名馬との別れはいつだって突然に
【天皇賞秋を制したバインバインボイン、屈腱炎で長期休養へ】
天皇賞でGⅠ5勝目を飾ったバインバインボイン(牝4歳 美浦・郷田厩舎 父ゴーゴーマイル)が右前脚に屈腱炎を発症し、長期休養を強いられることが11月3日、分かった。
同馬は馬場へ出て軽いキャンターを行う予定だったが、その日は馬房から一歩も出ようとしなかった。厩務員と郷田調教師が確認したところ右脚部に熱があり、急遽検査することとなった。
『エコー検査の結果、右前脚の浅屈腱炎と分かりました。今後の経過次第ですが、(復帰には)時間が掛かると思います』と郷田調教師。なお、全治には9カ月以上の休養を要する見込み。
先週の天皇賞(秋)で初の中距離GⅠタイトルを獲得したばかりだった同馬。今後の出走レースに注目が集まっていたが、全て白紙に戻されることとなった。
【競馬ニュースサイト KEIBANET.comより】
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冬の2月。まだ春の足音も遠い北海道日高。大泉笑平は吹き付ける寒風をコートでしのぎながら、巴牧場を訪れていた。
わざわざ笑平が東京から北海道を訪れたのは、屈腱炎を患い巴牧場で療養中のバインに会う為であった。
天皇賞の翌週に発覚したバインの屈腱炎。順調に回復したとしても、完治には最低9ヶ月を要すると言われたその故障。
しかし多くの人間の懸命な看病も及ばず、当初の獣医の予想よりもその回復は遅れていた。それどころか、バインの脚の状態は悪化しつつあった。
屈腱炎は、過去多くの競走馬を引退に追い込んだ危険な疾患である。そして競走馬がレースを走り続ける限り、その発症のリスクをゼロにすることが不可能な疾患だ。
競走馬の走りを支える脚の腱。通常その腱組織は調教やレースで馬が走る度に傷付き、傷んでいく。
馬の体にはそれを回復させる機能がもちろん備わっているが、一度傷付いてしまった腱組織が完璧に元通りになることは滅多にない。
人間がどれだけ丁寧にケアしたとしても、完璧に元通りとは中々いかず、変性した状態で腱組織は回復してしまう。
調教で馬を鍛えれば鍛える程、馬がレースを走れば走るほど、その馬の脚は痛む。そしてその傷んだ状態から脚が回復する度に、馬の脚は徐々に徐々に変性し歪になっていく。
その歪みの蓄積が限界を超えてしまった時、歪みは屈腱炎という疾患となり、馬から競走能力を奪い去る。
屈腱炎とは、レースを走る全てのサラブレッドの脚に埋め込まれた時限爆弾のようなものだ。
そしてその時限爆弾がいつ爆発するかは、起爆するその瞬間まで誰にも分からない。
早ければ2歳、デビュー早々に発症してしまう馬もいる。かと思えば10歳を超えてなお、1度も発症せずに現役を続ける馬もいる。
バインの場合は4歳秋だった。4歳秋の11月に、バインの屈腱炎の時限爆弾は爆発した。
そして発症から3ヶ月近くが過ぎた今も、なかなか快方へは向かわず、それどころかその容態は悪化しつつある。
5歳での復帰はもう難しいと、獣医と調教師の郷田は判断した。
そしてオーナーである笑平は、バインの進退を決めなければならなくなった。
6歳以降の復帰を目指しバインの現役を続行させるか。それとも潔く今年で引退させるか。
その決断をする為に、笑平は巴牧場にやって来た。
バインという自分の持ち馬をこの目で見て、今日その生末を決めなければならないと、そう笑平は決めていた。
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ある晩、何だか自分の右前脚に違和感があることに気付いた。
どこかで脚をぶつけでもしたのだろうかと、その時はそこまで深刻に思わなかった。
しかしその翌朝、私は右前足が発する強い痛みで目が覚めた。歩こうとすると、右脚が地面を踏むたび激痛が走る。真っすぐ歩けないほどの痛みだった。
これはちょっと、今日は走れそうもないぞと思った。郷田先生にトレーニングをお休みにして貰わなければと思った。
でもその時ですら、私は自分の脚がそんなに大変なことになっているなんて気付かなかった。
幸いにも厩務員の小野がすぐに私の異変に気付き、郷田先生を呼んでくれた。郷田先生はすぐに私を獣医に見せ、そして診断が下された。
私の右前脚は、浅屈腱炎というものになったらしい。簡単に言うと、私の脚の腱が炎症を起こしていて、それが治るまでは走ることは出来ないのだそうだ。
治るまで走れないというその診断に、私はそりゃそうだろうなと思った。
今の私の右前脚は歩くだけでも痛いし、そもそも脚に力が入れられないような状態だ。こんな脚でレースを走るのは無理だと言うのは、私にだって分かる。
要するに右足を怪我してしまったのだと、私はそう理解した。
問題は、その炎症が治るまで最低9ヶ月掛かるということ。そして治ったとしても、怪我をする以前の走りはもう出来なくなってしまうかもしれないということ。
それでも、そんな人間達の会話を聞いてなお、私はまだ自分の身に起きたことを、そう重大には捉えていなかった。
レースに復帰するまで9ヶ月も掛かるなら、牧場で大分のんびりできるなあとか。
もし怪我が治った後速く走れなくなってしまったら、ニーアアドラブルにはもう勝てなくなってしまうのだろうかとか。
そういう怪我が治るまでの過ごし方や、怪我が治った後のことばかり気にしていた。
何故って、私はまだレースを続けるつもりだったのだから当然だ。例え怪我で私の脚が遅くなってしまったとしても、私のやることは変わらない。
私の戦いはまだ終わっていない。私が今日まで走り続けた道は、きっとまだ続いている。
その道で東條が私の帰りを待っている。ニーアアドラブルのことも待たせている。
だから、例えどれだけ怪我を治すのに時間が掛かったとしても、私はレース場にもう一度帰るのだと、そう思っていた。
それ以外、考えていなかった。
だから思ってもみなかったのだ。『もしもこの怪我が治らなかったらどうしよう』なんて、考えもしなかった。
けれど私の怪我の状態は、私が思っていたよりもずっとずっと深刻だったらしい。
ついこの間、私の脚を診察した獣医が、首を横に振った。
私の怪我は3ヶ月近く経っても全く良くなっていなくて、それどころか悪化していて、このままだと治るまで更に1年以上掛かるらしい。
そして仮に1年以上を掛けて脚を治しても、レース復帰はもう無理かもしれないらしい。
診察した獣医がいなくなった後、友蔵おじさんはしばらく私のことを撫でてから、無言のまま私がいる房を去った。
そしてその日から今日までの数日間、私は何も考えられずぼーっとして過ごしている。
房から外を覗く為の窓から首を出し、どうするでもなくただずっと空を眺めていた。
冬の北海道の空は分厚い雲に覆われ、灰色の曇天だった。
この何日間か、私は全く現実感がなかった。もうレースを走れないという可能性を初めて突き付けられて、どうしていいか分からなくなっていた。
医者の言葉が受け入れられない。
東條やニーアアドラブルになんて説明すればいいんだと、そもそも私の言葉が通じるはずもないのに、気付けばそんなことばかり考えている。
今日も朝からずっと外ばかり眺めていると、友蔵おじさんがやってきた。そして私のことを馬房から連れ出す。
私をどこへ連れて行くつもりだろうと思っていると、放牧地へ連れ出された。
そして、その放牧地の柵の前へと案内される。そこには大泉笑平が立っていた。
黒いロングコートを着た大泉笑平が、暗い表情で曇り空の下立っている、
その口元にはいつものエクボはなく、その唇は真一文字に結ばれていた。
私を連れて来た友蔵おじさんが、大泉笑平と2、3言葉を交わす。
『バインとサシで話がしたい』と大泉笑平が言い、友蔵おじさんは『少ししたらまた戻って来る』と言って、私達から離れていった。
残された大泉笑平と私が、柵越しに向かい合う。
巴牧場でこの男と会う機会が滅多にないからだろうか。私は初めて目の前の男と出会った時のことを思い出した。
あの時私はまだ0歳で、あの時も今日の様に牧場の柵の向こう側にこの男がいた。
そしてあの時私がこいつのスーツの袖に噛みついたことで、私はこの男に買われることになったのである。
そこではたと気づく。
自分の馬としての始まりは、母のお腹から産まれた時だ。私の馬としての命は母から始まった。
そしてこの男に買われたことで、牧場の仔馬だった私は競走馬になった。私の競走馬としての戦いは、この男に買われたあの日から始まったと言ってもいい。
私はこの男のスーツの袖を自ら噛み、この男のことを自分自身で選んで競走馬になったのだ。
偶然ではないのだろう。私と大泉笑平が向かい合っているこの場所は、まさにあの日私達が初めて出会った場所と同じ場所だった。
あの頃と比べ随分大きくなった私が、あの日と違い、笑みを浮かべていない大泉笑平と向かい合っている。
私は右前脚の疼痛を無視し、私の馬主の方へ近づいた。
大泉笑平もまた、一歩二歩と私の方へ近づいた。
私達の始まりの場所で、噛みつける程近い距離で、私は自分の馬主といつかのように向き合ったのだった。
競馬場の楕円形のコースを一周するように、ぐるり回り、始まりの場所へ戻って来た。
続きは明日12時更新です。
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