馬達のその後(1)
【バインバインボイン】
通算成績12戦9勝、2着3回GⅠ5勝。
右前脚の浅屈腱炎を4歳11月に発症し、5歳2月で引退となった。
適正距離は1400m~2000m。最適性距離は1800m。
実は1800mが一番強い。が、日本には1800mのGⅠがなく、その才能に日が当たることはついにないまま引退した。
マイル女王と中距離女王に挟まれる為に生まれてきたような適正距離である。
『牝馬が強い時代』を築いた名牝の内の一頭であり、バインのレースをリアルタイムで見たファンは、その時代を『バインバインボインが活躍していた頃』と呼ぶ。
当時を知らぬ若いファンは『ニーアアドラブルとテクノスホエールが活躍していた頃』と呼ぶ。
テレビや報道を通しての人気含め、記録だけでなく記憶にも残る馬として活躍した。
繁殖馬になってからは着床しにくい体質だった為、不受胎で終わる年が多かった。しかし、その分生まれて来た子供のことは愛情をもって厳しく育てた模様。
バインが無事出産を終えた年の春は、元GⅠ馬の母に追い掛け回されて鍛えられる0歳馬が、巴牧場で目撃されるのだとか。
勝負に厳しかった名牝は、母になっては我が子に厳しいスパルタママと化したようである。
しかしその甲斐あって、バインの産駒は運動不足とは無縁の逞しい身体に育ち、セリでも良い値が付くことが多かった。友蔵おじさんもこれにはニッコリ。
ある年、バイン産駒として一際怠け者の馬が生まれた。日向ぼっこが大好きで、母親に追い掛け回されるのを何より嫌がる馬だった。
しかしバインが歴代の我が子の中で、最も執拗に追いかけ回したのもまたその馬だった。
『オータムエンペラー』。バインの天皇賞(秋)を見て、泣くほど感動したという馬主に買われたその馬は、そんな馬名を付けられた。
そしてオータムエンペラーは、競走馬としてデビューすると連戦連勝を飾った。春の間だけ。関係者とファンの期待を裏切り、秋になると全戦全敗、全く勝たなくなった。馬名にオータムって付いているのに。そして次の年の春になるとまた勝ちまくる。
春のレースは全部勝つ。秋のレースは全部負ける。オータムエンペラーは、そんな極端な戦績を残す馬だったのだ。
『そんなに寒いのが嫌なのか!?』。ファンの言葉である。
『今日はあったかい! 今日はあったかいから春なんだ。春なんだよオータム!』。秋競馬で応援するファンの言葉である。
祖母の血か、母の血か、あるいはその両方か。巴牧場産の極端な珍記録を作る馬は、トモエロードの孫の代になっても健在だった。
何はともあれオータムエンペラーは春競馬で大活躍し、見事バイン産駒初の重賞馬となり、繁殖入りを果たす。
次代にその血を残す役目を、バインはしっかりとやり遂げたのであった。
【ニーアアドラブル】
適正距離2000~2600m。最適性距離は2400m。
バインの引退した約1年後、5歳の有馬記念を最後に引退した。
バインのライバルと呼ばれる名馬。2頭がライバルとされる最大の所以は、ニーアアドラブルの生涯戦績におけるたった2度の敗戦、その相手がどちらもバインであったから。
彼女は天皇賞(秋)でバインと別れてから、ついに引退まで誰にも負けずにその現役生活に幕を引いた。
テクノスホエールが通算GⅠ10勝を果たした翌年に、それを超える大記録を打ち立てた、史上最強の呼び声高き大名馬である。
5歳を過ぎ、徐々に能力が衰え始めていたニーアアドラブル。対してキャリアハイを迎え、全盛の力を振るうウインターコスモス。その年上2頭の激突に、割って入った急成長株のトモエシャイン。
バインが引退した後、競馬の花形である中距離レースはこの3頭が牽引し盛り上げた。
その激闘の全てに勝ち切った彼女は、自分に挑んできた挑戦者を称え、また挑戦者に称えられ、ターフを去った。
走り終えた彼女を引退式で待っていたのは、それでもずっと再戦を待ち望んでいたライバルの姿。
そのライバルのもうレースを走れなくなった脚を見て、全てを察したニーアアドラブルは、肉体の限界まで戦い抜いた好敵手を称えた。
そして彼女もまた、最後まで戦い抜き、勝ち切ったことを、好敵手から称えられた。
ニーアアドラブルの引退式で撮られた、バインとニーアのツーショット。
一時代を築いた2頭の馬が堂々と並び立つその写真は、日本競馬史における『最も美しい写真』の1枚として、ファンの間で長く語られることとなった。
繁殖入り後は1頭の牡馬がニーアアドラブル産駒初の重賞馬となり、種牡馬入りを果たす。
そしてそのニーアの息子がバインと交わり、生まれたのがオータムエンペラーである。
【テクノスホエール】
5歳年末の香港マイルを見事に制し、GⅠ10勝を達成。そのまま勇退した最強マイラーの呼び声高き怪物牝馬。
マイル女王、鯨、こいつがいたら負け。様々なあだ名で愛された馬でもある。
また5歳の安田記念の後、バインの側で『座って』みせたことで、『座る馬』というあだ名が増えた。
そしてその座る姿を元にした馬のぬいぐるみが発売され、人気を博した。ついでにバインも座った姿勢でぬいぐるみ化された。
大泉笑平がその人形を自分のトーク番組のセットに飾るなどしたせいで、人気に拍車が掛かったようである。
しかしその戦績を振り返ってみれば、国内のマイル・スプリント古馬GⅠタイトル全制覇、マイルチャンピオンシップ3連覇と、偉業尽くしの凄まじい戦績を残している馬。
適正距離は1200m~1600m。最適性距離は1600m。
走ろうと思えば1800mや2000mでもそこそこ強いのだが、ホエール自身にやる気がない為、1600mより長い距離で彼女が結果を残すことはない。
引退後は繁殖入りし、その成績は可もなく不可もなく。産駒から重賞馬が出ることはなかったが、産駒の牝馬の何頭かは繁殖入りを果たした。
繁殖馬としてはあまり無理せず早めに引退し、その後は功労馬として猫やヤギと戯れながら、マイペースにのんびり牧場で過ごしている。
将来の夢は、いつか背中に羽が生えて、鳥のように空が飛べるようになったらいいなあと思っている。
【トモエシャイン】
片言でしゃべる主人公の妹。トモエロード産駒2頭目のGⅠ馬。
適正距離は2000m~2600m。最適性距離は2400m。姉と違ってマイルは苦手な模様。そしてニーアアドラブルと適正距離が丸被りしている。
3歳秋に秋華賞で実力を示すと、以降は中距離レースを中心に活躍。幾度となくニーアアドラブルと対戦し、姉が引退した後の競馬界を大いに盛り上げる存在となった。
ニーアアドラブルのライバルと言えばバインバインボインだが、この2頭はたった3回しか戦っておらず、また適正距離も微妙にずれている。
それに対し、トモエシャインは姉よりも多くの回数ニーアアドラブルと対戦しており、また適正距離も同じ。このことから、ニーアアドラブルの本当のライバルはトモエシャインの方だったと言うファンもいる。
トモエシャインは3歳の札幌記念で負けて以降、ニーアアドラブルに挑み続けた。
全力を尽くし、己を削り、死に物狂いで挑み続け、そしてある時彼女は認められる。
ニーアアドラブルから敵として、好敵手として、ついにその実力を認められる。
しかしそれを喜んだのも束の間、トモエシャインは気付いてしまう。ニーアアドラブルが、自分を『姉の代わり』として見ているということに。
己の全てを懸けて挑んだにも関わらず、ニーアはトモエシャインのことを一切見てくれておらず、別の何かの代替品として扱っている。
ニーアアドラブルはトモエシャインの走りを通し、トモエシャイン以外の誰かを見ている。
それに気づいた時、トモエシャインの心はかつてない屈辱と羞恥で荒れ狂った。
『分からせなければならない。この女に私という存在を、己の全てを懸けて。他の誰でもない、誰の代わりでもない私というただ一個のものを、この女に刻み付けなくてはいけない』
トモエシャインは己の全プライドを掛けて、更にニーアアドラブルに挑んだ。
姉との再戦しか考えていない、脚が速いだけで視野のクソ狭い頭悪悪女に、世の中には自分という、お前に負けない位凄い馬が居るんだということを教えてやると、決死の覚悟でトモエシャインは挑んだ。
そしてある時はハナ差で敗れ、またある時は写真判定で敗れ、そしてある時ついに彼女は認められる。
彼女の走りは、奮闘は、ニーアアドラブルの眼の曇りを晴らした。
ニーアアドラブルは確かにその瞳でトモエシャインのことを捉え、栃栗毛の代わりではない、新たな鹿毛の好敵手として、その存在を己の心に刻んだ。
トモエシャインの宿願は、果たされた。
そして好敵手との激闘の果て、ニーアアドラブルは引退する。
ニーアアドラブルがいなくなり、次の中距離女王はトモエシャインになると誰もが思っていた。
しかしニーアアドラブルが引退すると、トモエシャインはレースに興味を失くしたように凡走しかしなくなり、そのまま引退してしまった。
彼女にとって、レースとはニーアアドラブルに挑むことを指す。彼女にとって、勝利とはニーアアドラブルに認められることを指す。
人間が作ったタイトルも、人間が決める勝敗も、彼女にとっては無意味なものでしかなかった。
ただ一頭の馬に焦がれ、ただ一頭の馬を追う。それがトモエシャインという競走馬の全てだった。
かくして彼女はレース場で自分が為すべきことを全てやり終え、故郷の巴牧場へ繁殖牝馬として帰って行った。
トモエシャイン。その生涯戦績は敗戦にまみれている。連勝街道を進んだ姉と違い、負けたレースの数は優に10を超え、勝ったレースは5つに届かない。
それでも彼女は胸を張って故郷に凱旋した。自分は目的を果たし、為すべきことを為したという誇りがあるから。
人間が決める勝敗など関係ない。トモエシャインはニーアアドラブルに挑み、そして欲しいものを勝ち獲り、望むものを相手に刻んだ。
故に彼女は胸を張る。母にも姉にも負けない位堂々と故郷の地を歩く。
その傷だらけの戦績を誇り高く掲げながら、彼女は今も、姉や母と共に故郷の巴牧場で楽しく暮らしている。
【ウインターコスモス】
バインと同世代の馬であり、『牝馬が強い時代』に活躍した馬の一頭。
その活躍した時期とコスモスという馬名のせいで、よく牝馬と間違われるが、歴とした牡馬である。
牝馬がレースを勝ちまくり、重賞タイトルを総なめにしたその時代。その時流に抗うがごとく現れた、重賞GⅠを勝てる強い牡馬。
晩成型ステイヤーというその時代遅れの能力からして、色んな意味で時代に抗った馬だった。
『牝馬の時代最後の雄』という、冗談なのか何なのかよく分からないあだ名まで付けられたりもした。
適正距離は2400m~3600m。重賞で入賞したレースは全て2400m以上という筋金入りのステイヤー。走る距離が長ければ長い程強くなるスタミナお化け。
適正距離の違いから、バインと関わることは最後までなかった。
彼の存在が世間の注目を浴びたのは、4歳のジャパンカップ。ニーアアドラブル相手に奮戦し、以降ニーアアドラブルの対抗馬筆頭として目されるようになる。
そして5歳春、天童騎手が乗る馬を2着に抑え、ウインターコスモスは見事天皇賞(春)を勝利。
ついに念願のGⅠ初タイトルを掴んだ。東條騎手は、ウインターコスモスをGⅠ馬にするという誓いを見事果たした。
その後コスモスは怪我もなく現役を続けた。マイナー血統故に種牡馬として期待されなかったこともあり、なんと10歳になっても走り続けた。
そして何歳になっても重賞、GⅠのレースに顔を出し、流石にもう齢で活躍出来ないだろうというファン達の予想を裏切って、入賞したり勝ったりした。
その距離適正のように長く活躍し、長くファンから愛され応援される馬となったのである。
その鞍上はダービー以降、引退まで東條騎手が務めた。
後に東條騎手がインタビューで『騎手生活で最も印象に残っている馬は?』と聞かれた際は、『牝馬ならバインバインボイン。牡馬ならウインターコスモス』と迷いなく答えたと言う。
主な勝ち鞍:天皇賞(春)(GⅠ)、ステイヤーズステークス(GⅡ)、京都大賞典(GⅡ)




