第15話 遺跡の守護獣
奥の闇が、ひと息深く沈んだように見えた。
低い呻き声──いや、声と呼ぶにはあまりに古い。石が身の内で軋むような、地鳴りに近い響きが広間の底から立ち上がってきた。空気が重くなり、肌の上に透明な砂が降る。魔法石の光がわずかに弱まり、代わりに、天井の円環に刻まれた文字列が淡く燐光を帯びた。
闇が割れた。
最初に現れたのは、岩塊を削り出したような巨大な爪だった。床の紋様を掻く音が鈍く響き、粉が霧のように浮く。肩が隆起し、獅子の胸郭が持ち上がる。だが背へと伸びる尾は蛇そのもののしなりを持ち、先端の紅玉が冷たく瞬いた。石でありながら、関節の奥を走る古代文字が血管のように明滅する。
獣か、蛇か。そのどちらでもあり、どちらでもない。意思と記号が混じり合って、異形の輪郭が結びついているように見えた。
「ようやくお出ましか」
アルドは一歩前に出た。胸の奥で、先ほど門前で感じた「位相の噛み合い」がじり、と鳴る。見たことのない魔物だ。だが、魔物というより、ここを守るために据えられた遺跡の守護獣という方が正しいのかもしれない。
「……ゴーレム、ですか?」
エリシャが脇で構え、腰を落とす。彼女の手のひらに魔力が薄く宿り、髪の先に微かな静電が跳ねた。
ゴーレムとは、魔力で動く人形だ。土、石、金属、希少なものでは樹脂や水銀を媒質にするものもある。術者の魔法式で束ねられた魔導構造体で、単純な命令系で動く。奥が深く、研究者の中にはゴーレムの研究だけに人生を費やす者もいるそうだ。
目の前のそれも、言ってしまえばゴーレムに類する。だが、同時に違うとも言えた。内部で脈打つ古代文字が、アルドの知るゴーレムを操る術式とは異なっているのだ。命令されて動いているというより、意思に応えているという感覚。アルドは言った。
「いや、これはただの魔導構造体じゃないな。こいつには〝意味〟がある」
「意味?︎どういうことですか?」
「……聞くな。俺も、何となく感じてるだけなんだ」
弟子に言語化して渡せない自分が、ひどくもどかしい。だが確かに、これは命令系で動く人形ではない、ということだけは言えた。こちらを測り、嗅ぎ、値踏みする、あの湿りのある沈黙。
アルドが無詠唱を構築する時の感覚に似ているのだ。音や言語ではなく、〝意味〟から発動させる、この魔法に。
石の顎が、ひとつ、開いた。喉奥で、赤い石英のような舌が軋み、目に当たる窪みが紅く灯った。胸部中央の魔法陣──輪郭だけが刻まれ、内部は空洞のように黒い──が、どくりと鼓動する。
空気が震えた。意味のない音ではない。「音の手前」の、圧のようなものが耳朶の内側に触れた気がした。
それは、ゆっくりと発した。
『我、封印ヲ護ル者。汝ラヲ排除スル』
声は、声としては届かない。だが意味だけが、頭の裏側に冷たく刻まれた。
「い、今喋りませんでした!?」
「喋ったというより思念を送り付けられたという感覚だったがな。どうやら、悠長に談笑してくれるわけではなさそうだ」
守護獣の四肢が沈み、反発でしなやかに跳ねる。尾の蛇がしなり、床の粉塵が衝撃波で舞い上がった。
戦闘が始まった。
初手は突進。鬣の影が視界を埋める瞬間、アルドは身体を半身にずらし、〈筋力強化魔法〉と〈身体硬化魔法〉を自身に掛ける。肩口を掠めた爪が銀の火花を散らし、壁へ叩きつけられた粉が光を吸った。石が割れる音が、狭い空間に鋭く跳ね返る。
目に相当する窪みの赤が、こちらを射抜いた。胸の魔法陣が再びどくりと脈打つ。脈に合わせ、天井の文字環がわずかに明滅した。あの脈動には意味がある──形を持った言語の配列というより、意味の流路を開閉するような拍動だ。
「……これは。何か意味があるのか?」
思わず、独り言ちる。胸骨の内側で、さっき門を読めたのと同じ不気味な親近感がじくじくと疼いた。
「エリシャ、少々時間を稼いでくれないか?︎この石コロを丸裸にする」
「わかりました!」
アルドは足を一歩引いて、結界と解析の二重に発動させた。
周囲に薄く膜を張り、皮膚の表面で世界を撥ねる〈結界防御〉。同時に、視線の奥、意識の焦点を守護獣の胸部の魔法陣へ合わせ、そこから〈解析魔法〉へと繋げる。さらに左手でエリシャの肩口へ指先を向け、〈詠唱加速魔法〉をかけた。エリシャの周囲の空気が澄み、詠唱完了までの時間が約半分に短くなる。
弟子は一音分の頷きで応え、詠唱へ滑り込んだ。
「雷よ!」
短い詠唱とともに〈雷槍〉が放たれ、守護獣の肩口へ吸い込まれていく。
しかし──ワイバーンの頭蓋を一撃で貫いたその雷は、石の皮膚一枚下で拡散し、痺れの火花だけを散らして消えた。
「え……!?」
エリシャが困惑の声を漏らした。
こいつは厄介だ。どうやら、魔力の「逃がし」が仕込まれているらしい。殻の内側に、位相を反転させる層。絶縁に近いだろうか。魔力を殺すための装置だ。古代の知恵といったところか。
守護獣が尾を横薙ぎに振る。蛇が唸り、鞭のような一撃が床を裂いた。エリシャは半歩で躱し、すかさず第二の魔法を放った。
「罪過は消滅せよ──〈神裁の雷〉!」
彼女の指先から、〝審判〟が放たれる。
一瞬、天地の境が白に染まり、遅れて天頂から光柱が落ちる。ワーウルフたちを一瞬で屠った、高位魔法だ。
だが、赤い目窩が瞬き、胸の陣がどくりと強く打つ。石の額に刻まれた微細な文字列がぱっと広がり、膜が張られた。雷の〝審判〟は溶けるように消えていく。
「なんなんですか、こいつは!︎硬すぎます!」
エリシャが嘆いた。彼女ほどの精度と魔力でも通らない防御だ。並の冒険者なら絶望するだろう。
だが、ここで焦られないのがエリシャの強さでもあった。彼女は歯を食いしばり、すぐに次の魔法へと移る。
守護獣はエリシャを追うが、彼女は決して一撃目の死角に残らなかった。足も、目も、良い。このあたりは若さもあるだろう。
風魔法、氷結魔法、火炎魔法と手を変え品を変え攻撃していくが、彼女の魔法はどれも露となって消えた。
「先生、魔法が全然効かないです! どうすればいいですか!?」
才女が苛立った様子で訊いてきた。
見ている限り、魔法の種類や属性で魔力の「逃がし」の精度が変わるわけではなさそうだ。まさに、魔導師殺しの守護獣。それでいて動きも速い。並みの冒険者では手も足も出ないのも頷けた。アルドが戦っても、大差はないだろう。
「さすがは古代遺跡の産物というところか。構造が俺たちの知る全くゴーレムとは異なるのだろうな。解析にも時間が掛かりそうだ。悪いが、もう少し耐えてくれ。くれぐれも、無理はするなよ」
「はい!」
返事と同時に、エリシャは〈飛行魔法〉で身を浮かせ、仁王立ちするように、獅子の正面に浮かび上がった。
彼女がぽつりと漏らす。
「先生に頼られてしまいました」
その言い草はどこか嬉しそうで、高揚感がこちらまで伝わってくるほどだ。
才女は、にやりと笑った。
「そんなの、張り切るに決まってるじゃないですか」




