一生に一度の願い
【195日目】
『バイン、お前、最近よく食うなあ。今日も飼葉桶を空っぽにして完食じゃねえか。
ヴィクトリアマイルで負けちまった時はさ、またお前がマイルCSの時みたいに弱っちまうんじゃないかって、俺心配したんだぜ。
でも今回はお前、毎日モリモリ食べて、みるみる体重を戻してくれてよ、俺嬉しいよ。お前が元気でいてくれて、それが何より嬉しいんだ。
お前が元気なく寝転がっているとさ、郷田厩舎全体が暗くなっちまうんだ。不思議なもんで、他の馬達までお前に気を使って元気をなくしちまう。
厩舎のボスって訳でもないくせによ、お前って奴は本当に不思議な馬だよ。
なあバイン、覚えているか。馬のお前はもう忘れちまったかもしれないけど、去年マイルCSで負けた後よ、お前エサどころか水すら飲まなくなっちまった時があっただろ。俺、あの時は本当にお前のことを心配したんだ。
お前があのままどんどん痩せて、その内起き上がれなくなって、死んじまうんじゃないかって、大げさだけど本気で心配したんだよ。
そんな風に死んでいった馬を看取ったことがあったからさ、その馬の死に目と横たわるお前の姿が重なって、お前がこのままいなくなっちまうんじゃないかって、俺、怖かったんだ。
あの時、俺、お前に毎日お願いしたよな。一口で良いから水を飲んでくれ。一口で良いからエサを食べてくれ。ちょっとでいいんだ。頼む、頼むって。
郷田先生に言われたんだよ。馬にお願いがある時は声に出して頼めって。
水を飲んで欲しいなら『水を飲んでくれ』って、元気になって欲しいなら『元気になってくれ』って、馬に無視されても諦めず話し掛け続けろ、お願いし続けろって。
その話をされた時はさ、しゃべれもしない馬に話し掛けたって意味ないだろって、郷田先生のこと内心で馬鹿にしてたんだ。
でも、他に出来ることも思いつかなかったからさ、馬鹿正直にお前に話し掛けてみることにしたんだよ。
水を飲んでくれ、エサを食べてくれって、しつこ過ぎてお前に嫌われるんじゃないかなって自分でも思うくらい、お前に話し掛け続けてみたんだ。
そしたらさぁ、お前、本当に水を飲んでくれるようになるんだもの。エサ食べ始めてくれるんだもの。俺、びっくりしちゃってさ。
郷田先生の言ったことは本当だったんだって、声に出してお願いし続ければ、馬がそれを聞いてくれることもあるんだって、何日かぶりに中身が減ったお前の餌桶を見てさ、ちょっとだけど感動までしたんだぜ。
お前に毎日話し掛けて良かったって、水を飲んでくれてありがとう、エサを食べてくれてありがとう、俺の頼みを聞いてくれて本当に本当にありがとうって、そう思ったんだ。
でもさ、あの時は確かに、お前が俺の頼みを聞いてくれたと思って嬉しくなったんだけどさ、少し経って冷静になってみると、あれはただの偶然だったんじゃないかなって気もしてきたんだ。
お前が水を飲んだのは単に喉が渇いたからで、エサを食べたのは腹が減ったからで、俺なんかが何を話しかけても、話しかけなくても、関係なくお前は勝手に元気になったんじゃないかなって、そういう風にも思うんだ。
冷静に考えてみれば、お前が元気になることと、俺が話し掛けたことなんて、何の関係もないよなって。
そもそも郷田先生の話でもさ、馬が俺の言うことを聞いてくれるなんてのは、馬1頭につき一生に1度あるかないかのことなんだってさ。
たった1回だけ馬にお願いを聞いて貰う為に、俺らは毎日朝から晩までお前らの世話をせっせと頑張って、何千回も何万回もお前らに声を掛け続けて、元気になれ、強くなれ、レースで勝てと、お願いし続けなきゃいけないんだと。それが俺や先生の仕事なんだと。
割に合わないにも程がある話だよな。どれだけその馬の為に仕事を頑張っても、その馬に願いを聞いて貰えるのは一生に1回あるかないかだって言うんだから。
郷田先生にその話をされた時はさ、俺はなんてとんでもない仕事に就いちまったんだって、頭を抱えたくなっちまったよ。
でもさ、俺、この仕事を辞めるつもりはねえんだ。割に合わなくっても、仕事がきつくっても、もっともっとこの仕事頑張ってみようって、今はそう思ってるんだ。
バイン、俺がそう思うようになったのはさ、お前のお陰なんだぜ。お前がこの厩舎に来てくれたから、お前がここに来て、何度も何度もレースで勝って、幾つも幾つも重賞やGⅠを勝ってくれたから、俺はそんな風に思えるようになったんだ。
お前が郷田厩舎に来るまでは、いや、正確には、お前が札幌ステークスで勝つまではさ、俺、こんな仕事辞めちまおうって毎日思ってたんだ。
だってよ、厩務員の仕事はお日様より早起きしなくちゃなんねえし、力仕事も多くて毎日へとへとになるし、おまけに世話するお前ら馬は、高級外車も真っ青なお値段なんだぜ?
万が一お前らを怪我でもさせて『弁償しろ!』なんてことになったらよ、俺の給料何年分なら支払えるんだって話だよ。そんなのの世話を毎日しなきゃいけないなんてよ、実際緊張感たっぷりだよ。
仕事がきつくて、気苦労も多くて、その上滅多に報われねえんだ。どんなに馬を可愛がってやってもよ、その馬がレースで勝つとは限らねえんだもの。どんなに応援したってよ、俺の応援なんかじゃ馬は勝ってくれねえの。
大事に大事に世話しても、急に怪我して、いきなり引退、ろくに勝たずにはいサヨウナラ、なんだぜ? やりがいなんてある訳ねえじゃねえか。
サラリーマンになった同級生とかはさ、ビシッとカッコいいスーツ来て朝遅くに出勤してさ、休みの日もやれ海外旅行するだの、女が出来ただの、楽しそうにしてるんだ。
それと比べたら毎日馬糞まみれになって働く俺の人生は一体何なんだって、厩務員の仕事が嫌になってたんだ。
毎日毎日、まだ日も昇ってねえ暗い道を、俯きながら歩いて仕事に来てたんだよ。
でもよ、お前が来て、お前が重賞馬になって、何もかも変わったんだ。
知ってるか? お前がトレーニングコースに行くときに着る馬名入りのゼッケン。あれはさ、重賞を勝った馬しか着けられねえもんなんだ。馬名の入ったゼッケンは、重賞馬の証なんだぜ。
そのゼッケンを着けたお前とトレセンの中を歩くとよ、みんな道を開けるんだ。
俺みたいな若い厩務員は、先輩達の邪魔にならねえように普段は端っこを歩くのによ、お前と一緒の時は道の真ん中を歩くんだよ。
それで、周りの奴らはみんなお前の馬名入りゼッケンを見て、すっと道を開けるんだ。
お前と一緒に歩く俺のことを、みんなが羨ましそうに見るんだよ。偉いのはもちろん俺じゃなくてレースで勝ったお前なんだけどさ、何だか俺まで偉くなったような気分になるんだ。
普段は仏頂面で、俺なんかが挨拶したってニコリともしないようなジジイの厩務員も、お前がいると妙にヘラヘラしてよ、まるでお前に媚びでも売るみてえに向こうから挨拶してくるんだぜ?
毎日俯いて、暗い道の端っこを暗い顔して歩いていた俺がさ、お前が隣にいてくれると、胸を張って肩で風を切って歩くことが出来るんだ。
みんながお前のことを、憧れでも見るように見上げるんだ。
そして、そんな大勢の人間達から見上げられるお前を見ていると、俺は何だかすっごく誇らしい気持ちになるんだよ。
この馬の担当厩務員は俺なんだ、この馬の世話は俺がしているんだ、俺が毎日面倒を見ているこの馬は、お前らが世話するどの馬よりも強くて立派な馬なんだって、大声で叫び出したくなるんだ。
そんな気持ちになるのは初めてだった。働き出して初めてって意味じゃねえぞ。生まれて初めて俺は、自分のしたことを人に自慢したくなったんだ。
お前がレースで勝ってくれたお陰で、お前の世話をしてきた自分の仕事を、誰かに見せつけたくなるほど誇らしいと、そう思うことが出来るようになったんだよ。
自分のしたことに誇りを持つなんてさ、そんなの俺、生まれて初めてのことだったんだ。
バイン、お前は俺に、胸を張って歩く方法を教えてくれた初めての奴なんだ。親も学校も、誰もそんなこと俺に教えてくれなかった。お前は俺に、初めて自信ってものを持たせてくれた奴なんだよ。
…………。なあ、バイン。俺、やっぱりお前にお願いがあるんだ。
お前が本当に俺の言うことを1回だけ聞いてくれるっていうならよ、俺の一生に1度のお願いって、もう使い終わっちまってるのかなあ。
マイルCSの後、お前が水を飲んでくれた日に、俺の一生に1度は終わっちまったのか?
もしそうなら、それでお前が元気になってくれたなら、それはそれでいいんだ。俺がお願いすることでお前が元気になってくれたなら、それが一番いいに決まっているんだから。
でもよ、もしそうじゃねえなら、あの時お前が水飲んでエサ食べて元気になったのは、お前が勝手に元気になっただけで、別に俺のお願い聞いてくれたわけじゃねえっていうならよ、俺の一生に一度のお願いが、まだ残っているならよ。
勝ってくれねえか、バイン。テクノスホエールに。ニーアアドラブルに。あいつ等にお前が勝つところを、どうか俺に見せてくれねえか。
俺、俺、悔しいんだ。お前は俺にとってどんな馬よりも、どんな人間よりも特別な奴なのに。俺にとってお前は、世界一のサラブレッドなのに。そんなお前でも勝てない奴がいるなんて、そんなの俺は嫌なんだよ。
ネットとかだとよ、お前が負ける度にお前の悪口が山ほど書かれるんだ。たった3回、しかも2着で負けただけなのによ、もうピークは過ぎただの、あの2頭と比べれば格下だの、言いたい放題だよ。
お前の凄さを知りもしねえ、知ろうともしねえような奴らに、お前が好き勝手言われているのが、俺はどうしても我慢出来ねえんだ。
だからよ、バイン。勝ってくれねえか。また見てえんだ。お前が勝つところを。お前が1着でゴールするところを。お前を負かしたあの馬達に、お前が勝つところを、どうか見せてくれよ。
その為なら俺、なんでもする。お前の為に、いくらでも仕事頑張るよ。
だからバイン。俺の一生に一度がまだ残っているなら、頼むよバイン。
お前に勝って欲しいんだ。次こそ、次こそ勝ってくれ。俺は、俺に自信をくれたお前が、勝って自信満々に首を上げるあの堂々とした姿が、何より大好きなんだ。だから、なあバイン。なあ……』
うるっせええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!!!!!
馬房で休もうって時にづかづか入って来たと思ったら、突然長々としゃべり出しやがって。
話が長過ぎるんだよ馬鹿野郎!
アイドルにお気持ち表明長文ファンレターを送りつけてくるキモいオタクかお前は。
くっそ、せっかく休もうと思っていたのに完全に眠気が飛んでしまった。小野の話なんて聞いてやるんじゃなかった。
本当に、ほんとーにこの小野という厩務員は、私の気持ちを分かってくれない駄目な奴だ。空気が読めない上にいちいち私を苛立たせる迷惑野郎だ。
私は! 本当に! この小野って奴が! 嫌い!!!
さあ、安田記念だ。
続きは明日の昼12時更新です。
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