシャに目で合図し、そのあとに従った。
通路の突き当たりでガラス戸が開き、夜風がふっと入り込んできた。川辺の木張りのテラスには小ぶりの丸卓が等間隔に並び、卓上の小さなランタンが琥珀の灯を湛える。川向こうの窓々もまた、こちらを映すように灯っていた。思っていた以上にお洒落だ。細工の椅子の座面がやわらかく、卓には花が一本、細い硝子に挿してあった。
「どうぞ。今夜は風が気持ちいいからな。ゆっくりするといい」
マスターが奥へ引っ込み、控えていた若い給仕が水差しを置いて、所在無さげにこちらを見る。
視線の端で、テラスの他の席がするりと目に入った。男女が向かい合い、杯を寄せ、あるいは肩を寄せ……。
隣で椅子に腰を下ろしたエリシャが、そっと袖を引いた。
「な、何だかカップルばかりですね……」
言われてみれば、確かにそうだった。笑い声が風に溶け、グラスの触れ合う高い音。どの席も二人、その距離は近い。
アルドは一拍だけ遅れて居心地の悪さを自覚した。先ほどアリアが口にした『デート』の単語が、遅れて頭の中に戻ってくる。
「こんなことなら、もう少しお洒落をしてくればよかったです。お風呂も入りたかったですし」
エリシャは自分の服を見下ろし、髪に手を当てた。
彼女が纏う学院生用のローブには遺跡の粉塵がまだ少し残っていて、その白銀の髪もほんの少しパサついている。周囲のドレスや上等な上着の光沢と比べれば、確かに粗い。
アルドは呆れて言った。
「なんだ、お前。研究者志望だったのに、そんなことを気にしているのか?」
「気にするに決まってるじゃないですかッ。研究者だとか魔導師だとか、そんなの関係ありません!」
エリシャがぷりぷりと怒って言う。
何故か叱られてしまった。全く意味がわからない。
アルドの同僚にも、女性の研究者はいた。皆、ローブは墨や埃で汚れ、髪は結わえっぱなし、論文が乾けばそれで満足、という顔だったように思うのだが──まだ彼女はそこまで女を捨てられていない、ということだろうか。それとも、あの同僚たちも昔はこうだった、とか?
ただ、気を損ねたことだけは確かだ。アルドは咳払いをし、正面から彼女を見る。
「まあ、その……なんだ。俺は別に、気にしないぞ」
「え?」
「服がいくら汚れていようとも、お前が優秀であることには変わらないからな。むしろ、その汚れはお前の頑張りの証でもある。恥じる必要なんて、どこにもないだろう?」
「……もう。そういうことじゃないんですってば」
言葉では拗ねているのに、口元はどう見ても緩んでいた。
頬の紅は、怒りではなくどこか恥ずかしそうなものだった。
「ん? そうなのか?」
「はい。先生って、鈍いですよね」
どこか呆れた様子で、エリシャがくすくす笑った。
何が言いたいのかは、やっぱりよくわからない。弟子との会話は、古代語より難解だ。
「ご注文はこちらからどうぞ」
給仕がメニューを二冊置いてから、後ろに控えた。
磨かれた革表紙。中は花の名前や地名が添えられた料理名が並び、修飾が多すぎて要領を得ない。魚は『川の貴婦人』、肉は『伝承の炎で炙った』、煮込みは『祖母の腕』。
(……うむ、さっぱりわからん)
話題を変えるように、アルドは彼女のローブに視線を落とした。
「ちょうど服の話になったので訊くが、新しいローブは買わないのか? それ、学院の生徒用のローブだろう?」
ネクタイもスカートも学院指定のものだ。背中の縫い目でわかるし、胸元には小さくロゴも入っている。
「あっ……やっぱりまずいですか? もう学校辞めたのに」
エリシャは気まずそうに自分の服を見下ろした。
「いや、そういうわけでもないが。ローブは卒業後にも着ている奴もいるしな」
学院のローブや制服を私服として着用することを禁ずる規則はない。もちろん、卒業後や退学した生徒が着ることも、問題はなかった。
ただ、あまり好き好んで着ている人が少ないのも事実。どちらかというと、その制服や学院用ローブは自らが未熟な魔導師である証でもあるからだ。
「何だったら、明日新しいローブを買うか? ローブや服くらいなら、何着か買ってやるぞ」
そう提案してやると、エリシャは迷ったように俯いた。言葉を選ぶ間をとってから顔を上げる。
「……いえ。やっぱり、これがいいです」
彼女は少しだけ胸元を整え、きっぱりと言い切った。
少し意外な返答だ。てっきりお金の面で遠慮しているのかと思ったのに。
「私、この制服とローブ、結構好きなんですよ」
エリシャが言って、自らのローブを撫でた。その頬には柔らかな笑みが浮かんでいる。どこか幸せそうだ。
「それはまた物好きだな。理由は訊いていいか?」
アルドは肩を竦めて訊いた。知る限り、アルケイン学院の制服は機能が最優先で、可愛げは二の次三の次だった。
他の学校の制服の方が可愛いのだと嘆く女生徒の声を幾度か耳にした覚えもある。
彼女は言った。
「だって、この制服のお陰ですから」
「ん?」
「私を助けてくれた人がこの制服を着てて……だから、私もこの学校に入ろうって。そう思えたんです」
細い声で、しかしまっすぐに。エリシャは少し照れたように頬を掻き、こちらを見た。
「ああ……その、なるほど、な」
喉の奥がくすぐったくなり、視線のやり場に困る。
十年前、彼女を救った頃のアルドはまだ学生で、確かにアルケイン学院の制服を纏っていた。あの時のアルドの服装を見て、彼女は自らの進路を決めたというのか。もしかすると、思っていた以上にアルドとエリシャの繋がりは深かったのかもしれない。
「だから……今の私がいるのは、先生がこの制服を着てたお陰なんです」
その思考を肯定するように、エリシャは嫣然と笑って言った。
灯が瞳の底で揺れて、川風が彼女の髪を少しだけ動かした。その時の弟子が妙に色っぽくて、胸にこそばゆい何かが広がる。
アルドは咳払いをして、メニューを差し出した。
「ほら、何でも好きなものを頼め。今日はお前の成長祝いだからな」
「は、はい! えっと……でも私、こういったお店に来たのが初めてで」
わからないんです、と彼女は眉を八の字にして付け足した。
確かに、ここのメニューは修飾語が邪魔をし過ぎてどれも味が想像できない。
「……じゃあ、コースにしとくか」
結局、マスターに尋ね、魚と肉が順に出る無難なコースを選んだ。前菜とスープ、魚、肉、甘味。それにパンと、果実酒を薄く割ったものを少々。エリシャは「お酒、初めてです」と言ったが、杯の縁にそっと唇を当てる仕草は妙に色っぽかった。
最初に来たのは木の皿に並ぶ前菜。薄く切った燻製肉に、酸味のある小さな果実と、白いチーズ。エリシャは恐る恐る一切れ口に運び、すぐに表情を綻ばせた。
続くのは季節の野菜のスープ。湯気の向こう、彼女の頬がさらに赤みを増したのは、熱のせいか、杯のせいか。
アルドは匙を入れながら、そんな彼女の表情を楽しんだ。
それからも運ばれてくる料理はどれも美味しく、エリシャは喜んで食べてくれていた。アルドも大満足。アリアおすすめというだけのことはある。
会計を済ませてマスターに礼を言うと、「また来てくださいよ」と細い手で背をそっと押された。
テラスを離れ、ガラス戸が閉まる時、川面の灯が揺れてこちらを見送ったように見えた。
石畳へ出ると、夜気は少し冷たい。エリシャがローブの襟を指で寄せた。
「先生」
「うん?」
「ご馳走様でした。とっても……美味しかったです」
相変わらず嬉しそうに、それでいてどこか恥ずかしそうに笑って。
そんな笑顔に、鼓動が少し速くなる。
「ああ。また行こうな」
アルドは言って、歩幅を彼女に合わせた。
一瞬抱いてしまうこのあたたかさや心地よさは、弟子に抱くそれなのか、それとも──?
あまり深くは考えたくなかった。




