GⅠ 天皇賞(秋)出走前 ~最後の闘争~
走り続けて来た。勝ち続けて来た。
負けたのは1度だけ。前の前の春に初めて負けた1度だけ。
でもそれ以来ずっと勝ち続けた。どのレースよりたくさんの観客が集まったレースでも、私を負かした相手との再戦でも、年上の馬達とのレースでも、私はずっと勝ち続けた。
今年の春、おかしな所へ連れて行かれた。暗い箱に閉じ込められて、私が今までいた場所とは空の色も、風の匂いも、芝の感触も、何もかも違う場所だった。
そこでは暮らす人間達までもが、肌の色や鳴き声の発音が私の知る人間とは違っていた。
とても不思議な場所だった。すごく遠くに連れて来られたのだと分かった。
でも、そこでもやることは変わらなかった。そこでもやることはレースだった。私のやることはレースで勝つことだ。
狭くて暗い場所に長い時間閉じ込められていたせいで、私の体調はあまり良くなかったけれど、それでも私はいつも通りに勝った。
その後は元居た野々宮厩舎に帰って来て、しばらくお休みして疲れを取って、そしてまたいつものようにレースに出て、いつものようにレースに勝つ。
私の勝利はいつだって歓喜に満ちている。私が走る度、勝つ度に、人間の皆は喜んでくれる。私が勝てば勝つほど、人間の喜びは大きくなっていく。
幸せだった。人間の皆に笑って欲しいという私の願いは叶い続けている。人間の皆に貰ったものを返したい、人間の皆に喜んで貰いたい、という私の夢は叶い続けている。
私は私の走りで勝利を掴み、その勝利で私は夢を叶えた。
私は満足している。
私が勝つことを皆が喜んでくれていて、私もそれが間違いなく嬉しいのだから、これが幸せでないはずがない。
だって、私は望んだものを全て手に入れているのだ。ならそれが幸福でなくてなんだというのか。これ以上の幸福などあるはずもない。足りないものなどあるはずがない。
そのはずだ。そのはずなのに、何故だろう。少しだけ、最近ほんの少しだけ、寂しいと感じる。
走り続ける内に、勝ち続けるほどに、どうしてか私の心には寂しさが積もった。
この寂しさは人間に対するものではない。私の大好きな人間達は、今も昔も変わらず私に寄り添い、私のことを愛してくれている。
だからこの寂しいという感情は、人間に向けた感情ではない。私が嫌いなはずの、馬に対して感じる寂しさだった。
レースで私が前の馬を抜いていく時、誰も私の走りに粘ろうとせず、あっさりと先頭を譲られる。そして私の後ろからは、私を追い抜こうと追いかけて来る馬が居ない。
そんな時、私は走りながら少しだけ虚しい気持ちに襲われる。
私はこんなに頑張っているのに、もう2度と負けないという覚悟で戦っているのに、その私を相手に戦いを挑んで来る馬がいない。
私が勝てば勝つほど、私に勝とうと挑んでくる馬がいなくなっていく。他の馬に乗る人間達までもが、私の次にゴールしようと、2着を巡って争うようになっていく。
勝てば勝つほど、私が強いと知られれば知られるほど、私の周りからは馬がいなくなっていった。私の側を走る馬がいなくなっていく。
十頭以上のたくさんの馬がレースには参加しているのに、その中には私の敵が一頭もいない。私に挑んで来る者が一頭もいない。
敵のいないレース場で、私一頭だけが戦い続けるというのは、何だかとても寂しくて、なんだかとても虚しくなる。
それは良いことのはずなのに。私はレースに勝つことで人間に恩返しをしていて、勝てば人間の皆は喜んでくれる。
私は勝ち続けなければいけないのだから、他の馬が弱いのは良いことのはずだ。他の馬が私と戦いもせず諦めるのは、それは私にとって嬉しいことのはずだ。
争うまでもなく勝利が手に入るならば、それこそが最上の結果であるはず。
そのはずなのに、何故だろう。
あいつがいれば、と思ってしまう。
この世でただ一頭、私を負かしたあの馬。この世でただ一頭、私に本物の勝負というものを教えたあの馬。私に敗北を刻み、私が敗北を刻んだあの馬。
あの馬が、あの栃栗毛がいればと、そう思ってしまう。レース場に来るたびに、栃栗毛の馬を探してしまう私がいる。
パドックを回る馬達の中に、あの深く輝くような栃栗毛が混じっていないかと、どうしても探してしまう。
そう、だから、白状すると癖になっていたのだ。パドックであいつを探すことが、いつの間にかレース前の私の癖になっていた。
レース場に来るたびにあいつを探し、でも一度もあいつは私の前に現れなかった。去年の秋に戦ったのを最後に、季節は一巡し、1年が過ぎた。けれど、その間一度もあいつは私の前に現れなかった。
もう会えないのかもしれないと、最近はそう思うようになった。あいつはもうレース場を去っていて、もう二度と会うことはないのかもしれないと、そう思い始めていた。
けれど、違った。あいつはいなくなってなんかいなかった。今日のパドックに、ついにあいつが現れた。
3番のゼッケンを着けたあいつが、私がいるこのレース場のパドックを、堂々と闊歩している。日の光を浴びて、奴の栃栗毛が深い輝きを放っている。
奴の姿を見ながら思った。遠いと。私の付けるゼッケンは5番。奴と私の間には1頭別の馬がいる。ようやく見つけたのに、やっと会えたのに、あいつの歩いている場所が遠い。
そう思っていると、パドックのコーナーに差しかかり、奴の顔の角度が変わり、私と奴の目が合った。その瞬間、私の中で様々な感情が爆発した。
1年間溜まり続けた、溜め続けてしまった、あいつ以外の馬に対するやるせなさや虚しさや憤りの一切合切が、いっぺんに破裂した。
「うあ、おい!」
感情のままに、動き出す。首を振り回すと、私を誘導していた厩務員さんは不意をつかれ、握った綱を手放してくれた。
自由になった私は、あいつの方へ小走りで向かう。前を歩いていた邪魔な馬を抜かし、驚く係員や観客たちのどよめきを無視し、あいつのもとへ向かう。
すると、あいつは振り向いた。くるりと私に振り向いた。
振り向いた栃栗毛の目が、私を捉える。その目に正面から睨まれて、私は脚を止めた。
あいつの真正面、振り向いたあいつの真ん前で、私は立ち止まる。
睨み合うように向かい合って、お互いの呼吸が重なる程の近さで、私達は1年ぶりに再会した。
嗚呼、と思う。こいつだ。この馬だ。私を唯一負かした馬。私が1年前に勝った馬。どうしてかずっと探していた馬。
けれど、再会した栃栗毛は、1年前とはまるで別の馬のようになっていた。
1年ぶりに見た栃栗毛は、とても大きくなっていた。見ただけで分かった。その身体を、顔を、発せられる圧を、近くから見ただけで分かる。
別格だ。別格の馬になっている。私が勝った去年の秋の時とはまるで違う、1年前よりとてつもなく大きな馬になっている。
体の大きさの話じゃない。この馬を構成する全てのスケールが、かつての何倍も大きくなって、まったくの別物のようになっている。
強い。震えるほどの確信と共に理解する。今日のこの栃栗毛は間違いなく強い。私がこれまで出会ったどの馬よりも、ずっと強い。
敵が強いことは、怖いことであるはずだった。ただでさえ厄介なこの栃栗毛が強くなっていることは、私にとって不都合なことであるはずだった。
なのに、私の胸がこんなにも歓喜で震えているのはどうしてか。
この馬は、いつだって私にとって一番の敵なのだと。その事実を私がたまらなく嬉しく感じているのはどうしてか。
この馬こそが、私にとって一番の壁なのだと、それがただ再会しただけで証明されたようで、自分の尻尾が縦に揺れるのを止められない。
私がどれだけ速くなっても、私がどれだけ勝ち続けても、こいつは、この馬は、必ず私の前に現れて、立ち塞がる。立ち塞がって、くれる。
本当なら怒らなければいけないはずだった。私の勝利を邪魔をするなと、もう二度と現れるなと、歯向かえないようコテンパンにやっつけてやると、そう思わなければいけないはずだった。
でも、何故だろう。今はただ、ただただこの馬が、今日こうして私の前に現れてくれたことが、こんなにも嬉しい。
目の前の栃栗毛は、じっと私のことを見ている。睨むようなその目の力が強い。その瞳の奥が私を射抜くような光を発している。
栃栗毛は今怒っているのだろうか。去年勝った私を憎んでいるのだろうか。それともこの馬も、私のように私と再会できたことを、もしかして嬉しいと思ってくれているのだろうか。
栃栗毛は私から視線をそらさずに、ユラユラと頭を揺らし出した。
そして棒立ちする私の隙を突くようにして、私の顎の下の喉元に、自分の口を差し込むように突き刺してきた。グエッ!?
栃栗毛からの突然の攻撃に、思わずたたらを踏みそうになる。それを、馬としての本能で踏みとどまり、脚を動かさずに堪える。
あ、これ相撲だと、私は理解した。
馬と馬が正面で睨み合ったら、始まるのは相撲だ。私はあまり他の馬達と仲が良くないのでやった経験は少ないが、他の馬達がそれをやっているのは何度も見たことがある。
向かい合い、睨み合い、口の先でお互いを小突いたりする。頭突きをするぞ、首で殴るぞ、噛みつかれたいのかと威嚇し合う。それが私達馬の相撲だ。
勝敗は単純に決まる。後ろに引いた方が負けだ。2頭の馬が向かい合って相撲が始まったら、一歩でも後ろに下がった方が負け。
後ろに下がるということは、相手に道を譲るということ。道を譲るということは、相手を自分より格上だと認めるということ。
ここで私が下がったら、私はこの栃栗毛より自分は格下だと認めたことになる。
そんなのは御免だいう気持ちを込めて、私はやり返すつもりで栃栗毛の首を口の先でつついた。
栃栗毛はびくともせず、なんだそれはという顔で私を睥睨している。
こ、こいつ、相撲慣れしている。『売られた喧嘩は全部買う。買った喧嘩は一つ残らず勝って来た』という顔をしている。
お前相撲慣れしてないなと、栃栗毛の目が私に言っていた。ここは自分の土俵だが、相撲で決着をつけてしまっていいのかと、その目が呆れたように私を見ている。
栃栗毛は喧嘩に自信があるようで、喧嘩に不慣れな私を上から目線で見下ろしていた。
くそ、私より脚が遅いくせにこの女。
私とて自分の不利は承知だが、もう私と栃栗毛は向かい合い、睨み合ってしまっている。
もう相撲は始まっている。ここで私が引いたら私の負けのだ。この女に負けを認めるなんて、例えそれがレースでなくても絶対に嫌だった。
負けてたまるかという気持ちで、脚を踏ん張りながら栃栗毛を睨み返す。
じゃあ戦ろうか、と栃栗毛は再び首をユラユラと揺らしだした。
するとそのタイミングで、私達の周りを人間達が取り囲み、私達の間に割って入った。
私も栃栗毛も『動いた方が負け』という状態だったので、しばらく人間達に抵抗したが、結局相撲は続けられなくなり、人間達によって中断となった。
勝ち負け付かず。引き分けですらない無効試合だ。パドックの列に、私とあいつが戻されていく。
私達は無事列に戻り、そこからは私もあいつも大人しくパドックを回った。
パドックが終わる間際、視線を感じ、振り返る。遠くから栃栗毛が私を見ていた。
その瞳は、あいつに似合わない憂いを帯びた色をしていた。そして、わずかな悲しみと寂しさがその中に宿っていた。
その視線に射抜かれて、私の中に一つの気づきが生まれた。
ああ、と私は思った。分かった。彼女の瞳を通し、今分かってしまった。なんてこと。多分、今日が最後なのだ。
私があの栃栗毛と出会うのは、きっと今日が最後。私たちは今日この競馬場でレースを走り、それが終わって別れたら、その後出会うことはきっと二度とない。
私たちはもうその先、お互い死ぬまで再会することはない。
理屈のない勘だ。勘でしかないけれど、それはきっと間違いのない予感なのだと思った。
せっかく会えたのに。今日ようやく再会できたのに。あいつがどんなに嫌な女で、ムカつく奴だったとしても、私と走ってくれる馬はあいつしかいないのに。
気付きと同時に、私の胸の中に悲しみが溢れた。私を溺れさせるように、私の心を寂しさが飲み込む。
その奥で、炎が燃え上がる。私の悲しみと寂しさの全てを蒸発させるように、灼熱の炎が私の中で噴き上がる。
そうだ。そうだとも。ならば負けるわけにはいかない。
負けたくないからじゃない。勝ちたいから。
彼女にだけはどうしてもどうしても勝ちたいから、ここで彼女との別れを落ち込んでいる暇など私にはない。
彼女に覚えておいて貰う私の最後の姿は、私が勝利した姿であって欲しいから。
今日が最後だと言うならばなおのこと。最後に彼女が私に挑みに来てくれたと言うならば、私はそれに応えなければいけない。だから私は勝利しなければいけない。彼女に勝利は譲らない。
私の心に火が灯るのと、彼女の瞳の奥がギラついた光を発するのは同時だった。お互いにお互いから視線を切る。
私達は走る為に生まれて、争う為に生き、今日ここで決着を付ける。
パドックの周回を終えた私の前に、私と同じ目の色をした、ハルマがやってくる。
彼を背に乗せた。最後の戦いが始まる。
1勝1敗。どちらが最後に勝つか、どちらが勝ち越すか。
私と彼女の最後の闘争が、始まろうとしていた。
次回天皇賞スタートです。
明日も昼12時更新予定。
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