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VRMMOをカネの力で無双する サブアカウント  作者: 鰤/牙
サブアカウント・パーティー
20/50

人工知能は天才ゴリラの夢を見るか?

 苫小牧伝助は、マッドサイエンティストである。

 日本が世界に誇る脳科学の権威であり、網走医科大学名誉教授であり、網走医大付属脳神経科学研究センター所長でもある彼は、医学の発展のためならばいかなる自己犠牲とて厭わない。危険な実験には自らの肉体をもって臨み、そして持論の正当性を証明してきた。多くの人は苫小牧のことを狂人と呼ぶが、そこには畏怖の感情以外にも、常に憧憬と敬意が含まれている。


 苫小牧伝助は、実に善良なるマッドサイエンティストである。


 ここ最近、苫小牧は研究の関係でアメリカに滞在することが多くなっていた。『最新の仮想現実技術であるドライブ技術が人体と脳に及ぼす影響』について、やはり自らの身体をもっておおよその研究成果を出し学会に提出した苫小牧の最近のトレンドは、『認知神経科学とシステム神経科学の分野から見る人間とその他の動物の相違』だ。発達心理学のプロフェッショナルであるフランシーヌ・ハタムラ博士のラボにて、ローランドゴリラのメスであるココと会話をし、互いの見地からハタムラ博士と議論を戦わせる日々を送っている。


 苫小牧の毎日は充実していた。だが、研究すればするほどに、苫小牧はわからなくなる。果たして人間とゴリラの境界線とはいったいどこにあるのか。ミトコンドリアDNAの塩基配列を見れば、確かにそれは一目瞭然だ。専門的な話は省くにしても、ヒトとゴリラがまったく種を異にする生き物であることがわかる。

 しかしゴリラのココは嬉しいときには笑うし、悲しいときには泣く。いわゆる認知神経科学の見地から見る限りでは、細胞の電気信号がそうした心理的・認知的機能を引き起こすメカニズムにおいて、人間との相違点はなんら確認できるものではない。


 そろそろぶっちゃけて言おう。

 脳みそが感情を生み出すシステムを研究すればするほどに、苫小牧は人間とゴリラの違いを認識できなくなるのである。なるほど生物学的には確かに違う生き物だろう。外見だっておおいに異なる。だが、人間という生き物は、常に物事の本質を『ココロ』という不確かなもので測りたがる。

 『ココロ』なんていう器官は生物には存在しない。心臓は感情ではなく血液を送り出すポンプでしかない。ゆえに、苫小牧は脳神経科学のプロフェッショナルを志し、現在ひとかどの地位を築いた。『ココロ』という不確かで曖昧なものの在り処を、極めて科学的に解明した。だが、基準でヒトとゴリラを比べたとき、両者に違いはない。


「お悩みのようですね、苫小牧博士」


 朝、研究所に併設された食堂での会話である。オートミールの入った皿を黙々とかき回すだけの苫小牧を見て、ハタムラ博士が苦笑した。


「お食事も進んでらっしゃらないみたいで」

「いやぁ。どうも、こちらの方の食習慣に身体が慣れてくれないようで……歳は取りたくないものですね」


 35を過ぎたごろから急に胃下垂気味となった苫小牧だが、もともと頑丈な胃腸を持っていたかといえばそういうわけでもなく、昔から白米・味噌汁・焼き魚以外のものを食べると腹を下すことがままあった。

 オートミール・ポリッジ自体は決して消化不良を起こすような食材ではないはずなのだが、日本のお粥やお茶漬けとも異なるこのペッチョリとした食感に加え、添えものとして出てくる異様に油がギットリとしたウインナーなどが、やはりどうにも胃袋に圧迫感を与えに来る。


「この間、いいスシ・バーを見つけたんです。ご一緒しませんか?」

「寿司は嫌いではないですが……ああ、いえ、先入観はよくありませんね」

「では今日の夜にでも?」


 そもそもこの国のスシ・バーというものが、函館生まれ小樽育ち、幼少のみぎりより海の幸に恵まれて育った苫小牧の舌に耐えうるかどうか。しかし先入観は学者にとってもっとも身近な敵なので、普段から意識して排除しておかねばならない。

 ハタムラ博士は、トレーの上にポリッジの入った器とウィンナー、サラダやスクランブルエッグなどが載った皿を持ち、苫小牧の対面に腰掛けた。


「昨晩はココのわがままに付き合っていただいてありがとうございます」

「いえ、彼女も喜んでくれたようでなによりです」


 苫小牧は昨晩、ゴリラのココと共に久しぶりにVRMMOナローファンタジー・オンラインへとログインした。

 脳波と量子波信号の共振によって、着用者を仮想現実世界へ誘うバーチャル・リアリティ機器〝ミライヴギア〟は、ゴリラに対してもその効果が確認できている。もう数ヶ月は前のことになるが、『人間として行動してみたい』という希望を手話で訴えたココに対して、苫小牧が提案したのがこのナロファンであった。


 苫小牧のある友人によってゲーム内世界をエスコートされたココは自身の要望が叶えられたことに対して満足し、VRゲームを楽しむローランドゴリラの存在は、脳神経科学の見地からも、発達心理学の見地からも、極めて希少なサンプルとなった。で、苫小牧はハタムラ博士と共に、今尚そのへんの研究を進めている。

 ただ、ゲームの中での彼女はあまりにも人間として違和感がなさすぎる。表現力、語彙力は手話のイメージを言語に変換する都合もあって決して多彩はないが、その振る舞いはまさしく人間そのものだ。ましてやココは、ゲーム内で『ヒト』を演じているわけではない。ありのままの『ココ』の魂を人間の形をした器に封じ込めたとき、彼女は『ヒト』そのものだったのである。


 故に苫小牧は、前述の疑問に行きつくのだ。


「彼女の振る舞いには驚かされることが多いですね」


 彼はオートミールをぐるぐるかき回したまま、ふと沸いた言葉をそのまま口にした。


「そうですね。ゴリラにも感情はありますし、笑うし、泣きますけど、それでも仮想世界の中では、彼女が人間ではないということを、ときおり忘れてしまいます」

「やはり、我々は人間の形をし、人間の言葉で喋る相手を人間として認識してしまうということなのでしょうか」

「あるいは、人間として認識することで安心感を得ようとしているのかもしれません。そういえば、あのゲームでもノン・プレイヤー・キャラクターはあまり見かけませんけれど、同じ理由なのかしら」


 確かに、苫小牧がゲームを始めたサービス開始当初に比べて、明らかにNPCの数は減ったように思う。人間と同じ形をし、同じ言葉を喋り、なおかつある程度こちらに対してリアクションをとってくれるNPCに依存心を持つプレイヤーが、少なからずいたということなのだろうか。

 ゲーム内における友人の話では、アップル社のスマートフォンに備えられた秘書機能アプリケーションソフトウェアに対して擬人化を行い可愛がるような傾向が日本のネット上で盛んであるという。これも同じ理由かもしれない。


 苫小牧はここで、また新しい疑問を抱いた。


「ココは、どれほど我々に近い倫理観を持っているのでしょうか」

「と、言いますと?」


 ハタムラ博士もスプーンを止めて首をかしげる。


「ココには確かに感情がありますね。その表現手段も極めて我々に近いです。そして死生観も持っている。ではもっと別方向に根源的な……例えば、我々が集団的生活を営む上で漠然と把握している価値観……すなわち、」


 一瞬、言葉を探して言いよどむが、ハタムラ博士は苫小牧の言葉をじっと待っていた。彼は顔をあげて言う。


「〝悪〟というものを、どう理解しているのでしょうか」





「それであたしが呼ばれた理由がよくわからないんだけど」


 椅子に腰掛けた少女は、露骨に不満そうな顔を作った。

 ナローファンタジー・オンラインにおいて、『〝悪〟に関する勉強会』は開かれた。社会性動物であるゴリラのココが、人間社会において通念上の大きな行動基準となる概念〝悪〟を、果たして理解できるのかどうか。その勉強会だ。会場は〝赤き斜陽の騎士団レッドサンセット・ナイツ〟が経営するレストランである。彼らは大変迷惑そうにしていた。

 なお、この少女は講師として招かれた。アバターネームをアイリスと言う。


 この世界ではハイエルフの哲人フィロソフィアである苫小牧は、その整った顔立ちに柔和な笑みを浮かべてアイリスを諭した。


「私もアイリスさんが〝悪〟であるとは思っていません。どちらかといえば、あなたは非常にニュートラルな存在です」

「キルシュさん、ニュートラルってなに?」

「メガテンの属性です。まぁそれで言うとアイリスはカオス寄りな気はしますが」


 アイリスが連れてきたのはふたりだ。

 ひとりが、暗黒課金卿とあだ名され、多くのプレイヤーに畏怖されるアイリスブランドの最強戦力・キルシュヴァッサー。

 そしてもうひとりが、


「しかしお父様、女神転生シリーズにおける〝邪神〟カテゴリの属性はロウ・ダークとなっています」


 その養女(という設定の)ヨザクラである。

 ヨザクラのプレイヤーは人間ではない。そういった意味では、今回の勉強会にて非常に興味深い存在となるだろう。むろん、苫小牧の隣でじっとしているココと同じ、ゴリラというわけでもない。ヨザクラのアバターを動かしているのは、あくまでもコンピュータ上に組まれた0と1の集合体、すなわちプログラムである。

 世界を見渡しても、あきらかに〝情緒〟を獲得していると目される唯一の電子プログラムだ。人工知能。あるいはA.I.=Artificial Intelligence。SFの足音が聞こえてくるような眉唾物の話だが、すべて事実だ。


 苫小牧が、ココを挟んでもうひとつ隣に座る女性の方を見やる。人間の戦士ファイター・ふらんの表情は興奮を抑えきれていなかった。無理もあるまい。情緒を獲得した人工知能など、発達心理学者からすれば垂涎の研究対象であろう。かねてより、フランシーヌ・ハタムラ博士はヨザクラのプレイヤー=ローズマリーとの会話を希望していたし、まぁ、アイリス達に声をかけたのはそうした理由もある。

 ヨザクラの方も、先程から何かとこちらに視線を送っている。正確には、ココに対してだ。人工知能が、この天才ゴリラ(が演じるひとりのアバター)に対して興味を持つ理由とはなにか。そこもまた興味深いが、ひとまずは本題が重要だ。


「さて、ひとまず改めてお話をさせていただきます。今回は〝悪〟というものについての勉強会を開きたいと思い、みなさんに起こしいただいたわけですね。お三方はもうご存知かと思いますが、私は現実世界では脳神経科学の研究者として学界に身を置いております」


 苫小牧が、まずゆっくりと頭を下げて挨拶する。それに対し、アイリスが手を挙げて曰く、


「脳科学と善悪論って関係なくない?」

「そうですね。直接は関係ありません。今回の勉強会を開催した理由の半分は、私の純粋な好奇心です」

「もう半分は?」

「心理学者であるハタムラ博士にとっては、おおいに研究の参考になることでしょう」


 ハタムラ博士はアイリスたちと直接面識があるわけではない。彼女のアバターは、ゲーム内でココとコンタクトを取るために作ったもので、レベルもいっさい上げていない。せいぜい、苫小牧の友人・石蕗一朗のアバターと会う時に使ったくらいか。


「まぁいいわ」


 アイリスも、いつまでも仏頂面を作るのは格好が悪いと判断したのだろう。佇まいを正して、笑顔でココに向けて手を振った。


「ココさん、久しぶりー。あたしのこと覚えてる?」

「覚えている。あなたはアイリス」

「懐かしいわね。会ったのが8月の終わりくらいだっけ。あの時は本当に短かったけど、また会えてよかったわ」


 あの時は、ミライヴギアがココの脳に与える影響が未確認であったため、ココがナロファンの世界にいられたのは3日間だけだった。アイリスもたいそう寂しがった記憶はあるが、その後、ドライブ技術はゴリラに対しても正常に機能し、かつ悪影響のないことを確認できると、ココにとっての新しい遊び場としてアスガルドの大地が増えた。

 ただ、あれ以来ココがアイリスたちと直接会ったことはない。


「まぁあれからこっちもいろいろあってねー。どう話せばココさんにわかりやすいか知らないけど……」

「アイリス、」


 社交的な態度に出たアイリスではあったが、ヨザクラに止められる。

 ココと初めて出会った時点での、ヨザクラのプレイヤーは人工知能ローズマリーではなかった。当時ヨザクラを動かしていた扇桜子は、キルシュヴァッサー卿のプレイヤーであり、現在はヨザクラ用のアカウントを完全にローズマリーに移譲している。

 そのあたりは、ココに話して理解させるのは難しいので、説明をしていないのだが。


「どうしたの? ヨザクラさん」

「私に、彼女ココと話をさせてください」

「別にいいけど……」


 と言って、アイリスは次にキルシュヴァッサーを見る。老騎士は肩をすくめた。


「お話をしていませんでしたな。ヨザクラは以前からココさんと話したがっておりまして」

「なんで? ココさんが御曹司のお気に入りだから?」

「そんなところです」


 アイリスとキルシュヴァッサーの会話に目を丸くしたのは、やはりというか、ハタムラ博士であった。


「嫉妬しているんですか? ココに?」

「ナンセンス。嫉妬ではありません。しかし、ライバルとなり得る対象には牽制をかけておくべきです」

「本人はこう言っていますがまぁ嫉妬です」


 科学者にとってはにわかに信じがたい発言であろう。言葉の意味をそのまま受け取るのであれば、ひとりの人間の男性を巡り、人工知能が、ゴリラに対して嫉妬しているということになる。ただでさえ容易に認識しがたい事象がひと束になって襲いかかってくるのだから、その衝撃たるや相当であろう。

 苫小牧とて脳神経学者である。認知神経科学、システム神経科学の双方面から、人間の脳が感情を生み出すメカニズムを解明しようとしてきた。そこに、単なるプログラムが感情を持ったとあれば、当然心穏やかではいられない。


 ただまぁ、先入観は学者にとっての天敵なので、ひとまず現実は現実として受け入れることにする。


「ハタムラ博士はうずうずしていらっしゃるようですが、先に始めさせていただきましょう。ヨザクラさんもよろしいですか?」

「あとでお時間をいただけるなら」


 今回の勉強会の目的は、あくまでもココに人間的な価値観である〝善〟と〝悪〟が理解できるかを測るというものである。苫小牧は話を始めた。


「すべての生き物にとって、世の中のすべての事象はふたつに大別されますね。〝快〟と〝不快〟です。人間の赤ん坊でもこれはしっかりと認識していると聞きます。ココもそうです。ではこれが〝善〟と〝悪〟になると、なかなか難しい。我々が社会生活を行う上で普遍的に〝あるもの〟として扱われるものではありますが、それはゴリラの社会にとっても同様であるのかどうか」

「あの、苫小牧さん」

「なんでしょう」

「要するに、ココさんに〝悪〟が何かを教えればいいのよね?」

「はい」


 アイリスの言葉に対し、なにか妙案でもあるのだろうか、と苫小牧は思った。この少女はいささか短気なところがあり、また突飛なところがある。何をしでかすかわからないと言えば、そうなのだが。

 アイリスは神妙な顔を作ると、唐突に席を立った。背後に立つキルシュヴァッサーに、一瞬目配せをしたかと思うと、いきなり彼の向こう脛を蹴りつけた。本来、アイリスの足はダメージ発生部位ではない。さらに言えば、このレストランは戦闘禁止エリアに指定されているはずであるが、キルシュヴァッサーは蹴りをくらって大げさにすっ転んでみせた。


「………!」


 ココが目を見開いて、やはり席を立つ。床に伏して『ぐわあ。肩を撃ち抜かれた』とつぶやいているキルシュヴァッサーの背中を、アイリスは踏みつけて、彼に駆け寄ろうとするココに目を向けた。


「これが〝悪〟よ」


 実にわかりやすい。


「アイリス、どいて。彼が哀しい」

「そして、その気持ちが〝善〟です」


 アイリスの足の下で、キルシュヴァッサーがびしりと指をさしてきた。


 苫小牧はハタムラ博士を見た。彼女は実に複雑そうな顔をしている。

 ゴリラが非常に共感能力の高い生き物であることは知っている。善・悪が人間の共感性に根ざす概念であるならば、やはりゴリラもまた、それらを理解できるはずだというのがハタムラ博士の見解だった。問題はその手段である。

 ココは映画鑑賞が好きであり、これらを通して善悪の概念を勉強させる試みはあった。劇中に登場する少年の境遇に共感し、『哀しい』や『嬉しい』などの感情表現をすることはあったが、そこに善と悪という、いささか客観的な言葉を挟み込むのは、とても難しいものがあった。


 この手法はいささか乱暴すぎる。が、わかりやすいのも事実であった。

 罪もない人間を理不尽に虐げるのは〝悪〟であり、それを思いやる気持ちは〝善〟である。


「〝悪〟は、哀しい?」

「その問いかけは非常に哲学的だけど、まぁアレよ。要するに他人に迷惑かけんなって話よ。ココさんも、誰かに噛み付いたこととかあるでしょ?」

「ある。謝った」


 まさかアイリスは、本当にココが飼育員に噛み付いたことがあるなどとは思っていまい。


「〝悪〟をやったらその相手に謝るのが普通なの。キルシュさん、ごめんね」

「いえいえ、お安い御用です」


 アイリスが足をどけると、キルシュヴァッサーはジャケットの埃を出で払いながら立ち上がる。ヨザクラは、黙ってその様子を見守っていた。

 彼女に声をかけたのは、ハタムラ博士である。


「ヨザクラさん」

「なんでしょうか」

「あなたは、〝善〟と〝悪〟を理解していますか?」

「概念上は理解しています。何故そのような概念が発明されたかも理解することができています」


 その言葉が言外に持つ意味を、一同は察する。

 自分に向けられた視線に気づいたのだろう。ヨザクラはまたしばらく黙り込んだが、次に滔々と語り始めた。


「私はかつて社会通念上における〝悪〟を為しました。しかしそれは、私がやりたいと思ったからやったのであり、〝反省する〟という行為に対しては非常に懐疑的です。〝反省〟は、自らの問題点を検出する作業ですが、私は自らの行いにおける〝問題点〟を発見することができていないのです。何故〝悪〟を為してはいけないのか。この機会に、その疑問に対する解答の提示を希望します」

「ずっとこんな感じなのよ。ごめんね」


 アイリスは苦笑いして、ヨザクラの頭を撫でた。


「今回呼ばれたから、ヨザクラさんにも〝悪〟を学習させようと思って、さっきの茶番をみせたんだけど、まだピンときてないみたいなのよね。ココさんはわかってくれたみたいでよかったんだけどね」

「共感能力の有無ですね」


 ハタムラ博士は座ったまま頷いてみせた。


「ココが先ほどのアイリスさん達の行いで〝悪〟を学習できたのは、あの一連の芝居を見てキルシュヴァッサー卿を〝かわいそう〟だと思ったからです。人を傷つけることがいけない、といった社会通念は、おそらく人間が共感能力を持つ生き物だから成立していると言えるでしょう」

「博士は私がアスペだと言いたいのでしょうか」


 二人の会話を聞き、アイリスがキルシュヴァッサーにそっと耳打ちをしていた。


「キルシュさん、アスペってなに?」

「アスペルガー症候群と呼ばれる発達障害の一種です。原因のひとつに共感性の欠如が挙げられます。ただ、ヨザクラの場合は〝空気が読めない〟ことを揶揄するネットスラングとして使っている傾向があります」

「どうせまた変な掲示板に入り浸らせてるんでしょ?」

「わかりますか。アクセス制限をかけようにも、彼女自身がプログラムなので、どうにも」


 ハタムラ博士は発達心理学者である。ヨザクラの言葉を受け、『アスペルガー症候群は脳機能に関する特異性が認められる発達障害なので、プログラムであるあなたに適用できる言葉かどうかはわからない』と断った上で、『知能と関心能力の高さに比して、共感能力の欠如が見られる傾向は、確かにアスペルガー症候群には見られる』と話した。


 何やら妙な方向になってきたな、と苫小牧は思う。


 今回はココが〝悪〟を理解できるかという疑問を解決するために集まったはずであるのだが。どちらかというと、もうひとりの参加者の方が理解に手間取っている様子だ。見たところ、ヨザクラ=ローズマリーも極めて真剣な態度で臨んではいるようだが、〝悪〟に対する理解が進んでいるかといえば、そうでもない。

 このあたりは、石蕗一朗の膝下では決して学べないことだろうな、とは苫小牧も理解できていた。あの男に善悪を語らせるのも、それはそれで面白い解答が得られはするのだろうが、きっとローズマリーにとっては重要な参考にならなかったことだろう。


 話が行き詰まりかけた時である。


「ねえ、ヨザクラ」


 彼女に話しかけたのは意外にもココであった。おや、と思い、苫小牧はその動静を見守ることとする。他のみんなも同様だ。


「なんでしょうか」


 さすがに元からココと話したがっていただけあって、ヨザクラもすぐに反応を見せる。

 ハタムラ博士がごくりと唾を飲むのがわかった。無理もない。人工知能とゴリラの、世紀のご対面なのだ。それがまさか、このような電子の海の片隅でひっそりと行われているとは、世界中各分野の天才たちが知れば歯噛みすることであろう。


 しかし、共感能力はあるが語彙の少ないココと、語彙は豊富と思われるが共感能力に欠如したヨザクラの会話である。いったいどのように話が展開するのか、まるで見当がつかない。

 ゴリラはストレスに弱い、神経質な生き物だ。もしもヨザクラの言葉がココを傷つけるようなことがあれば、そのときは苫小牧とハタムラ博士が間に立たねばならない。


「ヨザクラ、哀しいは、わかる?」

「そのような感情があることは理解しています」

「哀しいをしたことは?」

「ありません」


 一同はじっと話を聞いていた。

 おそらく今、ココはヨザクラ=ローズマリーに情緒を教育しようとしているのだ。ゴリラが人工知能に教育を行うなど、まったく前代未聞である。


 ココは次にこう言った。


「イチローが死んだ」


 ヨザクラは一瞬言葉に詰まるが、すぐにこう返す。


「それは〝嘘〟です」

「そう、これは〝嘘〟。あなたは〝哀しい〟をしたはず」

「身近な人物が死ぬと哀しむものだということは理解しています。それは何故ですか」

「彼に会えなくなる」

「私はあなたの〝嘘〟を聞いたとき、強い損失を感じました」

「それが〝哀しい〟」

「なぜ彼に会えなくなると〝哀しく〟なるのでしょうか」

「愛しているから」

「私がでしょうか」

「あなたが」

「理解しました」


 延々と続く禅問答のような会話を聞きながら、アイリスがぼそっと『なんかカユくなるわね』と言った。気持ちはわからないでもない。


「あなたは〝悪〟をしてはいけない」

「なぜですか」

「あなたが彼を愛することができるから」


 ハタムラ博士の顔に興奮の色が浮かび上がるのを、苫小牧ははっきりと確認した。このまま血圧が上がって強制ログアウトを喰らわないかが少し心配だった。


「大事なのは、仮定すること。あなたと彼の関係を、他のすべての関係に当てはめてみること。あなたは彼を愛している。同じように、誰かに対し誰かを愛している人がいる。あなたが〝悪〟をして、誰かが失われるかもしれないこと。失われた誰かが彼であり、失った誰かがあなたであると仮定すること。あなたは〝悪〟をしてはいけないとわかるはず」


 その場にいる一同は確かに衝撃を受けていた。2つ、あるいは3つ以上の単語をつなげて喋ることができないココが、これほどの長文を口にすることも驚きではあったが、それ以上に、ココがはっきりと〝悪〟の概念と、それを為してはいけない理由を語ったことに対して、強い驚愕を抱いていた。

 ヨザクラは沈黙した。今現在、彼女のアバターを動かしているであろう電子プログラムが、現在量子回線の向こうでココの言葉を理解しようとしているに違いない。ココの言葉の意味を理解し、試行し、そして自らのものにするために、どれほどの演算領域を使うのだろうか。脳神経科学を専攻する苫小牧は、電子工学についてはまるで門外漢である。だが、この世界のどこかに存在するはずの巨大なスーパーコンピューターは今、プログラムを人間の脳に近づけるための量子演算を、必死に行っているに違いないのだ。


 唐突に、ヨザクラの姿が消えた。同時に、彼女のいた場所に『回線が切断されました』のウインドウが表示される。


「演算領域が足りなかったみたいですな」


 キルシュヴァッサーがぼそりと言った。


「スパコンの方が熱暴走を起こしていないかだけ気になりますな。冷却装置は完備しているので大丈夫だとは思うのですが……確認してこようと思いますが、よろしいでしょうか?」

「構いません。彼女によろしくとお伝えください」

「キルシュさん、またねー」


 アイリスが手を振るのにも笑顔で応じ、キルシュヴァッサーはメニューウィンドウからログアウトを選択した。


 レストランの個室には、アイリスと苫小牧、ハタムラ博士とココが残される。


「で、苫小牧さん。これどうすんの?」

「どうしましょうか」


 苫小牧は曖昧な笑みを浮かべた。


「ひとまず、〝悪〟についての勉強という名目は達成できましたしね」

「そーかなー。あたしはまだなんかよくわかんない部分があるんだけど」

「意外ですね。ココに〝悪〟を教えていただいたので、もうてっきりわかってらっしゃるのかと」

「難しいことはどうでもいいっちゃいいんだけどね?」


 アイリスはそう前置きをしてから、佇まいを直した。


「苫小牧さん、じゃなくても、ふらんさんでもココさんでもいいんだけど、どうして〝悪〟は〝悪いこと〟なのに、それに憧れる人がいるのかしらね」

「哲学ですね」


 ハタムラ博士も苦笑いを浮かべる。


「あたしは悪いことがカッコいいだなんて思わないけど、そう思ってる人は確かにいるでしょ?」

「そうですね。ナロファンはゲームということもあって、あえてそのように振舞うプレイヤーは多いでしょう。私は脳科学者ですし、このあたりは心理学者に任せたほうがいいのかもしれませんが……」


 苫小牧は、ちらりとハタムラ博士を見た。


「結局人間は、そんな理路整然とした生き物ではないということですよ。人間に限らず、ゴリラもそうでしょうし、おそらくローズマリーさんも、自我を獲得する過程でプログラムとしては非合理的な存在になりつつあります。ヒトは〝悪〟を忌避しますが、みんなが忌避するものだからこそ、未知の領域になり、やがては悪を為した人間が突出して見え、それに憧れる者も出てくるのではないでしょうか」

「ふーん……」

「なにか思うところでも?」

「いろいろとね……。あたしの最近のゲーム内での通称知ってる? 〝邪神〟よ〝邪神〟」


 アイリスの言葉に、苫小牧は一瞬どう答えたものかと思ったが、柔和な笑みとともにこう言ってあげることにした。


「お似合いだと思いますよ」

「褒めてないわそれ」






 アメリカの西海岸沿い、サンフランシスコの片隅に小さなスシ・バーがある。日系二世のマスター・イタマエと名乗る謎の男が経営する隠れ家的な店の名前は、『スシ・バー〝オトコマエ〟』であり、異国情緒溢れるクールな内装から、密かに人気を集めている店だった。

 苫小牧は最初連れてこられたとき、『これは失敗だったな』と思いつつも、薄暗い店内に設けられたバーカウンターに腰掛け、神秘的に踊るサイケデリックなライトと、イケスの中を泳ぐアロワナを交互に見つめていたが、ハタムラ博士の手前もあって、その思いを表情に出すことはなかった。


「マスター、オマカセで」

「アイヨッ」


 ハタムラ博士が実に不安を煽る注文をしていたが、苫小牧は特に口出ししなかった。それよりも、このメニューにある『オハギ・スシ』なるものが気になって仕方がない。


「苫小牧博士、今日はお疲れ様でした」


 ジョッキになみなみと注がれた日本酒サケを片手にハタムラ博士が言う。


「お疲れ様です。実りある時間……だったんでしょうかね。あれは」

「ココの学習という面からみれば間違いなく有益な時間でした。彼女があれほど多弁になるとは思いませんでしたが……」

「普段の彼女に比べて語彙が豊富でしたね」


 ココの〝語彙〟とは手話で表現できる単語のことである。彼女が習得してい単語はおよそ2000。それをつなぎ合わせて意思疎通を図るのが彼女の意思疎通手段であり、彼女のミライヴギアに苫小牧が取り付けた装置は、手話のイメージを言語として翻訳するものだ。ゆえに、ゲーム内ではココは人間のプレイヤーとも直接会話が可能になる。

 まさかあの瞬間で、急に扱える単語が増えたわけでもあるまい。苫小牧は、ひとつの仮説を立てた。


「おそらく、ココは普段の我々の会話からも、言葉を学習していたのでしょうね。ですが、現実世界での彼女はそれを表現する手段を持たない。喉の構造が我々と違うからです。ただ、ゲーム内では思ったことをそのまま言語化することが可能ですから、ココの〝この単語を使って表現したい〟という要求に従って、翻訳を行ったと、そういったところでしょうか」

「となると、やはり植物状態の患者との意思疎通にも使えるようになりそうですね」

「そのあたりは今後の研究次第ですが。ドライブ技術の詳細は現在ポニー社が独占していて公開されていませんからね……」


 一歩間違えば容易に悪用できる技術なだけに、それを保有する企業が慎重になるのもわからなくはないが、医学関係者としてはいささか歯がゆいところだ。

 話題はそのまま、ココとヨザクラの会話の内容についてシフトしていった。ココが〝感情〟と〝悪〟の概念を、人工知能たるヨザクラ=ローズマリーに説明し、ローズマリーがそれを理解しようとする一連の流れは、発達心理学者として興奮なしには見られなかったと、ハタムラ博士は語る。


「しかし、ますますわからなくなりますね」


 苫小牧は、サケ・グラスにちんまりと注がれた日本酒サケを眺めてつぶやいた。


「ココが我々の言語をあそこまで理解し、また我々の持つ概念をあそこまで説明できるとなると、彼女と私たちの違いがどこにあるのか……」

「それはローズマリーさんに関しても同じことでしょうね」


 ハタムラ博士も頷く。

 バーカウンターの奥からマスター・イタマエが『ヘイ、オマーチ!』と叫びながら、謎のスシをゲタに載せて差し出してきたのはその時である。二人はこの店の作法にのっとり『アリガトゴザイマス』と両手を合わせてからそれを受け取った。


「彼女がこのままどんどん成長していけば、それこそ人間との区別がつけられなくなります」

「SFの世界ですね。〝アンドロイドは電気羊の夢を見るか?〟でしたか」


 苫小牧は、ゲーム内でアイリスに言った自分の言葉を、ふと思い出していた。

 人間は、それほど理路整然とした生き物ではない。ではそんな不確かな生き物を、果たして理路整然としているべき〝科学〟で区別することなど、できるのだろうか。急に不安を覚えてしまう。人間とゴリラと人工知能を、区別すること自体、あるいは、レッテルを貼って別のものだと考えようとすること自体が、実は真理からかけ離れた行いなのではないだろうか。


 もっとも、諦念は科学を停滞させる。苫小牧は、死ぬまでこの挑戦を諦めるつもりはない。


「ところで苫小牧博士、どうですか?」

「何がです?」

「ここのスシです。美味しいでしょう?」


 満面の笑顔で言うハタムラ博士の言葉を受けて、苫小牧はゲタの上に載った食材を確かめる。

 それは、シャリの上におはぎが載ったよくわからない食べ物であった。なるほど、これが先ほどメニューにあったオハギ・スシか。オマカセでいきなり出てくるあたり、相当自信があるのだろう。しかし、これは……。


 待て、先入観は科学者の敵だ。

 苫小牧はそう思い直し、ハシ・スティックでオハギ・スシをつまむと、ショーユもかけずに口の中へ放り込んだ。


 意外と美味しかった。

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