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234 マチルダさん



 アルスフィアットに着いたのは夕刻前。

 御者はハンスだ。

 顔見知りのヤンスさんと俺が顔を出した時点で、門番は何も言わずに通してくれた。

 軽く頭を下げて門を通り抜ける。

 門番のおっちゃんがなんとも悲しそうな表情で俺を見ていた。

 嫌な予感が胸をずきりと締め上げる。


 ぱかぱかガラガラと馬蹄と車輪の音だけが響き、重い沈黙が流れている。

 俺はひたすらマチルダさんの無事をアルマ女神に祈り続けた。

 まずはマチルダさんの家の前に俺を下ろしてからヤンスさんは馬車の停められる宿屋にチェックインするそうだ。

 止まった馬車から降りる足が震えている。

 俺が馬車からおりるとヤンスさんとハンスが御者台で入れ替わり、ハンスは俺に付いてくる。


「ハンス頼んだぞ」

「はい、任せてください」


 今回ハンスが選ばれたのは多分マチルダさんを知らないからだ。

 孤児院の子供達も『マチルダおばあちゃん』と懐いていた。

 ここでイザークやテオを付ければ俺のフォローどころか本人達まで泣き崩れてどちらも立ち上がれなくなってしまうだろう。

 同じ理由でデイジーやオーランドも除外されたのではないかと思う。

 なんだかんだで私設孤児院に顔を出していたあの二人はマチルダさんとも知り合いだし、何より気質が優しすぎるのだ。

 ジャックとエレオノーレさんはニコイチなので今回は省かれたのかな。


 マチルダさんの家の前に降りてドアベルを鳴らそうと伸ばした手が止まる。

 入りたいけど入りたくない。

 力無く横たわるマチルダさんを見ていつも通りでいられる自信がない……。

 横でハンスがオロオロと手を上げたり下げたりしている。


「キリトさん、一回宿屋に向かいますか?」

「ぃ……いや、だぃ……大丈夫……」


 そっと背中に当てられた掌が温もりを伝えてきた。

 大きく息を吸って、ゆっくり吐く。

 震える手で呼び鈴を鳴らした。

 中からバタバタと足音が響き、マーサさんが顔を出す。

 その顔は見る影もなくやつれており、俺の顔を見て、ほっとした様な、泣きそうな様な、嬉しい様な複雑な表情をこぼした。


「おかえりなさい、キリトさん……。よく、よくぞ帰ってきてくれました……」


 俺の手を握ったマーサさんの手は冷たく震えて、ガリガリになっていた。

 そして、そんなやつれきった手が想像以上の力で握られた手が少し痛い程である。

 迎えを喜ぶというよりも、溺れぬ為に縋り付くかの様に見えた。

 顔色の悪さから食事も休息もまともに取れていないのではないかと想像できる。

 そんなマーサさんを見ていたら、自分がしっかりしなければ、との気持ちがむくむくと湧き上がってきた。


「マーサさん、ただいま戻りました。マチルダさんには会えますか?」

「ええ、今孤児院の子達も来ているのですよ。さあこちらへ」


 できる限り頼り甲斐のある落ち着いた声と態度を維持したつもりだが、膝が震えている。

 マーサさんの案内に従い、マチルダさんの寝室に向かった。

 扉は開けられたままだった。

 それ程大きくはないが豪華な天蓋の付いたベッドの周りに子供達が鈴生りに張り付いていた。


「にいちゃん!」

「にいちゃん!おばあちゃんを助けて!」


 俺に気がついた子供達が駆け寄ってくる。

 どの顔も張り詰めていて、悲しみに満ちていた。

 ベッドに視線を向ければぐったりと横たわるマチルダさんが。

 元々細かったが、骨に皮を被せただけとでも言うべきやつれ具合だった。

 ひゅー、ひゅーと細く、頼りない呼吸音が届く。

 時折喉の奥に痰が絡んでいるのかゴロゴロという音が混じってもいる。

 肌も乾き切って、土気色。

 あまりにも明確な死の気配を纏っていた。


「あ、あ……マ、マチルダ……さ、ん……」


 腰回りに張り付いた子供達がぱらぱらと離れていく。

 食事も、もうまともに摂れていないのだろう。

 カサついた唇はひび割れている。


「……」


 近づく俺の気配に目を覚ましたマチルダさんがこちらを見た。


「なんだい……来ちまったのか……」

「ーーーっ!」


 少し濁ってしまったマチルダさんの瞳は焦点が合っていなかった。




「本当に、本当にギリギリだったのです。お医者様によればもう幾日も無い、と……」


 涙ながらに話すマーサさんに今晩は俺が看病するから休む様に言い聞かせ、孤児院の子供達にマーサさんを休ませる様にお願いした。

 そうしてマチルダさんの看病がスタートした。

 食事も流動食を魔法で作って食べてもらったり、少しでも水分を補給してもらえる様吸飲みを作ったり、スポドリを入れたり。

 マチルダさんは多くの時間を眠って過ごした。

 しかし、起きている間には沢山の話をした。

 その話は取り留めもなく、花が綺麗に咲いただの、懐かしい彼方の話だの、俺の恋人はまだ出来ないのかなど、ぽつりぽつりと穏やかに過ぎていった。


 アルスフィアットに滞在して四日目の昼、目が覚めたマチルダさんが街の皆を呼ぶ様に言ってきた。

 子供達が彼方此方に走り出し、沢山の人間が部屋に集まった。

 職場の人や門番の中で特に仲の良い人などもいて、そういった人達に一言ずつ声を掛けていくマチルダさん。

 憎まれ口を叩いて、お互いに泣き笑いの様な表情で最期の時を過ごしている。

 でもそれが嫌でしょうがない。

 苦しい。

 悲しい。

 ーーー寂しい。

 涙が溢れて止まらない。


「さぁ…こっちにきておくれ、私の可愛い孫達……」


 そんな中、孤児院の子供達が呼ばれた。

 弱々しいく震える声、子供達は涙に濡れた顔でマチルダさんに抱きついた。

 孤児院とマチルダさんの関係を知らない者はここには居ない。

 大人達は目頭や鼻を押さえながらそっと部屋を後にする。


「ほら、キリト。アンタもこっちにくるんだよ」

「ーーーっ」


 にこりと力無く微笑んで俺に手を伸ばすマチルダさんの近くに寄る。

 もう涙で前が見えない。

 そんな俺を含め子供達を優しく抱きしめてマチルダさんは言った。


「孫に囲まれて死ねるなんて幸せな事だよ」

「そんなこと言わないで!」

「しんじゃやだよ!」


 口々に子供達が叫んでしがみつく。

 さも、死の世界に絶対に連れて行かせない!というかの様に。

 それを悲しそうに微笑んで見つめると、急に苦しそうに息を荒げ始めた。

 俺は涙で揺れる視界と、痛くて仕方ない喉、震える声で呪文を唱える。


「全知全能たる女神、アルマ女神よ、我が祈りをお聞き届けられたならば、慈悲深き女神の御力を御恵み下さい……」


 お願いだ、死なないで……!

 今までと同じ様に、むしろそれ以上に祈りと魔力を込めてフル詠唱したのだが、全く手応えがない。


 ーーヒールが効かない。


 そもそも発動しない。

 慌てて子供達に手伝ってもらい、皆で唱和してもアルマ女神は来てはくれない。

 マチルダさんも苦しんだままだ。


「そんな……なんで……ッ!」


 諦めずに何度も何度も繰り返しヒールを唱え続けると、ぐわっと神威を感じた。

 目の前にアルマ女神が現れてくれた。

 しかし、女神は悲しげな表情で首を横に振る。

 そしてそっとマチルダさんの頭と胸を撫でて消えた。

 マチルダさんの苦しげな表情がスッと楽になる。

 一瞬嫌な予感が胸を過ぎた。

 苦しまずに魂を連れて行ったかもしれない、と心臓がギュウっと締め付けられた。

 しかし、マチルダさんは一呼吸の後に穏やかに笑った。


「女神様がお迎えに来てくれるなんてね」


 これで安心して死ねるよ、と続けられて、反射的に声が出る。


「いやだ!」

「キリト、わがままを言うんじゃ無いよ」

「でも、だって……っ!」

「ちょっとこっちに来な」


 穏やかな呼吸といつもの態度にもしかしたら女神様が回復させてくれたのかもしれない、と自分でも信じられない細い蜘蛛の糸の様な希望に縋り付く。

 言われるがままに近づくと、耳を寄せる様に言われた。

 腰を屈めてマチルダさんの口元に耳を寄せるとイタズラめいた声が聞こえた。


「アンタがイルマハルトの人間じゃ無いってバラしても良いのかい?」

「?!!!」


 思わず飛び退ってマチルダさんを凝視する。


「それくらいお見通しだよ。だが、アンタは善良で優しい。故郷を恋しがっていたアタシに合わせてくれていたんだろ?ありがとうねぇ」


 そんな俺をなんてことの無い表情で穏やかに笑って礼を言うマチルダさん。


「ーーーっ!!」


 色んな感情が渦巻いて、言葉にならない。


「女神様がくれた別れの時間だ。みんなの笑顔で見送っておくれ」


 マチルダさんはとても綺麗に笑った。

 それはアルマ女神と並ぶほどに美しく、神々しかった。


「ーーーーーーっ!」


 涙と鼻水でびしょ濡れになった顔で無理やり笑う。

 子供達も精一杯の笑顔を作っているが、涙が溢れている。

 そんな俺たちを満足そうに見てマチルダさんは再びベッドに横になった。

 なんだかとても眠そうだ。


「女神様、アタシの魂は死んだら彼方に還れるんでしょうか?」


 独り言の様で、誰も言葉を返せなかった。

 女神様からの返答はーーない。


「できる、事なら……この世界でもう一度、生まれ変わりたい、ねぇ……ぁ、ア、タシの、人生…は、こ、の……せか……」


 眠くて仕方ない、そんな風にマチルダさんは息を引き取った。

 涙が後から後から湧いてきて止まらなかった。

 マチルダさんがこの世界での家族の様にずっと俺を見守ってくれていたから安心して動き回れていたんだと思う。


「うわあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……っ!」


 お疲れ様でしたって言いたいけど言いたくない。

 まだまだ、いつまでもずっと一緒にいて欲しかった。

 前回来た時にわかっていたのに、現実から目を逸らしてた。

 弱っていくマチルダさんを見たくなくて、手紙や贈り物で誤魔化していたんだ。

 ただただ悲しくて、悲しくて。

 俺は枯れ枝の様になった細く薄い冷たい身体に縋り付いて泣き続けた。

 どれくらい経っただろうか?

 マーサさんにそっと肩を叩かれた。

 そして「マチルダ様からです」と手紙を渡される。

 マーサさんの目と鼻は泣き腫らして真っ赤だった。

 二人でその手紙を見ると、また涙が溢れてくる。

 いつの間にか子供達は居なくなっていた。

 マーサさんと慰め合う様に、マチルダさんの死を悼んだ。


「キリトへ

アンタがこの手紙を読んでいるという事はアタシにお迎えが来たんだろうね。

悲しむ事はないよ。

故郷に還るだけだろうからね。

キリトと最期の時間を過ごせたことはアタシの人生で一番幸せな時間だったよ。

子供もいないアタシに可愛い可愛い孫が出来たんだからね。

しかもうんと小さい子供達もね。

アタシの家を孤児院として使いなさい。

領主代理にもちゃんと伝えているから安心しな。

補助金はたっぷり確保しているよ。

後アタシの貯金も下ろしてきてるから、それも足しにしておくれ。

そろそろ大きくなる子供達を先生にして子供達の面倒を見させたら良いだろう。

子供達の気持ちがわかる良い先生になるだろうよ。

だから絶対に無気力になってやるべきことを投げ出すんじゃないよ。

アンタは生きて生きて生きて、うーーーんと長生きして、のんびりあとから追いかけておいで。

ちゃーんとあの世で待っててあげるから

マチルダおばあちゃんより」


 涙で文字が見えなくて、何度も何度も涙を拭いながら時間をかけて読んだ。

 貴族のお手本と言っても良いくらいに美しい筆致で、少し乱暴な言葉遣い。

 でも優しさは溢れる程。

 本当に、本当にマチルダさんらしい手紙だった。

 死ぬな、無気力になるな、ちゃんと生きて仕事しろ。

 そんな優しさに溢れた手紙を抱きしめてまた泣き続けた。

 ごめん、マチルダおばあちゃん。

 今だけは、おばあちゃんがいなくなったことを悲しむ時間を頂戴。



 その翌日、マチルダさんの葬儀が執り行われた。

 アルスフィアットに来たばかりの神官長が葬儀を主導してくれ、木棺に沢山の花と共に眠るマチルダさんにまた涙が溢れる。

 女神様のおかげか、その顔に険はなく、穏やかに幸せそうに微笑んで眠っている様にしか見えない。

 祈りの言葉を復唱して冥福を祈る。

 墓地に埋葬され、あとは目印になる棒を立てろと手渡され、喉が詰まる。

 ごめん、マチルダさん。

 お墓、魔法で作っても良いかな?

 俺の自己満足だって事はわかってるけど、マチルダさんのお墓がこんな棒一本なんて耐えられない。

 もっときちんと、しっかりしたお墓で眠ってほしい。

 俺は魔法を使い、マチルダさんが眠る場所に平たい石を敷き、上に四角い墓石を建てる。

 日本の純和風な感じではなく、B2くらいの板を横向きにした西洋風のお墓。

 墓石に「大好きなみんなのおばあちゃんマチルダここに眠る」と彫った。

 花やお供物を置く場所も石で作る。

 そこにマチルダさんが育てていた花を生け、蝋燭を立てた。


「俺、頑張るから見ててねマチルダさん」


 やはり涙は止まらなかった。

 いつも俺不運を読んでいただきありがとうございます。

 いいね、リアクション、感想、ブックマーク、評価制作の励みにさせていただいております。


 拙作の中で初めてまともな人死にで、思い入れの強い人だったのでかなりしんどいお話でした…。

 涙がぼとぼと落ちて全然先に進みませんでした。

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― 新着の感想 ―
今のキリトを作った厳しくも優しいマチルダさん 彼女の最後の望みが叶いますように そしてキリトが悲しみを乗り越えて進んでいけますように
こんばんは。 マチルダさん…マチルダさぁぁぁぁん!(アム○ボイス) せめてその魂が安らかに神の御許に逝けたと信じたいですね。
家族と会えなくなったのに皆に気づかれないように涙流していたキリトが マチルダさんの死に茫然自失までしてるのは少し違和感がある気がするかなぁ。 王妃様のときにもうちょい取り乱してたならそこまで違和感なか…
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