巴牧場を訪れた一組の夫婦
「じゃあ、今はこの牧場にバインバインボインはいないんですね」
「ええ、そうです。バインバインボイン号は、先週郷田厩舎へ帰ってしまいましたから。それにこの牧場は一般の方の見学をお断りしているので」
春の暖かさが徐々に広がりつつある北海道日高。巴牧場の敷地の入り口で、一組の夫婦が巴牧場のスタッフにやんわりと早く帰るよう促されていた。
夫婦は、競馬のことも牧場のこともよく知らない、全くの競馬素人だった。
ニュースか何かで巴牧場の名前を知り、その住所をネットで調べ、牧場を訪問する際のマナーやルールを何も確認せずにやってきてしまったという、困った二人組だった。
牧場スタッフからすれば、牧場の仕事の邪魔になる迷惑なだけの観光客である。
巴牧場は観光地でもなんでもない単なる馬の生産牧場だ。
馬を飼育するための敷地と、スタッフの為の事務所があるだけの場所である。牧場内が観光用に整備されている訳でもない為、普段から一般人の牧場見学は基本的に断っている。
しかし、バインという巴牧場で生産された馬が一躍有名になったことで、巴牧場に来ればその馬に会えると勘違いした観光客が、巴牧場までやって来てしまうということが度々起こるようになっていた。
敷地の入り口に掛けた『牧場内見学不可』の看板を見て、ほとんどの観光客は引き返す。
しかし、時折看板を無視して牧場内に入り込んでくる無法者もいる為、それがしばしばトラブルの原因になっていた。
今回牧場スタッフが夫婦に声を掛けたのも、そうしたトラブルを事前に防ぐ為だ。
『牧場内見学お断り』の看板の前で立ち尽くしていた夫婦を、偶々通りかかった牧場スタッフが見つけ、立ち去るよう促しているという訳である。
「申し訳ありません。よく調べもせずに来てしまいまして。お忙しい所大変失礼しました」
幸い、スタッフが声を掛けた夫婦は、牧場の見学マナーに関し無知ではあっても、人の話をきちんと聞いてくれる人ではあった。
説明を聞いてすぐに納得し、見学出来ないということを調べもせずに来てしまったことを謝罪してくれた。
厄介なクレーマーじみた人達でなくて良かったとスタッフが安心していると、
「おい、どうした。この人達は誰だ?」
夫婦の後ろから、出掛けていた牧場長の巴友蔵が丁度のタイミング帰って来た。
「お疲れ様です。友蔵さん、あー、この人たちは、観光客の方でして」
「ああ、ダイ子のファンの方ですか。すいませんねえ、うちの牧場、見学はやってないもんで」
友蔵が空気を読まず、ついさっきスタッフが行った説明をもう一度夫婦に繰り返す。
夫婦はそれに一層恐縮し、ぺこぺこと頭を下げ、スタッフに言ってくれた謝罪の言葉を友蔵にも繰り返した。
友蔵がタイミング悪く登場してしまったが為に、すでに謝ってくれた人を余計に謝らせてしまったようで、スタッフは少々居心地の悪い気分になった。
「……あの、」
すると、それまで夫の陰に隠れてほとんど発言しなかった妻が、おずおずと口を開いた。
友蔵とスタッフと夫、3人の視線が妻に集まる。
「その、バインバインボインの怪我は、大丈夫なんでしょうか。骨折したと聞いたのですが」
不思議なことにその声は、本当に心から馬のことを心配しているのだと分かる声だった。
「あいつなら大丈夫ですよ。怪我はすっかり治りました。きっと春の内に、またどこかのレースで元気に走る姿を見せてくれますから」
その声に友蔵が答えると、奥さんはほっと安心したような表情を見せる。隣の夫も、友蔵の答えに嬉しそうな笑顔を見せた。
そこまではよかったのだが、そこから友蔵が、2、3夫婦に質問をし、世間話をし始めた。
せっかく仕事の邪魔になる観光客が穏便に帰ってくれそうだったのに、何故牧場長がそれを引き留めるようなことをするのか。
上司と観光客を置いて自分だけ立ち去る訳にもいかないスタッフは、空気を読まない友蔵の言動に若干の苛立ちを覚えつつ、夫婦と友蔵の会話に耳を傾ける。
夫婦は、やはり最近まで競馬に全く関心を持っていなかった、ミーハーのバインバインボインファンだった。
娘の命日に偶然テレビでバインという馬を見たこと。それがきっかけとなって、生まれて初めて競馬場に行ったこと。そこで見た秋華賞のレースが素晴らしかったこと。バインを見る為に京都競馬場まで行ったことを機に、今では夫婦で色々な場所に旅行へ行くようになったこと。
夫婦が北海道に来たのも、その旅行趣味の一環であり、自分たちの生活に旅行という趣味を加えてくれたあの馬を、一目間近で見てみたいと巴牧場まで脚を伸ばしたとのことだった。
「そうですか。あいつを見る為に遠いところわざわざ。それじゃあ、もしよろしかったら、ちょっと牧場の中を見ていきますか?」
すると、夫婦の話を嬉しそうに聞いていた友蔵が、突然そんなことを言い出してしまう。
「え、いいんですか? お仕事のお邪魔なんじゃ」
見学お断りの看板をちらちらと横目で見ながら、驚いたように聞き返す夫婦。驚いたのは横に立って話を聞いていたスタッフも一緒だった。
夫婦に聞こえないよう小声で、そんなことをしていいのかと友蔵に問えば、『別にいいだろう。悪い人達じゃなさそうだしよ』との返事が返ってくる。
またこの人はそんなことをしてと、スタッフは小さく溜息を吐いた。
巴牧場は『基本的に』見学お断りの牧場である。だが例外はある。
牧場長の友蔵だ。友蔵がふとした気まぐれを起こしたり、あるいは訪れた観光客が牧場や馬のことを褒めちぎったりすると、気分を良くして牧場長自ら牧場を案内すると言い出してしまう。
この巴友蔵という田舎のおっさんは、スタッフには観光客を牧場に絶対に入れるなと言う癖に、自分は平気でそういうことをしてしまう人なのである。
「あいにくダイ子、バインバインボインはもう美浦に行ってしまいましたけど、その母親のトモエロードは今もこの牧場にいますから。よければ旅の思い出に、見て行ってやって下さい」
人の好さそうなことを言いながら、友蔵が夫婦について来て下さいと言ってずんずんと牧場の敷地内へ入っていく。
夫婦は最初友蔵の申し出を断ろうとしていたが、牧場の中へどんどん進んでいってしまう友蔵の背中を見て、どうしたものかと困ったような視線をスタッフに向けた。
こうなってはもう止められないと知っているスタッフは、『付いて行って大丈夫です』という意味を込めて数度頷き、巴牧場の敷地内に入るよう促す。
それを見て、ようやく夫婦は友蔵の後を追って歩き出した。
気分良く先頭を歩く友蔵と、その後ろを恐縮そうについていく夫婦。
上司のやりたい放題っぷりを見ながら、『やってらんねえなあ』と、残されたスタッフは、一人内心でごちたのだった。
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友蔵は普段、簡単に観光客を巴牧場に招き入れるような真似はしない。
巴牧場はそもそも観光地ではないし、馬を買ってくれる訳でもない部外者に牧場を案内するような人手もない。
ただ、見学を熱心に頼み込んでくる人や、都会から来た若い女性の観光客などにお願いされた時などは、ついつい見学を許してしまうことがある。
今日やってきた、今友蔵の後ろをついて来ている夫婦は、それほど熱心な競馬ファンという訳ではないようだった。もちろん若い女性でもない。
だが、友蔵はちょっとした気まぐれと、不意に湧いた虫の知らせのような感覚に従って、夫婦に巴牧場を案内することを決めた。
牧場自慢のトモエロードを、この温厚そうな夫婦に見せてやろうと決めた。
友蔵に対し、奥さんが真っ先にバインの怪我を心配する質問をしたこと。そして怪我は治ったと伝えると、心から安心したような、本当に嬉しそうな顔を夫婦が見せてくれたこと。
それだけのことで友蔵は、この夫婦のことが何だか好きになってしまったのである。
夫婦は競馬についての知識はほとんどないようだったが、そんな人達にまで自分が育てた馬が愛され、また心配されているというのは、友蔵にとって大きな驚きだった。
また、自分の仕事が競馬関係者でない人にまで認められたという、今まで感じたことのない種類の喜びを、友蔵は感じていた。
「さあ、着きましたよ。ここがうちの放牧地です。ああ、柵にはそれ以上近づかないようにして下さい」
「うわあ、凄い広さですね」
友蔵に案内され、放牧地の柵の近くまで来た夫婦は、視界いっぱいに牧草が広がる景色を見て、感嘆の声を上げた。
巴牧場はあまり大きな牧場でない為、その面積を褒められることは滅多にない。だがこんな狭い牧場でも、素人には広いものに見えるらしい。
放牧地では出産を控えた腹の大きな牝馬と、今年生まれたばかりの仔馬を連れた母馬達とが、牧草を食んだり日向ぼっこをしたりと思い思いに過ごしていた。
「可愛いですね、仔馬もたくさんいて。ここにいる馬は全部、レースを走るんですか?」
「そりゃもちろん、ここは競走馬の牧場ですから。仔馬達が立派に育って無事に売れれば、晴れてどこかの競馬場でデビューすることになります。レースでうちの馬を見かけた時は、是非応援してやって下さい」
言いながら、もっと近くで馬を見たそうにしていた夫婦の夫の方に、一歩下がるよう声を掛ける。
出産を控えた馬や、子供を連れて気が立っている馬もいるので、刺激しないようこれ以上は近づかないで欲しいと友蔵は伝えた。
それを聞いた夫婦は、驚いたように2歩後ずさる。
脅かし過ぎたかなと友蔵が思っていると、遠くから一頭の牝馬が友蔵達の方へ、パカパカと蹄を鳴らしながら近づいてきた。
大きく、美しい、栃栗毛の牝馬だった。
巴牧場が誇るGⅠホース。かつてオークスを制した女王にして、バインというGⅠ3勝の名馬を産んだ名牝。
巴牧場の宝、トモエロードが、友蔵と夫婦の前に姿を見せた。
現れたトモエロードを見て、夫婦が思わずといった様子で息を呑む。
それを見た友蔵は、自分の宝物を人に見せびらかしたような、何とも言えない優越感を感じた。
友蔵は、巴牧場を訪れた人にトモエロードを見せるのが好きだった。初めてその姿を見た者は皆、その姿に魅入られたように息を呑む。あの大泉笑平ですら、トモエロードを見せた時は『そう』なった。
誰にも媚びず、まるで王様のようにいつでも堂々と振る舞うトモエロード。見ただけで他の馬とは『違う』と分かるトモエロード。
その威風堂々たる佇まいを見て、それを前に圧倒されている夫婦を見て、友蔵は内心でにこにこしていた。
しかし、その時である。
突然、トモエロードが頭を下げた。友蔵の隣の夫婦に向かって、まるでお辞儀をするように、人間が礼を見せるように、トモエロードが頭を下げた。
トモエロードがそんな姿を人間に見せたのは、友蔵の知る限り初めてのことだった。
馬の長い首は上下左右に器用に動くように出来ている。だが、トモエロードが用もないのに人に向けて自分の頭を下げるというのは、友蔵の記憶の中にほぼない行動だった。
というよりも、その『頭を下げる』という行為自体が、友蔵の中のトモエロード像とあまりにもかけ離れた姿だった。
だが、そのトモエロードのお辞儀が、たまたま首を下げた方向に人間が立っていたという偶然ではなく、この今日突然やってきた夫婦に向けられた礼であるということだけは、長年トモエロードを見てきた友蔵には感じ取ることが出来た。
頭を下げられた夫婦はと言えば、何故か慌ててお辞儀をトモエロードに返していた。
それは、お辞儀をされたらお辞儀を返すという、半ば日本人の習性によるものに見えたが、それを人ではなく馬にしているというのは、傍から見て何ともおかしな光景だった。
トモエロードが頭を上げると、夫婦も揃って頭を上げる。
数秒間、トモエロードは夫婦を見つめると、最後にもう一度礼をし、背を向けて柵から離れ、去っていった。
夫婦たちは、ただぼうっとトモエロードの一連の動作を見ていた。去り際にトモエロードに礼をされた時は、やはり慌てて会釈を返していた。
そんな夫婦とトモエロードを、友蔵はただ訳も分からず見比べるしか出来なかった。
「……今の馬は、一体何という馬ですか?」
トモエロードが去って少ししてから、夫が尋ねてくる。
トモエロードの名と、あの馬がバインの母親であることを伝えると、夫婦はもう一度驚いたような顔を見せ、トモエロードが去っていった方向を見つめたのだった。
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「ありがとうございました。お忙しいのに時間を割いていただいて、何だか、とても得難い経験が出来た気がします」
見学を終えた夫婦は、もと居た巴牧場の入り口で友蔵に感謝の礼を述べていた。
「それはよかったです。なら今度は是非ダイ子、バインバインボインがいる時に遊びに来てください。お待ちしていますから」
少し迷ってから、友蔵は夫婦にそう言った。
「え、いいんですか? でもここは見学禁止なんじゃ」
夫からの聞き返しに、友蔵が笑顔で首を振ってこたえる。
「お二人なら構いませんよ。何となく、トモエロードもお二人に来て欲しがっているようでしたし。きっとダイ子の奴も、お二人には会いたがると思うんです。だから、是非またいらして下さい」
言って、友蔵は夫婦に巴牧場の電話番号が書かれた自分の名刺を渡す。
競馬関係者でもない人間にその名刺を友蔵が渡すのは、夫婦が初めてのことであった。
名刺を受け取った夫婦は何度も礼を言い、何度も頭を下げる。最後まで腰の低い夫婦だった。
きっと、あの二人はまたこの牧場にやってくる。夫婦を見送りながら友蔵はそう思った。
その時は必ずダイ子をあの二人に会わせてやろうと、友蔵はそう思った。
何故そんな風に思ったかは友蔵自身にも分からない。しかし、今日あの夫婦に頭を下げたトモエロードを見て、お辞儀し合い、見つめ合った夫婦と母馬を見て、不意に思ったのだ。
何とかしてこの夫婦を、ダイ子に会わせなければいけないと。
いつになるかは分からない。夏の放牧か、冬の放牧か、はたまたダイ子が競走馬を引退して巴牧場に帰って来た後になるか。
けれどいつか必ず、あの夫婦をダイ子に会わせてやろうと、友蔵は自分の中に降って湧いた考えに従い、そう誓ったのだった。
これにて主人公の3歳シーズンは終了。
通算戦績9戦7勝2敗。連勝を7まで伸ばすも、そこから無念の2連敗。
連敗脱出なるか。冬の放牧は終わり、すでに4歳シーズンは始まっています。
明日も昼12時投稿します。
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