(8)
「アイリスブランドぉーっ、ふぁいっ!」
『オウッ!』
「ふぁいっ!」
『オウッ!』
「ふぁいっ!」
『オウッ!』
「よっしゃー、行くわよ!」
アイリス達は円陣を組み、気合を入れた。
ヴォルガンド火山帯の中腹部は大混乱である。アイリスの演説が、その場にいる全員の魂を揺さぶり感動と号泣の坩堝と化した。などということはまったくと言って良いほどなかったのだが、彼女の啖呵と宣戦布告は、少なくとも立ちはだかるすべてのプレイヤーに対して向けられたものである。彼女の敵意を向けられたことで、初心者・中堅プレイヤーの多くは激しく動揺したのだ。可哀想に。
混乱と動揺は赤き斜陽の騎士団に対しても広がった。アイリスブランドははしょせん弱小ギルドである。だが、その弱小ギルドに幾度となく煮え湯を飲まされてきたのは彼らだ。幾度となくと言うわりには、実際2回くらいしか数えられないのだが、ストロガノフ達の脳裏に刻まれた惜敗の記憶は都合1万回と計上してもなお足りない。
赤き斜陽の騎士団にとってアイリスブランドは油断のならない敵なのだ。彼らは1日1回限定のグランドボスを探すために、すでに散り散りになっている。
「彼らはもう場所の目処はついています」
その様子を眺めながら、ヨザクラがぽつりと言った。アイリスが尋ね返す。
「そうなの?」
「はい。ここに集合する前に、こっそり彼らの活動を諜報しておりましたので、」
「ああ、メイド忍者らしい活動ってそういう……」
「火山帯の深奥部に、一日限定のグランドボスが出現するようです。騎士団も一部のメンバーは、他プレイヤーの牽制と陽動に動いています」
ヨザクラはメニューウィンドウからアプリケーションを開き、事務的な口調で告げた。キルシュヴァッサーは腕を組んでそれを聞き、ギルドリーダーに指示を仰ぐ。
「いかがなさいます。騎士団のイベントにかける情熱はいつものことですが」
「あそこで啖呵切ったからにはやらなきゃなんないでしょーが」
「ですな」
アイリスは気合を込めて自らの手のひらに拳を打ち込む。
なにしろこれは大勝負だ。気概で十分勝っているとは言え、あの騎士団を出し抜かねばならないとすれば、勝てる見込みは薄い。だが今の彼女にとって、現実的な勝算というのはどうでもいいことだった。今の彼女は、自分でもどうすればいいかわからないほどに無敵だったのである。
そんな無敵アイリスに、ネムがおずおずと声をかけた。
「あの、アイリスさん。よろしくて?」
「ん、どうかした?」
「実はわたくし、今日に備えてアイリスブランドの共通装備を作ってまいりましたの」
「ほほーう」
ネムのなかのひとは日本のアパレル業界を牽引するファッションブランドの社長であるからして、この発言には期待がかかる。モヒカン野郎オトギリは後ろで首をかしげていた。
「ネムくん、生産系のクラスは取ってなかったと思うんがなァ」
「デザインはわたくしが。実際に作るのは手伝ってもらいましたわ。鍛造組の、えぇと、あのロボットみたいな方に」
「エドワードさんもすっかり便利屋ポジションに収まったわね……」
しかし、共通装備か。騎士団が装備の各部位に輝かせるエンブレムや、双頭の白蛇の一律化された様式美を、『良い』と思ったこともないではない。ただこちらも共通の防具を揃えるという発想にはあまり至らなかった。御曹司がいたころは、キルシュヴァッサーを除く全員の防具がアイリスデザインによるものだった、という事情もあるにはある。
「私は今の防具が気に入っているのですが。特にギミック」
「やめなさい」
無表情のままキャストオフの仕草を取るヨザクラを、キルシュヴァッサーがやんわりとたしなめた。
「キルシュヴァッサーさんも、今の防具が気に入ってるんじゃなかったっけ?」
「今回はせっかくの提案です。あまり意地を張るつもりはありませんよ」
「ふんふん。それでネムさん、どんな防具?」
アイリスが覗き込むと、ネムは満面の笑みでデザイン画を取り出す。アイリスの表情はすぐに複雑そうなものへと変わった。
「ネムさん、これって……」
「以前、アイリスさんが一朗さんの装備をされましたでしょ? あれを参考にいたしましたの」
「当時芙蓉さんにすっごい叩かれた記憶があるんだけど」
「あ、あの時のことは水に流しません? 若かったんですわお互い」
「そうね、若かったわね」
あの時ステージの上で、自分が芙蓉めぐみに吐いた暴言を、アイリスは忘れているわけではないが、ひとまずそう言うことにした。ここで親友にトドメの一撃を加えることは本意ではない。アイリスも、決して鬼ではないのだ(効果には個人差があります)。
さすがにツワブキ・イチローが着ていた装備そのままというわけでもなく、流行の最先端を走る芙蓉めぐみの感性が抜群に生かされたアレンジを施されている。一朗個人の嗜好を無視して考えれば、非常に一般受けする良いデザインと言えるだろう。
が、アイリスの顔は晴れない。
「お気に召しませんでした?」
「そういうわけじゃないわ。そういうわけじゃないの。でもね? これ、五人全員で着るの?」
「防具の性能は今からあまり落ちないように気を使ってくださいましたわ。えっと、あの、」
「エドワードさん」
「そう、エドワードさんが。あと、一応皆さんそれぞれにアクセントになるようなワンポイントの小物を……」
アイリスに手渡されたのはなかなかオシャレな中折れ帽だ。格子柄を意識したジャケットに非常によく合う。キルシュヴァッサーも、ネムから自分専用の頭部装備を手渡され、少しだけ苦笑いを浮かべながら言った。
「まぁ、良いのではないですかな」
「うん、あたしも悪いとは言ってないのよ? ただ……いや、なんでもないわ」
アイリスは意を決したようにメニューウィンドウからギルドの共有インベントリを開き、そこに収められていた新しい装備を受け取った。ネムはアイリスの煮え切らない反応を不思議に思っていたようだが、すぐ他のメンバーにならって自身も装備を整え直す。
果たして、ネムが新たにデザインしたアイリスブランドの共通装備とはどのようなものであるのか。
全員がそれを装備した結果をご覧いただこう。
アイリス、キルシュヴァッサー、ヨザクラ、ネム、オトギリの五人は、横並び一列になってヴォルガンド火山帯の深奥部に連なる道を歩き始めた。今後の方針に悩み、立ち往生していたプレイヤー達は、彼らの姿を見るや動きを止め、萎縮したように進路を明け渡す。
彼らは一様に千鳥格子からのジャケットを着用していた。ヨザクラとネムはスカート、アイリスとキルシュヴァッサー、オトギリはスラックスだ。アイリスは上からベルテッドコートを羽織り、中折れ帽を目深にかぶる。戦闘能力の欠片も感じられない服装からは、例えようもない威圧感が漂っていた。
「キルシュさん」
隣の老騎士(?)に声をかけると、彼は専用装備のサングラス越しにアイリスへと振り向いた。
「なんでしょうかな」
「これやっぱマフィアにしか見えないわよね?」
顔に大きな傷跡とサングラスを装着した銀髪の老騎士は、苦笑いを浮かべたまま何も答えなかった。
インテリヤクザ軍団と化したアイリスブランドは、そのまま山道を駆け上っていく。最初は余裕ぶって横一列に並び威圧感を醸し出していた彼らだが、そのうちそんなのんびりしている状況でもないことを思い出し、縦一列で斜面を駆け上っていく。ネムなどはスカートにパンプスで明らかに山登りに向いた服装ではなかったが、別に敏捷ステータスや移動力にマイナスの修正がかけられているわけでもないので、他のメンバー同様、動きは実に軽やかだ。
「BGMが欲しいですな。〝ソルジャードリーム〟あたりなどが……」
「卿は後期OP派かァ」
「だって、舞台がアスガルドですしね?」
「それでもやっぱり僕は〝ペガサス幻想〟だよ。黄金十二宮編、面白かったなァ」
「私が生まれたのはその黄金十二宮編の真っ最中なんですがな」
アイリスの後ろで、キルシュヴァッサーとオトギリがわかるものにしかわからない会話を続けている。ヨザクラは無表情のまま頷いていたが、彼女は専用ブラウザをダウンロードしなくても、ログインしながら自由にネットサーフィンができる世界で唯一のVRMMOプレイヤーなので、どうせ常にググりながら話を聞いているのだろう。こうして人工知能はデータベースに余計な知識を蓄積していくのだ。あざみ社長にはちょっと聞かせられない。
「まぁどっちの曲にしても、聖闘士星矢のOPテーマの疾走感はついランニング中に聴きたくなると言いますか……」
キルシュヴァッサーは、そこで口をつぐんだ。言い淀んだのではない。進路上に出現した二人の影に気づいたのだ。
キルシュヴァッサーだけではない。火山帯深奥部に向かう、荒れ道の途中、アイリスブランドの五人は足を止めた。
「皆さんを、ここから先へ行かせるわけにはいきません」
二つの影のうち、ひとりがそう言う。白磁のフルプレートアーマーに、聖剣と盾を携えし戦乙女である。白い装甲に、斜陽を模したエンブレムが赤々と輝いていた。
「悪く思うな。五人とも、ここで足止めをさせてもらう」
次に口を開いたのは、やたらと背の低い、ナマズ髭のドワーフだ。巨大な斧と、やはり盾を得物として構えている。
アイリスは慣例に従い二人の名前を読んであげた。
「ティラミスさん、ガスパチョさん」
「違う! もっと驚きを込めて!」
「ティラミスさん! ガスパチョさん!」
赤き斜陽の騎士団が誇る二人の前衛戦士である。彼らは口元に特有の〝強者スマイル〟を浮かべ、『フッ』と笑う。
「そう。赤き斜陽の騎士団が分隊長、この〝男爵〟ガスパチョと」
「〝聖女〟ティラミスがお相手します」
ストロガノフの左右を固め、火力に傾倒する彼の防御面、あるいはパーティ全体のそれをフォローする、守りの要石となるコンビであった。まさか、こんなところで妨害にやってくるとは。
だいたい予想通りだ。
アイリスは、ちらりとキルシュヴァッサーを見る。ジャケットにスラックス、サングラスという強烈な出で立ちからかつてないほどの威圧感を醸し出せるようになった老騎士は、深く頷いて一歩前に出る。彼はアイテムインベントリから一本の剣を呼び出して、正眼に構えた。
ティラミスとガスパチョはその様子を見て盾を突き出す、防御の姿勢を取った。
「キルシュさん、足止めは任せたわ」
「はっはっは、足止めするのは構いませんが、別にアレを倒してしまっ」
「じゃあ、よろしく!!」
アイリスは皆まで言わせずに地面を蹴る。ネムとオトギリもそれに続いた。いかにアイリスとは言え、まさか名台詞キャンセルという凶行に走るとは思わなかったティラミスとガスパチョは、その動きに対応しきれず、三人の突破を許す。
「やーい、無能ー!」
「ロール脳も大概にしとくんだなァー!」
「ば、ばーか。ですわー」
言いたい放題で山道を上っていく三人を追いかけることは、今この二人にはできない。彼らの目の前にいるのは、暗黒課金卿キルシュヴァッサー(ヤクザフォーム)なのだ。手にしているのはドスでもチャカでもなく、1200円のしみったれた課金剣だが、彼のひと振りがゲーム内でも十本の指に入る破壊力を生み出すことを、ティラミスとガスパチョは知っている。盾の構えを解けば、防御特化ビルドの二人であっても、致命傷は免れない。
「ヨザクラ、あなたも行って良かったのですよ」
だが、キルシュヴァッサーの興味はこの時、そんな二人の葛藤と恐怖をまるでよそにしていた。老騎士の隣には、魔族の少女が並ぶ。
「いえ、ご一緒いたします。お父様」
「そうですか。ま、2対2ですな」
レベルの合計では圧倒的に水をあけられているが、キルシュヴァッサーはそう言った。ヨザクラとて、もとは自分がゲーマーとしての知識を総動員して作ったセカンドキャラであり、プログラム故に人知を逸した反応速度と正確性を有するローズマリーとは相性も良い。役割分担さえきちんとできれば、目の前の二人を相手どって遅れをとることなどない。
「お父様、」
「なんですか」
にらみ合いのさなか、ローズマリーが尋ね、キルシュヴァッサーが答える。
「この展開は、やはり黄金十二宮編ですね」
キルシュヴァッサーは、すでに姿が見えなくなったアイリス達のことを思い、軽めに肩をすくめるとこう言った。
「ま、我々の女神は真っ黒ですが」
「こんな展開、前もあったわ」
「ありましたわね……」
山道を駆け上りながら、アイリスとネムはそのような会話をかわした。あれは確かゴリラのココと御曹司がデートしていたときの話だ。二人をつけ回していたアイリス達は、彼らのデートを邪魔しようとするプレイヤーに片っ端から喧嘩をふっかけ、辻斬りまがいの真似をしたのである。
「あの時は僕がこっち側になるなんて思ってなかったなァ」
「あの時はあんたがラスボスだなんて思ってなかったわ」
オトギリは喧嘩をふっかけられた側である。当時からそこそこ名の知れたPKプレイヤーであったので、辻斬りに合うのもやむなしではあったが。
「キルシュヴァッサー卿は大丈夫かなァ」
「大丈夫かどうかっていう話じゃないの。良い? キルシュさんが壁になって、あたし達が今ここを走っている、その意味だけを考えんのよ」
アイリスの言葉は一見非情に見え、実のところ非情以外のナニモノでもなかったのだが、そこには彼女なりの意識の一貫性が存在した。アイリスはたとえ悪と化しても己の意思を貫くと決めたのである。自分に嘘はつけないし、何よりあそこで無様に足止めを食らうようでは、あの言葉を聞いてついてきてくれたギルドメンバーに対する最大の侮辱となる。
「じゃあ、次に足止め役が現れたら誰が相手をするか決めよう」
「あんたよ、オトギリさん」
「躊躇しないなァ」
オトギリは肩をすくめた。この男はモヒカンと千鳥格子のジャケットが壊滅的に似合っていない。
やがて、ついにその瞬間が訪れた。徐々に狭くなりつつある山道の壁に背中をあずけ、ひとりの男が立っている。ダガーをくるくる回しているが、本命の得物がそれでないことはわかっていた。このネコ耳獣人の武器はボウガンである。
アイリスは今度は驚きを込めてその名前を読んであげた。
「パルミジャーノさん!」
「フルネームで呼んでくれ」
「〝流星〟パルミジャーノ・レッジャーノさん!」
アイリスの声からはちょっと苛立ちが漏れていた。
パルミジャーノは、やはり強者スマイルを浮かべるとダガーをしまい、ボウガンを取り出して進路を塞ぐ。ボウガンの矢尻がアイリス達に向けられた。
「ここから先は通さねぇ。イベントボス〝キノコ大魔王〟を倒し、秋の味覚に舌鼓を打つのは、俺たち騎士団だぜ」
「ボスの名前そんなんだったんだ……」
さて、先ほどの打ち合わせ通りである。アイリスとネムの前に、モヒカン男・オトギリが立った。ポケットに手を突っ込み、背筋を〝くの字〟に折り曲げてメンチを切りまくるその姿は、とても1か月前まで経済界を牽引していた大企業の元・代表取締役だとは思えない。
不良かチンピラそのものと化したオトギリは、パルミジャーノを睨みつけたまま言った。
「ほら二人とも、さっさと行けったら」
「え、でも……」
ここで下手に動くと、ボウガンの餌食になるのでは、と思ったが、懸念はパルミジャーノ自身の言葉によって否定される。
「おまえ……あの超ドマイナーアーツ《メンチ・アイ》を取っているな……!」
「さすが騎士団の分隊長は理解が早いなァ。そう、対象となったプレイヤーキャラクターのフォーカスを自分に向けるあの《メンチ・アイ》だ。隠しステータスの【品性】が一定値以下でないと取得できないんだぜぇ」
オトギリの言葉は自分はお下劣ですと正直に告白しているようなものだったが、告白しなくてもわかりきっていることなので、今さら誰もそこを追及する気にはなれなかった。
「と、とにかくありがとう! 行くわよ、ネムさん!」
「え、えぇ……!」
意識のフォーカスをアイリスとネムに合わせられないパルミジャーノは、結果として二人の通過を許した。彼にできることはもはや、目の前のモヒカンをさっさと射殺して、通過した二人を追いかけることだけである。極力、PvPで相手の命を奪うような真似はしたくないパルミジャーノだが、ことがここに至れば仕方がない。
「悪く思うなよ! モヒカン野郎!」
果たしてボウガンから放たれた矢は、回避行動をとったオトギリの頬を紙一重で掠める。彼は得物の毒ナイフを取り出すと、長い舌を出して満面の笑みを作った。いつもの癖で刃を舐めそうになったところを、慌てて引き剥がして、挑発的に叫ぶ。
「このナイフにはなぁ、毒が塗ってあるんだぜぇ!!」
「また、二人だけになってしまいましたわね……」
山道を駆け上りながら、ネムが暗い面持ちで言った。
「あの時も火山帯だったわね」
アイリスは極力感情の色を浮かべないようにして、答える。
アイリスの進む道は、常に誰かの屍の上に成り立っている。そう暗示するかのような展開であった。彼女は自らの目指すモノのためならば、友の亡骸さえも踏みにじるのだ。だが、それでも邪悪なる意思・アイリスは、決してその足を止めようとはしない。
「アイリスさん、」
並走する二人。アイリスの隣を走るネムは、正面を見据えたまま呼びかける。
「わたくしも、その亡骸のひとつになる覚悟はできていますわ」
「ネムさんを酷い目には合わせられないわ」
とてもその彼女をビームの盾にした鬼畜のセリフとは思えない。
「でもアイリスさん、わたくし、友達でしょう?」
「そうだけど……」
議論はそれ以上続かなかった。いよいよ深奥部を目前に控えたその地点で、待ち構える男がいたのだ。アイリスとネムは足を止めた。
黒いローブに全身を包んだ幽鬼のような男である。ゆらりと立ち、巨大な杖を構える姿からは、大魔導士の貫禄が漂っていた。杖の先端部には地球儀のような球体が取り付けられ、それを取り囲むギアは際限なく回り続けている。
アイリスは彼の名前を呼んであげた。
「〝魔人〟ゴルゴンゾーラさん!」
「もっと恐れる感じで呼んで欲しい」
「うっさいわね! いちいち注文つけんじゃないわよ!」
耐えかねた彼女の叫びに、魔人はびくりと肩を震わせる。
「アイリスさん、ここはわたくしに任せて」
「でもネムさん!」
覚悟を決めたように前に立つネムだが、アイリスは納得できないというように叫んだ。
「ネムさんまだレベル16じゃない! そんなゴミみたいなレベルで何が出来るって言うのよ!」
「ひ、ヒトカゲがリザードに進化しますわ」
「ネムさんポケモンじゃないでしょ!?」
アイリスブランドの中で、一番レベルが低いのが彼女だ。ゲームを始めたのが2週間前、リアルでは社長業を続けているためそのくらいは当然だし、そもそもアイリスブランドは戦闘ギルドではない。今までのようにだらだらとやってくる分には、成長の遅さもレベルの低さもまったく気にはならなかった。
が、今は違う。自分たちの目の前に立っているのは、ゲーム内において最強の魔法職に数えられる騎士団の魔人・ゴルゴンゾーラなのだ。当の魔人は、マフィアスタイルのアイリスの恫喝でビビって今にも泣き出しそうだが、彼がひとつ魔法を唱えたところで、消し炭となるのはこちらである。
「アイリスさん、」
どうやらネムは、ゴルゴンゾーラがビビってるうちに、彼女を説得することにしたらしい。
「友達なら、わたくしだけ特別扱いなさらないで」
「でも、」
「わたくし、アイリスさんが悪い人ではないって言いましたけど、やっぱり、結構悪い人だと思いますわ。人の年齢のことは平気で指摘するし、すぐに逆上なさるし、わりとナチュラルに外道な振る舞いをなされますし……」
「い、言うわね……」
「あなたのお友達なら当然のレパートリーですわ」
ネムは、それでもまだ駆け出そうとしないアイリスの背中を、ぐっと押した。
「でも、アイリスさんがどんなに悪い人でも。わたくし、友達ですもの。行って、アイリスさん。先程までの勢いはどうなさったの?」
「ネムさん……」
「早く、行きなさい!」
かくして、少女は拳を固める。大切な友人に背を向けて、山道を一気に駆け上る。自らの目的のためならば、友人すらも犠牲とするその様は、まさしく邪悪の権化であったと言えよう。しかし彼女はもはや、それでも一向に構わないのだ。アイリスが躊躇する最後の一線は、友人のひと押しによって飛び越えられた。
ただ独り、山道を駆け上っていくアイリスは、しかし決して孤独ではないのだ。
「お待たせしましたわね。ゴルゴンゾーラさん」
大親友の背中を見送った後、ネムは言った。が、ゴルゴンゾーラの様子がどうにもおかしい。彼は顔を伏せ、杖を地面についたまま、何やら片手で顔を覆っていた。耳を澄ますと嗚咽が聞こえたので、ネムもさすがにちょっと動揺した。
「ご、ゴルゴンゾーラさん……?」
「友情って……良いものだよな……。わかるよ……」
「え、えっと? そうですわね……?」
ネムには、この黒ローブの魔人が鼻水をすすっている理由がいまいちわからなかった。
キルシュヴァッサーも、ヨザクラも、オトギリも、そしてネムも。
みんないなくなってしまった。アイリスを先へと進めるために、彼らは自ら犠牲を買って出た。なお、オトギリに関してはアイリスがけしかけたも同然であるのだが、そのへんは彼女の脳内で都合よくドラマチックな再解釈が行われていた。
火山帯の深奥部に、アイリスはとうとう足を踏み入れる。ただでさえ高レベルの強力なMOBがうろつくフィールドだ。アイリスがソロで乗り込むには、いささか危険であると言えたが、それでも彼女は躊躇をしなかった。
フィールドには、溶岩の熱気が漂う。岩の割れ目からは時折マグマが噴出し、まるで地獄の三丁目を散歩している気分だ。
イベントボスは、キノコ大魔王だったか。そんなものがこんな火山の奥地に生息しているとも思えないのだが、ヨザクラがあそこで冗談を言ったとも考えにくいし、何より騎士団の精鋭たちはここを守るように配置されていた。間違いはないのだろう。
「来たか、アイリス」
威厳を感じさせる、渋みのある声が響く。アイリスが振り向くと、そこには赤髪鷲鼻の巨漢が、腕を組んだまま仁王立ちしていた。
「ストロガノフさん……」
「分隊長たちは足止めに失敗したか。まぁそんなところだろうと思ってはいたが」
正直に言おう。
アイリスはかつて、このストロガノフを脅威だと感じたことは一度もない。確かにやたら強そうで、迫力はあるし、実力のあるプレイヤーたちを束ねている男だが、いつも御曹司やキングキリヒトに美味しいところを持っていかれるだけの、単なるかわいそうなオジサンとしか思ったことはなかった。実際彼は、単なるかわいそうなオジサンであった。
だがそれは、比較対象が規格外であった場合の話である。アイリスの目の前にいるのは、間違いなくゲーム内最強ギルドの頂点に君臨する男、〝鬼神〟ストロガノフなのだ。心が無敵と化したアイリスは、その威圧感に臆することはなかったが、それでも、相対しただけで彼我の圧倒的な実力差を認めざるを得ない。
「そうビクビクするな。ここでやり合おうとは思わない。おまえの首などいつでも落とせる」
「その発言は、油断しまくって寝首を掻かれるパターンだと思うんだけど……」
「やれるものなら、やってみればいい」
にやりと笑うストロガノフを前に、アイリスは思案する。
ストロガノフはアイリスに油断している。だがかと言って、その油断に付け込んで彼を倒すことができるかといえば、ノーだ。ストロガノフの攻撃ステータスは、単純数値で言えばおそらくゲーム内最高である。プレイヤースキルや戦術などを加味すれば、最強をキングキリヒトに譲るとしても、剣のひと振りでアイリスの首を落とせるのは事実なのだ。そして、それを覆えせるだけの技量を、アイリスは持ち合わせていない。
だが、
やはりストロガノフの判断は失敗だろう。彼は気づいていないのだ。アイリスの武器は、決して攻撃数値の尖った装備ではない。広範囲に大ダメージを撒き散らす魔法でもない。そして、針を縫うような精密なプレイヤースキルでもない。
その恐ろしい武器が、自身に向けられる可能性があることも、ストロガノフは微塵も考えていないのだ。
再起不能にしてやるわ。
邪悪の化身は、覚悟を決めた。




