第12話 師弟の無双
北方の城壁が視界いっぱいに迫る。白い石は朝の光を斜めに浴び、上面の胸壁には防衛隊と弓兵が等間隔で並んでいた。だが、その顔色は総じて悪い。空を見上げる首が強張り、弦を引く指が汗で滑っている。
城門脇の外階段に着地して、ふたりは駆け上がった。
城壁の上に上がると、まず耳に入ったのは弓弦を引き絞る音、そして息を呑む気配だった。鎧の継ぎ目が寒気で鳴り、革のグリップを握る手がわずかに震えている。
防衛に当たっているのは、城兵の騎士と弓兵だが、どちらの顔にも強張りが浮かんでいた。風が強く、射程の計算が狂っていのだ。
「くっ……ここからでは遠すぎます!」
「だが、このままでは隊商が!」
弓兵と騎士の短いやり取りが、風にちぎれて耳に届く。
アルドは胸壁の外へ身を乗り出し、状況を一瞥した。
街道の真上の遠方上空に、ワイバーンの成体が三体。円を描きつつ高度を上下し、隊商の頭上に急降下と旋回を繰り返している。地面には黒い染み。荷車のひとつは、車輪の鉄輪がねじれて溶け、幌布がところどころガラス片のように固まっていた。ブレスの痕だ。隊商の馬は泡を吹き、御者の怒号が風にさらわれる。
護衛隊が応戦しているが、ワイバーン相手に完全に腰が引けてしまっていた。
「ギルドから派遣された冒険者だ。加勢しに来た」
「冒険者か! ありがたい」
騎士はアルドとエリシャを一目見てから敬礼した。アルドは頷いて応え、エリシャもお辞儀で応える。
挨拶もそこそこに、すぐ本題に踏み込んだ。
「たったこれだけしかいないのか? 騎士団や他の冒険者は?」
アルドは見回した。北方の城壁にはこの騎士と数人の弓兵しかいなかったのだ。
「他の城壁の対処中だ! ここは一番最後に現れたんだ」
「なるほどな」
支援の見込みは薄そうだ。それを待っている間に、あの隊商は全滅させられてしまうだろう。
「では、俺たちだけで対処しよう。エリシャ、ワイバーンの対処法は知っているな?」
「はい。ブレスの予備動作の一瞬を突いて喉に、ですよね?」
「正解だ。もうひとつ言うと、翼の付け根をやってしまえば簡単に落とせるぞ」
「そんな芸当、できるの先生だけですってば」
軽口を交わす間にも、下の砂塵は深くなっていく。
ワイバーンの影が太陽の光を削ぎ、着実に隊商の護衛を削っていた。
「さて、あまり悠長に講義をしている余裕もなさそうだ。俺が落とそう。トドメはお前に任せるぞ」
「わかりました!」
アルドは城壁の縁に足をかけ、そのまま身を投げた。
〈飛行魔法〉──重力の枷がふっと緩む。外套が風を孕み、身体が矢のように前へ飛んでいった。
上から見えていた三つの影が、今は同じ空域の獣に変わる。琥珀の眼、鉤爪、鞭のような尾。ひとつがこちらに気づいて首をもたげ、二つ目、三つ目が遅れて反応した。
「よお」
たった一語。
アルドが空のど真ん中で水平に止まると、三体のワイバーンが揃ってこちらを振り向いた。喉奥で鉄を擦るような音。縦長の瞳孔が収縮し、敵意が隊商からアルドへ切り替わる。狙い通りだ。
最前の一体が胸を膨らませた。腹部の筋束が波打ち、顎が半拍遅れて開く。ブレスの予備動作だ。
空気が弾け、白炎の帯が矢のように真っ直ぐ射出された。
アルドは僅かに横へ移動した。ブレスがすり抜け、焦熱が頬を撫でて外套の端がぱちりと燻る。その最中、下の隊商に向けて声を張った。
「おい、お前たち! 今のうちに街に入れ!」
地上で硬直していた商人たちが、はっと顔を上げる。
「は、はい! ありがとうございます!」
御者台で固まっていた男が手綱を絞め直し、隊商が城壁へ向けて動き出した。馬の蹄が泥を蹴り、荷車が軋みながら転がる。
アルドは三体の間合いのど真ん中に位置取り、旋回する軌道を乱すように小刻みに高度を変え続けた。群れの焦点が完全にこちらへ移る。
(よし。では、完全に引き離すか)
敵の攻撃を誘いつつ、城壁から三百、四百、五百メルトと距離をじわりと伸ばしていった。
エリシャの射程は長い。昨日の精度なら、これぐらい離れていても何かしら当ててくれるだろう。
そう判断した矢先だった。城壁の方向から、空気そのものが鋭く尖る。
「雷よ、貫け──〈雷槍〉!」
澄んだ声の直後、線のように細く、槍のように重い雷が空を裂いた。
矢のごとき光条が真っ直ぐ飛び、先頭のワイバーンの右翼付け根に吸い込まれる。
瞬きひとつ分の遅れで翼が痙攣し、骨の節が内側から弾けた。巨体が支えを失って横転、空が地へ裏返る。
彼女の攻撃は、それだけでは終わらなかった。落下位置を読んで、すぐさま二の矢が放たれる。追撃の〈雷槍〉が、地上に叩き付けられる瞬間の眉間を正確に穿った。
閃光、焦げ臭い匂い、のち静寂。成体がひと息で沈んだ。
「……何が俺にしかできない、だ。こんな芸当、俺にもできんぞ」
思わず苦笑が喉の奥で転がる。
城壁からの距離は、およそ五〇〇メルト。風も、陽炎も、乱流もある。その上で、ワイバーンだって同じ位置に定まっているわけではない。それにも関わらず、翼の付け根と眉間を正確に狙撃する──魔法の精度だけで言えば、エリシャはとうに自分を超えていた。百年にひとりの才女という評価は、決して誇張ではない。
「さて、弟子にいいところを取られては敵わん。俺も見せ場を作らなければな」
残る二体が怒りに身を震わせ、同時に滑空へ移った。
ひとつは高度を落として正面から、もうひとつは上から被せるように、挟撃の軌道を取っている。ワイバーンが空中戦で取る攻撃択のひとつだ。
アルドは一体に向けて、左手を翳した。指先から目に見えない重さが吐き出され、空間の縫い目に鉛を縫い込む。
──〈重力魔法〉。
空気が鈍く鳴り、前方の一体が空中で急に比重を増した。翼を何度も打ち直しても、上昇せずに高度が抜けていく。やがて地面に吸い寄せられるように落下し、砂塵を上げてのたうった。重さが骨に食い込み、関節が軋んで動かない。
同時に、右手をひらりと返す。手のひらに集めた火の理へ、極小の起爆を噛ませる。
ただそれだけで、上から被せてきた個体が白光の泡に包まれ、次の瞬間、灰になった。音はほとんどない。〈上位火球魔法〉……魔力が直接、構造を焼き切る類の火だ。
地に這いつくばったままのワイバーンが、最後の悪あがきに喉を膨らませる。だが、その瞬間にはもう、〈雷槍〉がその眉間を貫いていた。筋肉が弛緩し、巨体が力をなくす。
空気が軽くなったように感じられた。
アルドはひと呼吸だけ遅らせて俯瞰する。隊商は無事に城門前まで入り、治安隊が導線を確保している。上空の脅威は消えた。北方のこの区画は、これで安全圏だ。
風を切って城壁へ戻る。胸壁の上に降り立つや否や、空気がぱっと弾けた。
「助かった!」
「あの魔導師、詠唱してたか!?」
「女の子の方もえぐい雷魔法してやがった!」
「何者なんだ、あのふたりは!?」
歓声と驚愕とが一斉に押し寄せ、弓兵が弦を握ったまま顔をほころばせた。
頬に煤を付けた若い騎士が、胸甲の継ぎ手を鳴らして敬礼を寄こす。城門の内側から駆けてきた商隊の代表が、息を切らしながら深々と頭を下げた。金具の帽子が石に当たって乾いた音を立てる。
「命の恩人だ! 本当に、本当にありがとう!」
アルドは手だけ挙げて応えた。視線で「隊を城内へ」と促すと、治安隊長が理解の合図を返してから、踵を返し、短い号令を飛ばした。動線が整理され、人々のざわめきは安堵の色へ変わっていく。
「先生、お疲れ様でした」
エリシャが脇へ歩み寄り、一礼した。
銀髪の先に、まだ微かな静電気の粒が残っていた。
「ああ、お前もな。見事な狙撃だった。あれは俺にもできん」
「よく言いますよ」
素直に褒めたつもりが、彼女はむっと唇を尖らせた。目尻にだけ笑みが宿っている。半分本気、半分冗談といった色だ。
「〈重力魔法〉と〈上位火球魔法〉をふたつ同時に無詠唱だなんて……ずる過ぎます。そんな反則技をする人に『俺にもできん』と褒められても、素直に喜べるわけないじゃないですか」
「まだまだ弟子に抜かれるわけにはいかないからな。俺も少し見栄を張らせてもらったぞ」
アルドは得意げに笑ってみせた。
実際に、少し強い魔法を使い過ぎたという自覚はある。それは偏に、まだまだ負けんぞ、と弟子に対して力を誇示したかっただけ、という師匠の意地でしかなかった。
「ううん……絶対にいつか、先生を超えてみせますからね!」
言葉は悔しそうなのに、声音は嬉しさを隠しきれていない。頬に少し赤みまで差している。
可愛い。一瞬そう思ってしまい、アルドは咳払いで自分の耳を誤魔化した。
「ここに長居しても何だ。ギルドに戻るぞ」
「他の城壁の助っ人にはいかないんですか?」
エリシャが訊いてきた。
「あくまでも俺たちが指示を受けたのはここだけだからな。他の場所には、託された別の冒険者がいる。しゃしゃり出てそいつらの手柄まで奪ってしまうと、後々面倒になり兼ねん。またガロスのような奴に絡まれると面倒だろう?」
「言われてみれば、そうですね。先生って、意外に処世術がありますよね」
「意外とは何だ。こう見えて、糞みたいな学者業界に身を置いていたからな。嫌でも処世術は身に付く」
無論、こうやって気を付けていても、ノリキンのように因縁を吹っかけてくるバカがいるのだが。それでも、細心の注意を払っていて損はない。
背後では、治安隊長が改めて敬礼を送り、商隊の代表が礼を重ねていた。アルドは軽く会釈だけ残して、踵を返す。
風はまだ鉄の匂いをわずかに含んでいるが、街は日常へ戻りつつあった。
ふたりは城門下に降り、足並みを揃える。通りの向こう、家々の屋根が朝の色に光っていた。




