また一緒に走ろう
掲示板の一番上で輝く3の数字を見上げながら、私はぐるりと競馬場を見回した。
首を高く上げ堂々と。私のことをあらゆる人間に見せるつもりで、ぐるりと競馬場を見渡す。
今日は倒れずにゴールした。何より勝ってゴールした。人間達の笑顔を、歓声を、興奮を、余すことなく見ておきたくて、私は何度も何度も競馬場を見回した。
スタンドを見て、馬主席を見て、テレビカメラがあるであろう方向を見た。
テレビカメラの向こうで、どれだけの人が私の走りを見てくれただろうか。私が今日まで走り抜いた日々を、どれだけの人が知っているのだろうか。
届いただろうか。見てくれただろうか。私がここにいることを、分かって貰えただろうか。
何やら急に名残惜しいような気持ちになって、動くのをやめてしまった私の首を東條が撫でた。
ウィニングランの時間だ。安田記念では、疲れ過ぎていたのもあってレース後走ることは出来なかった。
東條の催促に応え、久々のウィニングランへ向かおうとする。すると、ニーアアドラブルが私の行く手を阻むように現れ、立ち塞がった。
レースを終えて間もないニーアアドラブルの身体からは、まだ湯気が立っていた。荒い呼吸もまだ整い切っていない。
だが、その一目で疲弊していると分かるその状態でなお、彼女の目は爛々と輝いていた。
私のことを恨めしそうに、憤怒を隠そうともせず、ニーアアドラブルは私のことを睨んでいた。
彼女のその顔に、私は心底嬉しくなる。
そうでなくっちゃあいけない。負けたんだから、この私に負けたんだから、負けた奴はそういう悔しそうな顔をしなくっちゃあいけない。
私だって秋華賞の時は、今のニーアアドラブルのような顔になったのだ。そんな悔しがる私の顔を、ニーアアドラブルは得意げに見下ろしたのだ。
あの時のお返しのつもりで、私はこれみよがしに首を高く上げ、ニーアアドラブルのことを見下ろしてやる。
私の気持ちが伝わったのだろう。ニーアアドラブルが瞳孔の開いた目をかっぴらき、その表情をより悔し気に歪めた。
はっはっはっ。お前のその顔が見たかった。良き哉良き哉。
良い気分になっていると、ニーアアドラブルの鞍上からの視線に気づく。見れば、ニーアアドラブルの背に乗る騎手が、ニーアアドラブルに負けない位悔しそうな顔で私を見ていた。
今にも泣き出しそうな、あるいは激昂でもし出しそうな表情だ。
なんだぁ人間、その顔は。私に言わせりゃ今日ニーアアドラブルが負けたのは、騎手であるお前が東條の作ったスローペースに呑まれて、いつまでもノロノロしていたせいだぞ。
そんなに悔しがる位なら、お前も私の東條に負けない位上手く私達に乗れるようになれ。
もっともっと死に物狂いで馬に乗って、私達を勝たせることが出来る騎手になれ。
なれないならな、なれない内は、お前には悔しがる資格すらないんだよ。
そう思いながら、ニーアアドラブルの騎手から視線を切り、ニーアの隣を通ってスタンド前に行こうとした。その時である。
ガブゥッ!!
ニーアアドラブルが、突然私の首に噛みついてきた。
突然の激痛に思わず悲鳴を上げそうになったか、その悲鳴を強引で喉元で抑え込む。後ずさりしそうになる脚を、根性でその場に固定する。
危なかった。馬の首が長くなかったら、情けなく悲鳴を上げるところだった。
ニーアアドラブルの騎手が流石に慌てて私からニーアを引き離そうとし、しかし上手く出来ず動揺している。
何をしているんだと、東條が怒って抗議の声を上げた。
ニーアアドラブルは人間達のやりとりを無視し、私の首に噛みついたまま、私のことを睨みつけている。
この女、信じられねえ。いくら負けたのが悔しいからって、よくもゴール後に噛み付くなんてみっともない真似が出来るものである。
私だってお前に負けた時は、妹と小野と畳をドつくだけで我慢したというのに。四歳にもなってなんて大人気ない女だ。
私の首に噛みついたままのニーアアドラブルに、『全然効かないけどアンタ何してんの?』という冷たい視線を送ってやる。
本当は泣きたい位噛まれているところが痛いが、ぐっと堪えて余裕の態度を見せる。
私に睥睨されて、ようやく冷静になったのだろうか。ニーアアドラブルはビクともしない私に動揺し、その口を私の首から離した。
彼女に噛みつかれた私の首には、彼女の歯型がくっきり残っていた。
ふん、まあこれも、負けた奴の負け惜しみというやつだ。
それだけ彼女にとって今日の負けが悔しくて、それだけ彼女にとって私が忘れ難い存在になったということだ。
勝者の余裕で、彼女のこの暴挙も笑って許してやろうじゃないか。
たらりと、私の首の噛み跡から一筋の血が流れた。
はっはっは。ハッハッハ。ハッハッハッハッハッ。
お返しだ。
ガブゥゥッッ!!!
私はニーアアドラブルの首に思いっきり噛みついてやった。より深く歯型を残してやろうと、彼女の栗毛を首の肉ごと毟るつもりで噛む。
『『わーーっ!?』』と、東條と彼女の騎手が揃って驚きの声を上げた。
噛まれた彼女も、まさかやり返されるとは思っていなかったのだろう。
びくんとその全身を震えさせた。
しかしニーアアドラブルは、小癪にも私の噛みつきに負けなかった。
悲鳴を上げず、一歩も下がらず、かなり全力で噛みついてやったのに、『何それ効いてないけど?』という態度を取ってくる。
こいつめ、さっきの私への意趣返しのつもりか。ちょっと涙目になってるじゃないかお前。
喧嘩慣れしてないくせに無理して張り合おうとしやがって。
彼女の首から口を離し、私は彼女と真正面で向かい合った。彼女の首からも、一筋たらりと血が流れる。
気付けば、今日のレース前のパドックの時と同じ状況になっていた。
2頭の馬が真正面で向かい合ったら、どちらかが後ろに下がるまで睨み合う。
後ろに下がった方が負けだ。後ろに下がり道を譲った方が、相手を自分より上と認めたことになる。
東條とニーアの騎手が、何とか私達を引き離し遠ざけようとしている。周囲には係員達も集まって来ていた。
だが私達は動かない。私とニーアアドラブルは動かない。もう格の付け合いは始まっている。
今日のレースを勝っておきながら、こんな盤外戦で負けて帰るのは御免だった。
ニーアアドラブルを睨む。ニーアアドラブルも私を睨む。
しかしいいのかこれでと、不意にそんな気持ちが私の中に湧いた。
今日私達は全力で走り、勝敗を決めた。それなのにその戦いの後で、その決着を濁す様な真似をして、それで本当にいいのか。
ニーアアドラブルの目を見た。彼女の気持ちが知りたくて。
彼女だってきっと、私とそう気持ちは変わらないはずだ。
どんなに負けが悔しくても、その負けをこんな喧嘩で有耶無耶にしたいだなんて彼女も思わないはず。
私と駆け抜けたあの時間を無かったことにしたいだなんて、もし彼女がそんな風に思っているなら、それは私にとって負けるよりも悲しいことだ。
だから彼女の心が知りたくて、言葉を話せない彼女の気持ちが知りたくて、その瞳をじっと見つめた。
彼女の瞳は、不安定に揺れていた。私と同じようにこの状況に動揺しているようだった。今この状態は、彼女にとっても不本意なものなのだと分かった。
だがそれでも、彼女は私の前を動かない。私を睨むのを止めない。
読み取れたのは必死さだ。ただただ必死に、彼女は私がウィニングランをするのを阻んでいる。
今日の最後に私が観客席の前を走り、私が今日のレースを終えるのを、止めようとしている。
ああ、と気付く。
彼女はきっと、負けたのが悔しくて私に噛みついたのではなかった。
彼女はただ、私を引き留めようとしただけだ。私が彼女の前から去ろうとするのを、彼女は必死で引き留めようとした。
でもどうやっていいか分からず、それが噛みつきという行動になってしまった。こうやって睨み合うという形になってしまった。
私達にとって、忘れられない一生の宝となった今日のレース。
その何より大切な思い出を汚すことになったとしても、それでも私と別れたくないと彼女は思ってくれた。
今日別れたら、私達はそれを最後にもう二度会えない予感がしたから。だから彼女はこんなにも必死になって、私のことを引き留めようとしてくれている。
いつの間にか彼女は私を睨むのを止めていた。私も彼女を睨むのを止めていた。
けれどお互いに動くことが出来なかった。道を譲ることは出来なかった。
10秒、20秒。お互いに動けなくなったまま、時間だけが過ぎた。1秒が何十倍にも引き延ばされて、彼女と私の間だけ、酷くゆっくりと世界が流れているように感じた。
ああ、でもこれは、結局のところ引き延ばしだ。だって、私と彼女の決着はもう付いている。
どんなに名残惜しくとも、どんなに別れ難くとも、その決着は覆らない。
時間は巻き戻せないから、繰り返せないから、私と彼女が競い合ったあの一瞬は何より尊いものになる。彼女と共に駆け抜けたあの瞬間は、決して色褪せぬ永遠となる。
だからその永遠を汚す様な真似だけは、絶対に許されない。
私は未練を断ち切るように、彼女に向かって一歩踏み出した。
さよならだと、ただその意思のみを自分の目に映して踏み出した。
ニーアアドラブルはしばし躊躇ってから、それでも最後は覚悟を決めるようにして、自ら一歩引いてくれた。
彼女は一歩引いて道を開け、私を通した。
彼女が開けた道を通り、私は観客席の前へと向かう。鞍上の東條がほっとしているのを感じた。
ウィニングランをする前に振り返り、ニーアアドラブルを見る。
彼女は私の姿を1秒も忘れまいとするように、じっと私のことを見つめていた。
「また一緒に走ろう。次も私が勝つから」
気付けば、私は彼女に声を掛けていた。
どうしてそんなことをしたのだろう。しゃべれない彼女にきっと私の言葉は伝わらない。そう思いながら、それでも私は彼女に言葉を送った。
それが彼女にどう伝わったのか。本当に伝わってくれたのか。
私に話し掛けられて、彼女は驚いたように身じろぎした。
もしかして彼女もしゃべれる馬なのだろうかと、しばし彼女からの返事を待ったが、やはり彼女からの返答はなかった。
彼女から視線を切り、スタンド前を走り出す。
私を知る全ての人に、私を今日知った全ての人に、私の全てを知るニーアアドラブルに、どうか私を見てくれと、私は走る。
喝采を浴びながら、歓声に応えながら、今日の勝利を誇らしく掲げ、私はスタンド前を駆け抜けた。
主人公、1年以上ぶりのウィニングラン。
続きは明日昼12時投稿予定です。
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