第三十五話 そして冷たく凍り付いた現実へ
遥香姉さんには、どのように説明をしよう。城ヶ崎があの会社に居たのだという事実を、否応無しに話さなければならなくなるだろう。
それは、姉さんにとって痛みを伴うものなのではないか。どうしても城ヶ崎に拒絶反応を起こす場合、終末東京問題から離脱して貰わなければいけなくなる可能性もある。
…………だが、それでいい。
俺は城ヶ崎仙次郎を、再び抱え込む事に決めた。唯一、遥香姉さん以外に俺の実情を知る人間として。今現在も協力しようと考えてくれるのなら、それ以上の事は無い、と。
何かがあるとは思っていたが、それは俺の予想以上に大きな出来事だった。あの時、あの場所に立っていた人間で……よもや俺に協力しよう等と考える人間が、居たなんて。
……数多の人に囲まれ、たった一人の憎い男を、狂ったように殴り続けた俺。
精神異常を抱えた人間が居ると話され、その場から退出を余儀なくされるまで、ずっと。
……怒る、べきだったのだろうか。或いは、二度と会ってはいけない人間として、城ヶ崎仙次郎を拒絶するべきだったのだろうか。
嘗ての俺ならば、きっとそうしていただろう。
でも、今は。
結局、クリス・セブンスターのデッドロック・デバイスは、気付かない内にトーマスが回収していた。
トーマス・リチャードと現実世界で出会った帰り、俺は渋谷の街を彷徨いていた。今では見掛けることも珍しくなくなった業務用ロボットも、今日のように雨が降っていては、外に出る事は叶わない。
『デッドロック・デバイスは……ひとつ手に入れて、私も中身を解析した事があるんだ。それで危険を知ってね。ひとつ見付けるたび、関係のない、発見を難しくさせるような人に渡し続けてきた』
『あんたが作ったものじゃ、なかったのか』
ひとの心は、水のようなものだ。
熱されて沸騰すれば、何人を傷つける為の刃にもなる。しかし、穏やかな場所で存在していれば、それは迷える旅人を救済する為のオアシスにもなる。
俺は、選ぶ事が出来なかったのかもしれない。
俺の事情を知って尚、協力しようとする人間に。それが嘘か誠かを判断する事と、冷静に有用な選択を取ると云う事。そのどちらも、戸惑いに揺れてしまったのだ。
『終末東京オンラインが何故、『終末東京』という名前なのか。あのアイテムは、そこに通じていたよ。全てを集めた時、あの止まった世界は『最大の幸福』に向かって動き出す』
『動き出す?』
『崩壊しかけたまま、止まっている世界の話だったんだよ、あれは。『デッドロック』というのはね、恭一くん。システムの世界では、二つのリクエストが同時に排他制御を抜けることで競合して、システムからのレスポンスが無くなる事を意味するんだ』
『……悪い、よく意味が分からないんだが』
『そうだね、例えば……同じ鍵を持っている人が二人、鞄の入ったロッカーを開けようとしているとして。現実世界で開けられるのは勿論、どちらか早く入った人だけだ。だが、これを同時に開けてしまったとしたら、どうなる?』
『どうなるって……そんな事は、起こらない。同時には開けられない』
『そう。しかし、システムではこれは、起こり得る事なんだ。それが起こった時、『時が止まる』んだよ』
後悔は、していないが。
『そうか。……それで、終末東京の時間を止めた?』
『まあ、デッドロックという名前は言葉のアヤみたいなものだろうけどね。全てが揃った時にあるコマンドを実行すると、お互いの競合していたリクエストが一つになる。そうすると、終末東京の世界は再び動き出すんだ』
『最大の、幸福とやらに向かって……』
『ああ。終末に向かう。世界が終わる、という事だよ。それを使って何をしようとしているのかは分からないが、終末東京の世界に初めから組み込まれていたと考えると……あまり、考えたくはないね』
それにしても。トーマスの話は、興味深い内容が多かった。
ひとは何れ、地球で生きる事は出来なくなる。それは遥か先の話かもしれないが……その為に、別の星で生きる事や、永遠の命を手に入れる方法の研究を続けている、と話していた。トーマスの言っている事は突拍子もない事ばかりだったが、怜士兄さんと繋がりがある男だと云う事は、その雰囲気からもよく分かる。
芯の部分では明るく未来を見通していて、ひとが幸せになる方法を常に考え続けている。
『私は、ゲームシステムそのものを追うよ。君は?』
『……俺は、ミスター・パペットの正体を突き止める。木戸怜士を偽って、転移型オンラインゲームを利用しようとしている存在というと……良い展開は考えられないんだ』
『確かに、そうかもしれないね』
ゲームには、未来がある。そう話したトーマス。人が作った世界で人が生きる事が可能なら、人は神になる事が出来る。だが、それは使い方によっては、同時に悪魔にも成り得ると云う事だ。
その二面性を理解している。自由であると云う事は、使い方を一歩間違えれば、破滅へと向かう事もまた、可能なのだ。
俺は、トーマス・リチャードと手を組み、ミスター・パペットの企みを知る事に決めた。
そうして知った時、場合によっては――……木戸怜士の姿を偽った人間と、戦う事になるかもしれない。……その未来を、理解した上で。
『それじゃあ、また次に会える時にね、恭一くん』
『ああ、最後にひとつだけ、教えてくれないか』
『なんだい?』
『終末東京の世界で……タイムマシン、ってのは、作れるものなのか』
トーマスは、実に愛嬌のある人間だった。
『可能性はある、とだけ言っておくよ。終末東京に存在する『リオ・ファクター』は、元々私と怜士のプロジェクトで考えたものなんだ。流用されているみたいだけどね』
『可能性、とは?』
『エンジニアが機械の事を全てコントロールしていたのは、昔の話だよ。人工知能の研究が盛んになって、システムは人の手を離れ、生き物になった。それは、世界も同じことさ――……私達は、新たな世界を生み出したんだよ。そこで何が出来るかは、その世界に生きる人間にしか分からない。……彼女も、また』
最後に、自分がエリザベス・サングスターの事を知っているのだと、小さなメッセージを残して。トーマス・リチャードは、その場を後にした。
『……ははは、すごい話だな。悪く言えば、人体実験みたいじゃないか』
『そうだよ、その通りだ、恭一くん。……モラルとは、紙一重なものだね。人体実験なんて酷い、考えられないと人は話す。しかし、この世の中に溢れているものは、殆どがそうして作られたものばかりだ。薬に始まり、宇宙船、化学調味料、芸術、ビジネスモデル、インターネット……これらを初めて人間に使う時、それがどんなテストをしていたとしても、人体実験ではないと言い切れるかい? 安全だから、人が支持するから作られる。しかしそれは、やる前には誰にも分からなかった。人が行った事のうち、九割以上は藻屑になって捨てられるものばかりだ。成功した一割未満のそれを褒め称える人ばかりだけれど、その失敗の中には、人を不幸にするものもあったとは思わないかい? ……いや失礼、君にこんな事を言うべきではなかった。経験者だったね』
『いや、問題ないよ。その通りだと、俺も思う』
そして俺も、また。
「…………広いな」
地味なジャケット、地味なジーンズ、野球帽。目元が影になり、都会に紛れる人混みと同化して、俺は異質な存在である事を隠す。
雑踏の音が聞こえる。俺の知らない間に、世界はこんなにも大きくなっていたのだ。考えてみれば、地球でさえもまた、人間がコントロールを始めている。生態系や遺伝子のコントロール、科学的な物質の最小単位の研究、そして人工知能。統計学、幾何学、定理に始まり、相対論、量子論、素粒子論。人間の追求は、留まるところを知らない。
それは、人は神を目指している、とも考えられる。その世界で生きる人間であるという、ひとつの矛盾を残して。
それは、ちっぽけな俺という存在を、まるで波紋を描く波のように素通りしていく。
――――――――静かだ。
「井の頭線は、どっちだったかな……」
俺は一人、小さく独り言を呟いて、地下へと繋がるエスカレーターを目指した。
不意に。
視界の端に映ったものに、目を見開いた。
信じられなかった。思わず振り返り、その人物を直視した。盛大なクラクションが何処かで鳴り、俺の後ろを歩いていた男が俺にぶつかり、不満を言いながらスマートフォンに視線を戻す。
誰も、俺達二人に気付かない。
それは、知らないからだろう。意識に入っていないから、なのだろう。この世界は、そうだ。意識に入っていない人間を、誰かが助ける事はない。
有り得ないのだ。
だってそれは、俺がそうだったのだから。
「ララ」
だからこそ、ひとは、こんなにも尊い。
「――――――――恭一さん?」
俯いていたララが、俺に気付いた。
ぼろぼろのメイド服。前日から何も食べていないのか、少しこけた頬。何かのコスプレなのかと、帰る電車賃でも無くしたのかと、周囲の人は思っていたのだろうか。目に留めても、その程度だ。誰も彼女を助けようとは思わないだろう。助ける義理が無いからだ。……そこに、メリットはないからだ。
驚愕に目を見開いて、ララ・ローズグリーンが、俺を見る。
「恭一さんっ…………!!」
彼女は、涙した。数多の人が通り過ぎる、俺以外、誰にも気付かない場所で。真実の感情など、誰にも理解されない状況で。場合によっては、小汚い格好をしたカップル同士が、喧嘩でもしたのかと勘違いされるような外見で。
しかし彼女は、まるで救いを求めるかのように、俺に向かって走った。
その、小さく頼りない身体を、抱き留める。
「恭一さんっ……!! 恭一さん……!! 恭一さん!!」
「ああ、俺だ。……怖かったな。もう、大丈夫だ」
抱き締めた身体は、ほんのりと暖かい。
命の灯火を、感じる。
そうだ。……俺は、何も間違っていない。終末東京の世界だからどうだ等と、関係は無かった。
或いは、明智大悟もまた、確かに正しかった。
ミリイ・ロックハインガムを護り、アタリに手を掛けた時。明智大悟は確かに涙し、何かを悔いている様子でいた。……あの時の俺には、その感情の意味は分からなかった。
冷たく凍てついた心には、生涯分かる事は無いだろうとさえ考えていた。
「怖かったです……!! 私、もしかして、死んでしまったのではないかと思って、それで……!!」
「死んでない。……こっちが、俺達の世界だ。……よく、帰って来てくれた」
分からなくて、当然だ。
誰にも、分かるものか。
本当に大切だと思っている人間を、失う時の痛みなど。経験した者にしか、分からない。他人の死など、究極の所、何処まで行っても他人事でしか無いのだ。
関わろうとしない事の、冷たさ。手のひらを返される事の、残酷さ。その全てを、俺は知っている。
「ゆ、夢じゃない……のですよね?」
「ああ、夢じゃない」
ならば、助けられる筈だ。
ミスター・パペットは、終末東京の世界を終わらせようとしている。そして、それは当然のように、その世界で生きてきた人間全てを巻き込むことになる。ララや、他のNPC全てを。
そして、エリザベス・サングスターを。
護れる筈だ。大多数の人間に裏切られた、俺だからこそ。人の冷たさを、誰より知っている俺だからこそ。
もう、誰も失いたくない。
方法は、あるだろうか。終末東京が、本当の終末に向かう前に。あの場所に居る、全てのNPCを救う――……そしてそこには、エリザベス・サングスターも入っている。たった一人、まるでNPCのように終末東京の世界に閉じ込められた少女の事を。
『タイムマシンがあれば、このゲームが終わる時に、皆が遊んでいる時代に戻れるかもしれないでしょ? 夢物語でもいいよ。寂しくない方がいい』
あの日、彼女が話してくれた事を、俺は忘れない。
誰かが、エリザベス・サングスターを操っているのだ。そうでなければ、誰かがエリザベス・サングスターの振りをしているのだ。
どうせ何かを信じなければならないなら、俺はそれを信じよう。
「ようこそ、ララ。俺達の、世界に」
彼女は、裏切り者ではない。世界は、救われるべきだと。
「――――――――はいっ!!」
涙に濡れた笑顔はしかし、先程までの陰りを取り払った、確かな輝きのある笑みだった。
それは今までに感じた事のない、心の中に何か暖かいものが落ちて来た時のような、安らいだような感覚を、確かに俺へと齎していた。
ここまでのご読了、ありがとうございます。
第三章はここまでとなります。
大変更新ペースが遅くなってしまい……お付き合い頂きまして、どうもありがとうございます。
第四章からは、もう少し早めの更新が出来ればいいと考えております。
年内には終わらせたい、という気持ちもありますので!




