第16話 才女の戦いと師匠の解析
エリシャは空中で身体の向きを切り替え、守護獣と真正面から対峙した。
視線は迷いがなく、指先だけが微細に震えている。目を見る限り、それは恐れの震えではなかった。高揚感からくる武者震い、といった感じだろうか。
先に動いたのは、守護獣だった。蛇の尾の紅玉が瞬き、胸部の魔法陣がどくりと打つ。直後、空気の芯が歪んだ。
無詠唱魔法だ。圧縮された風塊が無音で生成され、弾丸のようにエリシャの顔面を薙ぎ取る軌道で迫った。
「我を守れ!」
エリシャの唇が一語だけ刻んで、〈魔法障壁〉を発動させた。
六角形の紋様が次々と重なり、風弾はぱしゅっと湿った音を立てて無害な霧となって弾ける。次の瞬間、床面が持ち上がり、小石が散弾のように噴き上がった。蛇尾が横薙ぎに撓み、石の刃が風を裂く。
エリシャはそれらの魔法を、〈魔法障壁〉で防いでいった。
今度は斜め下。足の甲ぎりぎりに薄片のような障壁を差し込み、石礫の大半を逸らす。逸らし切れぬ欠片が脛を掠めたが、彼女は眉ひとつ動かさず距離を詰め、最短詠唱で反撃の矢を投げ返した。
「貫け!」
過不足ない音節で、〈雷槍〉を唱える。
魔力の流し込みは必要最小限。先刻のような威力は狙わず、敢えて小出力で速度を優先した雷は、守護獣の視覚を白で灼き、尾の軌道を一拍狂わせる。続けざま、指先で石床の砂を弾き、足場を滑らせた。
「砕けろ──〈石弾〉!」
粒の連鎖が蛇の眼を叩き、紅が一瞬だけ滲む。
エリシャの戦い方は、実に時間稼ぎに徹した戦い方だった。敵の反射を測り、間合いを測る。真正面の押し合いを避け、常に半身の斜角で圧を掛けていた。
守護獣は反撃で炎の舌先を閃かせた。熱が押し寄せる。
しかし、彼女はそれも〈魔法障壁〉で防いだ。熱流の核だけを遮断し、周縁の温風は敢えて受ける。その気流に乗って上へ逃げ、尾の薙ぎ払いを天井の近くでやり過ごした。
才女の反撃は止まらない。〈風刃〉〈氷槍〉〈小火球〉など、どれも一言か二言の詠唱で済む最短の魔法で、攻め立てた。威力は控えめだが、弾幕の量と角度がいい。雷・風・氷・炎を交互に浴びせ、守護の綻びを探っている。
魔力の絶縁層は完璧ではない。エリシャはそれを短時間で見抜き、敢えて位相の異なる軽弾を散らすことで、守護獣の内部の負荷を増やしていた。
(……素晴らしい)
アルドは、無意識に息を細く吐いた。着弾の瞬間だけを〈魔法障壁〉で攻撃を防ぎ、最短詠唱に切り替えて反撃の手を緩めない。
そして何よりも、力の出し惜しみの仕方が美しかった。
攻めながらも、この才女はまだ温存させているのだ。無詠唱魔法の使い手と相対しているというのに、全力を出していない。それはおそらく、予測不可能な追撃や新手の出現を加味して戦っているのだろう。攻防に七割、残り三割を予備に回していた。
エリシャは間合いを切りながら、腰の小瓶をつまみ上げる。栓を歯で抜く音が、戦場の喧噪の中なのに妙にはっきりと耳に届いた。彼女の喉が上下し、眉がぴくりと跳ねる。あの最悪の味だ。だが彼女は顔を顰めた次の瞬間には、もう笑っていた。
(詠唱ありきの魔法戦では、もはやエリシャは俺よりも上だな)
認めざるを得なかった。無詠唱という異端を除けば、彼女は規範の中で可能な限界を既に越えつつあった。
着弾点の〈魔法障壁〉だけではない。〈雷槍〉〈風刃〉〈氷槍〉〈小火球〉〈石弾〉を全て最短の詠唱で済ませ、速さを重視した戦い方をしていた。
見覚えがあると思ったが、それもそのはず。これはアルドの戦い方に似ていたのだ。エリシャは無詠唱の即応を、詠唱の枠内で模倣していたのである。
百年にひとりの才女とはよく言ったものだ。魔法学院がアルドを除籍した一番の損失は、このエリシャ=リュミエールという天才を失ったことかもしれない。
守護獣の守りは、少しずつ歪みを見せ始めた。紅の眼窩に短いノイズ。胸の陣の拍がわずかに乱れていた。
「罪過は消滅せよ──〈神裁の雷〉!」
敵の守りが弱ったところを、エリシャ得意の〈神裁の雷〉が襲った。硬い殻の下に針穴ほどの焼痕を残す場面が増える。
このまま押し切れば、解析が完了する前に彼女ひとりで落としてしまうのではないか? そう思った矢先だった。
──空間そのものが震えた。
低い振動音が、広間の底から一気に満ちる。耳で聴くのではなく、骨で聴く、という感覚。内臓の裏側が細かく震え、視界の端が白く霞む。
「っ……!」
エリシャも咄嗟に耳を塞いだ。塞いでも、震えは止まらない。音ではないからだ。彼女の魔力の流れが一瞬だけ途切れ、詠唱が喉の手前でほどけ、攻撃が止まった。
狙い澄ましたかのように、守護獣の顎の奥で光が凝縮する。魔力が口の奥で集中し始めていた。
魔力砲だ。この規模で撃たれれば、エリシャなど粉みじんになってしまうだろう。
(まずい──ん?)
解析を解いて、守りに入ろうとした時だった。解析陣の針が、震動を運ぶ命令波に噛み合った。圧の底で意味が形を取る。
『侵入者、排除ス。封印、護ル』
単純で、純粋で、曇りのない命令。
からくりが、ひと筋にほどけた。
「……なるほど、そういうことか」
アルドは一歩、前に出た。広間の中央、守護獣とエリシャの間合いに身体を滑り込ませる。
手をかざし、意識の下で光陣を展開した。アルドの周囲で空気が透明に屈折し、床の砂が細かく震えた。
天井の文字環とアルドの呼吸が、一瞬だけ同期する。
「下がれ、エリシャ。あとは俺に任せろ」
「先生!? 何を──」
「簡単な話だ。護るために戦っているならば、同階層の管理命令で〝護る理〟そのものを書き換えてやればいい」
言いながら、胸の奥が静かに熱を帯びた。
ようやく、自分の無詠唱の奥にあるものへ手がかかった気がしたのだ。
「今、俺はこいつの放つ魔力波に乗っている古代語の命令構文を上書きしているんだ。『護ル』を『鎮メル』に、〝意味〟を置き換えてやる。そうすれば、こいつの役目は終わるからな」
守護獣の口奥で凝縮されていた光は、依然として強まっていた。時間はない。
アルドは光陣の針先を、あの胸の陣へ滑り込ませた。切り替えるのはただ一語のみ。
古代語の輪郭が、舌の上に現れた。門前と同じ現象だ。知らぬ言語のはずなのに、意味だけが先に在る。
アルドはそれを「読む」のではなく、触れた。触れた意味へ、自分の意味を重ねていく。『護ル』から、『鎮メル』へ。
拍がひとつ、変わった。
天井の文字環が、ぼうっと明滅し、広間の空気が一拍だけ落ち着いた。守護獣の胸の陣が、脈をやわらげる。
「逃がし」の層が、ふっと撫でられるように緩んだ。口腔の光は凝縮をやめ、液体のようにゆっくりと沈んでいく。蛇尾の紅が、薄まった。
身体全体に、柔い光が満ちた。守護獣は一歩、後ずさる。石の爪が床を掻き、同心円の彫り込みに白い粉が溜まっていた。胎児が眠りに落ちるときのような、抗いのない緩み。古代文字の血管が、今度は「攻」の拍ではなく、「休」の拍で脈を打つ。
『命令……完了……護リ、終エタ……』
意味は、淡い。深い井戸の底から上がってくる水の音のようだった。
胸の陣が最後の一拍を数え、石の身体の芯から力が抜ける。巨体が膝を折り、鬣が瓦礫のように崩れ、頭が床に触れた。
轟音が広間を満たし、粉塵が雨のように降り、やがて、静寂が戻る。
アルドは腕を下ろした。手のひらが少しだけ痺れて、額に汗が滲んだ。舌の奥に、知らない言葉の残り香が張り付いている。
「言葉に宿る力……。いや、やはり言葉の意味そのものが魔法の根源だったんだな。ようやく、俺は俺の力について少しわかった気がするよ」
誰にともなく呟き、額の汗を拭う。胸の鼓動は落ち着いているのに、頭の奥だけが熱かった。
門前での違和感、遺跡内の心地よさ、今の書き換え──どれも一本の筋で繋がっていた。だが、一本の筋が何に繋がっているのかは、まだ霧の向こうだ。
あくまでも、アルドはただ、指先で筋に触れたに過ぎない。
(俺はどうして古代語を理解できた?︎古代語と俺の無詠唱魔法は繋がっている、ということか……?)
問いは次々に生まれる。
わからないことが、あまりに多すぎた。
「あの、先生……?」
エリシャの声が、控えめに降りてきた。
振り向くと、彼女がきょとんとした顔で小首を傾げている。先ほどの轟音で白い粉塵を被った白銀の髪が、煤けた月光みたいに見えた。
「何がどうなったんですか?」
彼女からすれば、いきなり守護獣が停止したのだ。説明がなければ意味不明に違いない。
「いや、すまない。俺もまだ考えがまとまってないんだ。後で話すということで一旦納得してくれないか?」
「……わかりました」
エリシャは困ったように笑って、肩を竦めた。
どこか呆れも混じっているが、それも当然だ。師匠が説明責任を放棄しているのだから。
だが、彼女はそれ以上詰めなかった。
「それと、エリシャ」
「はい?」
「先程の戦い、見事だったぞ。俺もうかうかしてるとすぐに抜かされてしまうな」
正直に、評価を伝えてやる。
彼女はこれでもかというくらい顔を輝かせた。胸元で小さく拳を握り、目が星のように瞬く。
「ほんとですか!? えへへっ。これからも、もっと頑張ります!」
緊張の抜けた笑いが、ひと粒弾けた。崩れた守護獣の瓦礫は、まだ微かな熱を残している。天井の文字環は静かに光を引き、遺跡の呼吸は、先ほどまでよりもずっと穏やかになっていた。
粉塵が落ち切るのを待つ間、アルドは耳を澄ませた。
遠く、どこかで水滴の音。風の細い通り道。そして、まだ救うべき人間の息が、この奥に残っているのかどうか。胸の内で、静かに拍を数える。
(さて。まだ何も終わっていない。気を緩めるなよ)
自分にそう言い聞かせて、アルドは次の扉へ視線を向けた。
遺跡の奥はまだ深い。彼らが生きてくれていることを、祈る他なかった。




