第14話 封印の遺跡
準備といっても、必要なものは既に〈異界収納〉に収めてある。薬包と携帯食、携帯寝具、そしてアリアが念押しして渡してきた魔法ポーションの小瓶が三つ。その三つは〈異界収納〉には入れず、もしもの時に備えて全てエリシャに持たせた。味は最低だが、命綱にはなる。
「行くぞ」
「はいっ」
ギルドの前で短く頷き合い、ふたりは同時に地を蹴った。足裏に薄い魔法陣が走り、重みが綿に変わる。
できればダンジョン攻略前に〈飛行魔法〉の使用は避けたいが、人命が関わっているなら話は別だ。たった三日、されど三日。間に合う可能性が一縷でも望みがあるなら、飛ぶべきだろう。
屋根の海の上へ抜けると、街は一枚の地図になった。北門から東へ折れる街道が細い白線となり、そこから先は丘陵と針葉樹の濃淡に呑まれていく。風は穏やかだが、上空の冷気が肋骨の奥へ差し込んだ。
空を飛びながら、エリシャが訊いてきた。
「魔法ポーション、先生はいいんですか?」
「ん? ああ。俺はまだまだ余力があるからな。お前が持っておけ」
「でも、〈重力魔法〉と〈上位火球魔法〉ってどちらも結構魔力使いますよね?」
「俺の心配をするなんて、十年早いぞ」
アルドはふっと鼻で笑った。
確かに、〈重力魔法〉と〈上位火球魔法〉はどちらも魔力の消費が多い。だが、このアルド=グランがその程度で魔力がすっからかんになるわけがなかった。
無詠唱魔法となると、魔法を常時稼働させることも可能だ。いついかなる時も、魔力が枯渇しないように日々精神鍛錬を行ってきている。
「それは、そうなんですけど。無茶はしないでくださいね?」
「わかったわかった。もしそうなったら、俺にも一本くれ」
まさか、弟子に心配される師匠とは。まだまだ未熟なものだ。
そう思いつつも、脳裏にアリアが言った「くれぐれも無理はしないよう」という忠告が蘇る。
もちろん、ミイラ取りがミイラになっては意味がない。アルド自身はともかくとして、エリシャの身に危険が迫るような状況なら、〝紅鷹〟には悪いが即座に撤退するつもりだ。
街の輪郭が後方に溶け、森が前方いっぱいに広がった。針葉樹の梢が風を受けて波打ち、ところどころに広葉樹の丸い頂が混じる。獣道ほどの空隙が谷へ向かって落ち、谷底には淡い霧がかかっていた。
「霧が濃いですね」
「そろそろだな……あれか?」
谷間の底、森の色が切断されたところに、石の色が口を開けていた。
円弧状の門。苔に縁取られた台形の額縁がはめ込まれ、左右に倒れた石柱の根元からは古い蔦がぶら下がっている。人の手によるものに見えるが、現行の様式とはどこか違う。古代の石造り特有の、重さの配分が現在と逆転したような、負荷を上に逃がす感覚。
ふたりは霧の層を割って降り、荒れた前庭に足を着いた。足元の苔がじゅっと音を立て、湿気が膝から上へ昇ってくる。鳥の声はない。谷が、何かに耳を澄ませているみたいに静かだった。
近づくにつれ、門の額縁に浅く刻まれた文字が見えてきた。風化で角が落ち、苔が縁を侵食しているのに、線の骨格だけは妙に生々しい。
「先生、この文字は……?」
「古代文字だな。さすがに俺も専門外だ。読めん」
答えながら、指先で苔を払った。触れた石は冷たく、冬の水面のように硬い。
古代語の字形には見覚えがあるが、学んだことがないので読めるはずがない。はず、なのだが──触れた瞬間に胸奥で位相が噛み合った。
(いや……何故か読める気がするぞ?)
意味の輪郭が、先に立ち上がった。それは文字を理解して読めるというより、それを越えて意味がわかってしまう、というような感覚。ただ、口の中に知らない味が広がるように、言葉が形になっていった。
「──封じられし声」
「え?」
エリシャが緑眼を瞬かせる。霧の反射光がその瞳に薄く入って、白銀の髪がわずかに揺れた。
「この古代文字の意味だ」
自分の声に、自分が一番驚いていた。舌が勝手に形をなぞった感覚がある。どこで覚えたわけでもないのに、知っていた。
そんな馬鹿な。そうは思うのに、読めてしまったという事実は変わらない。
「でも先生、さっき読めないって……」
エリシャが、驚いた様子でこちらを見上げていた。
そう、そのはずだ。読めるはずがない。学会の資料で触れた古代語は方言の差異が甚だしく、統一的な文法どころか表記の基準も曖昧だった。人が読めるような体系ではない──はずだったのに。
それなのに、今、アルドの喉からするりと意味が出てきた。違和感が、胸のどこかに滑り込んで居座る。指先の温度が、まだ石に繋がれているように感じた。
「……今はそんなことはいい。冒険者たちの救助が先だ」
「そ、そうでした! 急ぎましょう!」
エリシャが表情を引き締めた。アルドも首をぐるりと回して、違和感を背中に押し込んだ。検証は後だ。今は考え込んでいる場合ではない。
アルドは靴底の泥を石段で軽く払い落としてから、第一歩を踏み入れた。
内部は、外よりひんやりしていた。苔むした石造りの壁に、握り拳ほどの魔法石が一定間隔で埋め込まれている。古いものだが、まだ生きている。淡い光は呼吸するように強弱を繰り返し、石床には古の設計者が引いた幾何学の名残が残っていた。直線と円弧、そして星形。踏みしめるごとに、靴の底で砂が泣くような音を立てた。
壁に手のひらを当ててみる。冷たさの向こうで、うっすらと魔力の流れが触れ返してきた。まるで、何かが寝息を立てているみたいだ。魔導回廊がまだ稼働しているのか、それとも遺跡そのものが息をしているのか。
「なんだか……気持ち悪いですね」
エリシャが眉を寄せ、胸元を軽く押さえた。魔力感受の鋭い者ほど、この歪みは不快に感じるだろう。魔力の膜が内臓に触れるような、微妙な違和感だった。
そう。それが普通のはずだ。それなのに……。
「そうか? 俺はむしろ心地いいがな」
口に出してから、自分で僅かに驚く。
確かに、心地いいと感じていた。規則正しく出入りする魔力の振幅が、呼吸と同期し、内側の面を磨かれていくような静けさを生む。傷んだ神経に温い水を流される感覚に近かった。常人の感覚からすれば、明らかに異常だ。
どうしてだろうか? 先ほど古代文字を読めてしまって以来、妙な心地よさが続いている。
「先生はもう規格外ですね。むしろ化け物です」
エリシャが呆れたように言った。
「化け物呼ばわりはやめてくれ。これでも一応、人間なんだ」
「無詠唱魔法を使えてる時点で、化け物ですよ」
エリシャは軽口を叩いて、悪戯っぽく笑った。
変に緊張しすぎるよりは、こうして空気をやわらげた方がいい。彼女は実にしっかりと状況を見た上で、言葉を選んでいるようだ。
壁の魔法石は古いものだが、まだ充分に光っていた。灯りの間隔は広すぎも狭すぎもしない。維持されていないはずなのに発光を保っているということは、どこかに魔力供給の機構が残っているということだ。不思議な建物だった。
廊下は緩やかに曲がり、時折、開けた小部屋を経由して再び細くなった。小部屋の中央には円形の浅い窪みがあり、ひびの入った碗のような石器が嵌っている。
水を貯めた痕跡はなかった。代わりに、底に黒ずんだ沈着が見えた。焼け焦げ──祭具か、封鎖の儀式に使う何か。想像の手掛かりは幾つも落ちているのに、組み上がらない。
廊下の先から、風が来た。地下で風ということは、空間がどこかへと繋がっているということだ。風は冷たく、ほんの僅かに、鉄と土と、古い油の匂いが混じっていた。
耳を澄ます。遠くで水滴が落ちる音。さらに微かに、別の音──岩が擦れる音に似ているが、周期がある。呼吸と似た周期。空間の呼吸と、別の何かの呼吸。
「あの、先生」
「聞こえてる。落ち着いていけよ」
エリシャは頷き、拳をぎゅっと握った。彼女の肩の緊張が、僅かに強くなっていた。
無理もない。こんな遺跡で薄気味悪い場所、しかも有力なパーティーが行方不明になっている場所で落ち着けという方が無理なのだ。
「足跡がありますね……」
エリシャが囁く。膝をついて、石の目地に溜まった泥を指でなぞった。
乾き切ってはいないが、完全に新しくもない。三日前、と言い切るには根拠が足りないが、最近であることは間違いない。
その足跡に沿って進んでいくと、通路の幅が僅かに広がっていた。
壁際に、黒い焦げ跡が点々と散っていた。火球の痕……ではない。魔力の焼けた匂いに、どこか金属の香りが混じる。雷撃か、あるいは未知の魔法だ。
床の砂に靴跡が交差していた。軽装の者、重装の者。アリアから聞いていた〝紅鷹〟の人数と一致する。円の中央で、靴跡の向きが乱れていた。ここで何かに遭遇し、対応しようとした──それで?
「血痕……〝紅鷹〟の方々のものでしょうか?」
エリシャが石の隙間に赤黒いものを見て、小さく言った。
時間が経ち、判別が難しい。彼らが生きている可能性はまだある。そう考えるべきだし、そうであってほしかった。
その血痕の先に、大きな扉がある。
「あそこに行けばわかるさ。〝紅鷹〟の連中が、アンデッドになっていないことを祈ろう」
「もう、先生。冗談でも言っていいことと悪いことがありますよ」
エリシャは少し咎めるようにアルドを窘めた。冗談でもなく、割と本音で思っただけだったのだが。
ともあれ、ここまで魔物の気配が一切ない。〝紅鷹〟が討伐していったのか、或いは、魔物が湧かないように〝守護者〟がこの遺跡にいたのかは定かではないが……アルドの読みでは、おそらく後者だと踏んでいる。
「心して行けよ。俺も、何が起こるか予想がつかん」
アルドの忠告に、エリシャは喉をごくりと鳴らした。
ぐっと、アルドが扉を押していく。肩で均等に圧を掛け、音を殺して少しずつ隙間を広げた。冷気が指の間を抜け、頬を撫でる。霧より冷たい空気が鼻腔の奥をきゅっと締めた。
光が、広がった。
円形の広間。壁には等間隔に魔法石。床には同心円状の彫り込みが幾重にも刻まれ、中心には小さな台座がある。台座の周りだけ、石が艶やかに磨かれていた。最近、誰かが触れたのは間違いない。
広間の天井は、丸く高く、そして浅い皿状に窪み、その面一杯に、外の石段に刻まれていたものと同系統の文字が、円環状に連なっていた。光の届かぬ浅い陰影の中で、線の残骸が寄り集まり、意味の残響が空気に滲んでいる。
その刹那──エリシャと、目が合った。
アルドは頷き、手のひらに魔力を集める。エリシャも魔力を集中させて、臨戦体勢を取った。
そう……広間の先、闇の向こうで、何かが目を開ける気配がしたのだ。




