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運転手に予防局の手帳を見せ緊急事態なのを伝えたが、九段下から門前仲町まで、やはり三十分程度かかってしまった。それでも局員の中で久我は一番乗りに近く、要領を得ないままとりあえず来てみただけという体の警官たちの指揮を始める。パトカーのボンネット上に地図を広げ、大まかな円を描いて優先順位を伝えた。
「このラインに沿って封鎖だ。とにかく、あの小学校を最優先にしてくれ。あと二十五分しかない。急いでくれ」
駆け散っていく警官たちを見送った頃、地域の防災放送が始まった。加えて道行く人々の携帯が一斉にアラート音を鳴らし始め、メールで避難を呼びかけている。それを誘導している間に、柚木から正確な被害予想範囲と標高の高い地点が送られてきた。久我はパトカーの屋根に登り、それと現場の光景を見比べる。
小学校は四階建てで、児童数は五百人程度。既に教師に先導されて生徒たちが出てきたから、これは恐らく大丈夫だろう。
しかし校庭のすぐ先にある巨大なタワーマンションを見上げ、久我は途方に暮れた。見るからに建設中で住人はいないが、エグゾアはその基底部を抉る可能性があるらしい。もしあれが倒れることを想定するなら、避難範囲を相当に広げる必要がある。
だが、何処まで?
「柚木、これはどうにもならんぞ。時間が足りなすぎる」
通話を入れるのと入れ違いで、新しいファイルが着信した。仮にマンションが倒壊した場合の被害パターンが記されている。
『幸いにして堤防はもちそうだが、マンションについては施工状況がわからないので、これが限度だ』眉間に皺を寄せつつ眺める久我に言う。『パターンAはマンションが倒壊しない場合。しかしガラスや壁材が降ってくる可能性が高いため、半径五十メートルは待避した方がいい。パターンBはエグゾアによって倒壊した場合。南側のオレンジ色のエリアは危険だ。しかしこの二パターンの可能性は低いと思われる。一番あり得るのは、パターンC、エグゾアそのものではマンションは倒壊しないケース。しかし知っての通り、エグゾアは<真空を運んでくる>。それによって自立が危うくなっているマンションは、エグゾアが発生した空間に向かって倒れ込む』
「どうせエグゾア後の空間には誰もいないんだ。それが一番ありがたい」
すぐに待避エリアを広げ、ようやく到着し始めた予防局の局員へは古海をあてがう。加えてパトカーや消防車も殺到し始め、慌ただしく各組織を整理している間に、残り時間が五分になってしまった。そこまでくると、もう久我にはお手上げだ。必要な指示は出した。確認している暇がない以上、あとは各自が指示通り動いてくれているのを期待するしかない。
エグゾア発生の中心点は、小学校の少し向こう側だ。その方向をじっと見つめていると、不意に付近で幾つかの怒声とも悲鳴ともつかぬ声が湧き上がっていた。警察が引いた警戒線の外側にいる彼らは、怯えた表情で小学校校舎の一角を見上げている。
そこには、一人の男児の姿があった。
その子は何が起きているのか、まったく理解出来ていない様子だった。ただ子供特有の悪戯心で避難の列から逃れ、何処かに隠れ、大慌てしている大人たちを三階の窓から見下ろして喜んでいる。
「待て! 俺が行く!」
駆け出そうとした数人の警官を押し留め、久我は警戒線をくぐり、無人の校門へ駆け込んでいった。下駄箱が並ぶロビーを抜け、階段を一段飛ばしで駆け上がる。
「イルカ、あと何分だ!」
今度はすぐに娘の姿をした立体映像が現れ、人差し指を立てた。
『あと三分弱かな。カウントダウンするね?』
それが百を切った時、久我は三階にたどり着いた。しかし急だったこともあり、方向感覚を完全に失ってしまっていた。窓から外の光景を確かめ、右手の廊下をダッシュする。
男児がいたのは、その一番奥の教室に違いなかった。だが、誰もいない。開かれた窓から流れ込む風に、カーテンが揺れているだけだった。
「畜生、何処に行った! イルカ、透視だ!」
それも問題なく機能した。視界に窓が現れ、X線で透過した映像が現れる。上下左右を見渡すと、鉄骨や建材の濃い色の奥に、薄い人型の影を見つけた。四階だ。
久我は揺らぐカーテンを引きちぎり、丸めながら駆け出す。四階にたどり着くと、廊下の奥に男児の後ろ姿が見えた。彼は音に振り向くと、怯えた様子で逃げ出す。
「おい待て!」
待てと言って待たれた試しなどない。すぐに後を追い、男児が逃げ込んだ教室に飛び込む。
『三十、二十九、二十八』
イルカのカウントダウンが続いていた。久我は窓際で青い顔をして硬直している男児を認めると、すぐに携えていたカーテンを投げつけた。途端に彼は金切り声を上げて暴れたが、久我は容赦なくカーテンの端を掴み、ミイラよろしくぐるぐると巻いていく。
「悪いな、時間がないんだ」
口元の布だけずり下げると、男児は蠢きながら叫ぶ巨大な芋虫同然となった。久我はそれを肩に担ぐと、窓を開いて下を見下ろす。
数え切れない視線が向けられた。その最前線には古海がいて、何事かを叫んでいる。
もはや骨の二、三本を折る覚悟で飛び降りるしかないと思っていたが、さすが古海は優秀だった。窓の下には消防の物らしい巨大なエアマットが展開されていて、彼女は必死にそれを指し示している。
『十、九』
誰かに見られているとか、気にしている場合ではない。久我は右手を振り、目の前にプラズマを投げつける。瞬時にガラスと壁は蒸発し、外からは幾つかの悲鳴が流れ込んできた。後は古海が上手く誤魔化してくれるのを期待するしかない。続けて学習机を蹴飛ばしてスペースを作ると、反対側の壁際まで下がり、相変わらず奇声を上げながら蠢く男児を抱え直し、大きく二度三度深呼吸する。
『五、四』
三、二、一。久我は唱えながら駆け、宙に飛んだ。
そのままエアマットに落ちることばかり考えていて、久我はすっかり忘れていた。
『ゼロ!』
イルカが叫んだ直後、背後から巨大な紙袋を叩き潰したような音が響いた。
不味い、と思いつつ宙で身を捻る。既に校舎は跡形もなく、その向こうにあったタワーマンションの基底部が半分ほど消え失せ、地面は抉られ、暗褐色の鉱滓に覆われ――
そこまで認識した途端、男児を抱えた久我は、エグゾアの中心部に向かって強烈な力で引っ張られた。巻き起こる突風と砂塵で、あっという間に上も下もわからなくなる。耳は風切りの音と空気が千切れるバリバリとした音に潰され、辛うじて知覚できたことといえば、自分が崩壊してくる巨大なコンクリートとガラスの塊に向かって突っ込んでいるという事くらいだった。
言葉にならない叫び声を上げながら、男児を強く抱き、プラズマの盾を右手甲から発し、全身を包むように意識する。しかしプラズマが十分に展開する直前、頭に強い衝撃を感じ、意識が飛んだ。




