第14話 孤独な英雄(1)
――――――そっと、目を開けた。
(……ん?)
ぼうっと、見慣れない壁が目の前にある。
(でも、見た事ある)
じっと壁を見つめると、見つめていると、思い出した。
(あ、キッドの部屋の壁だ)
あたしは目を擦る。部屋は薄暗いが、窓のカーテンから微かな日の光が漏れている。
(……あたし、なんでここにいるの…?)
寝起きの頭がぼうっとする。
(ニクスの部屋にいたはずなのに……)
キッドのお下がりのダサい服に着替えて、眠るニクスの寝顔を眺めながら、一晩中傍から離れなかった。
(ニクス……)
手を握り締めた。
(ニクス…)
あたしの手がニクスの手を暖めた。
(ニクス)
そのまま、あたしは眠ってしまった。
(……なんでキッドの部屋にいるのよ……。あたしは朝、目が覚めた時、必ずニクスの顔を見ようと思ったのに……)
だが、毛布は暖かい。
(……はあ、この毛布が心地いいから許してあげるわ)
―――許さない。
「…………」
ニクスの父親の顔を思い出す。
(正気じゃなかった)
暴走していた。
(……手遅れだったみたいね)
ニクスの父親の毒は、浄化されなかった。
(なんて説明したらいいのよ)
ニクスに中毒者の事を話せと言うの?
(なんて話せばいいのよ)
ニクスの父親は呪われていたと説明するのか?
(なんて話せばいいのよ)
毎日ニクスが、父親に毒を与え続けていたと、
(……話せるわけ、ないじゃない)
ニクスはどんな顔をするだろう。今度こそ絶望してしまうかもしれない。
(そうなったら、どうしたらいいの)
全部を憎むようになったら、
(その時は)
あたしに笑わなくなったら、
(その時は)
絶交されてしまったら、
(その時は、)
どうすればいいのか、分からない。
ぎゅっと拳を握った。
(ニクス)
お願い。
(ニクス)
嫌いにならないで。
(ニクス)
大好きなの。
(ニクス)
失いたくないの。
(ニクス)
あたしのたった一人の友達。
(ニクス)
「ぷに」
―――――――。
(ん?)
あたしの可愛い頬が指で押された。
(ん?)
ぷにぷにと押された。
(ん?)
あたしは気づく。この心地よさは、毛布じゃない。
(抱きしめられている)
体が体温に包まれている。
(まさか)
あたしは瞳を輝かせ、振り向いた。
「ニクス…」
「おはよう。テリー」
寝起きのキッドが、くすっと笑って、あたしの頬を人差し指で触れていた。あたしの口角が一気に下がった。
「うん。実にさわやかな朝だ。隣には愛しい婚約者の寝起き姿」
「………」
「あ、目くそ」
くしくしと、あたしの目元に指を滑らせる。
「取れた」
にっこりと、微笑んでいる。
「お前くらいの子供って皆暖かいよな。いいなー。俺、冷え性だから、羨ましい」
キッドがあたしを抱きしめた。
「はあ。暖かい」
ぬくぬく。
………………………………………。
あたしはキッドを笑い飛ばした。
「髪の毛跳ねてる! はっ! 間抜け面ね!」
「朝起きて最初に言う挨拶がそれなの?」
「退いて! 引け! 散れ! 毛布だけ貰うわ! お前はいらない!」
「テリー。足出しな」
「ひっ!」
それは朝の事。キッドの部屋からあたしの叫び声が響いたのを聞いて、ニクスが深い深い眠りから目を覚ましたのだった。
(*'ω'*)
小さな部屋の窓から朝日が光を照らす。外では相変わらず雪が積もっているが、今日は珍しいほど、雲一つない、穏やかな快晴だった。
ニクスが窓から空を眺め、ぼうっとしていた。
「………」
扉の開けた部屋に二度目のノックをする。ニクスは気づかない。
「………」
あたしはとうとう声をかけた。
「ニクス」
ニクスがはっと振り返った。あたしと目が合う。
「中入っていい?」
「………うん」
ニクスが微笑む。
「どうぞ」
「お邪魔します」
部屋の扉を閉めて、持ってきたトレイを机に置いた。
「ねえ、キッドのお爺ちゃんがココアを淹れてくれたの。一緒に飲もう」
「朝からココアなんて贅沢だね」
「そうね。飲む?」
「うん。飲む」
あたしはマグカップをニクスに渡した。
「熱いから気を付けて」
「うん」
ニクスが受け取り、湯気を眺める。
「…………」
あたしはニクスのベッドに腰をかけた。
「…………」
あたしも口をつけず、ニクスのマグカップの湯気を見つめる。
「ニクス」
声をかけると、ニクスの黒い目があたしを見る。
「………」
また、優しく微笑む。
「挨拶してなかったね。おはよう。テリー」
「…ん。おはよう」
ニクスがあたしの首を見た。
「………」
ニクスが可愛らしく口角を上げる。
「テリーのドレス以外の姿、初めて見た」
「……ダサい服よね」
「テリーが着たら、どんな服もドレスみたいになる。なんだか、その服がとても高級なものに見えてきたよ」
「…ふふ。褒めるのが上手いわね」
「本当のこと言ってるんだよ」
「ありがとう」
呟いて、黙る。ニクスも黙る。沈黙が訪れる。
どちらもココアには口をつけない。
ひたすら湯気を見つめる。
「………」
ニクスが息を吸った。
「テリー」
顔を上げる。真剣な表情のニクスがいた。
「話をしよう」
ニクスが遠慮がちに眉を下げた。
「聞いてくれる?」
「ええ」
あたしはココアを机に置き、ニクスに振り向く。
「馬鹿みたいな話かもしれないから」
「ええ」
「信じないかもしれないけど」
「信じるわ」
「流して聞いて」
「ちゃんと聴く」
「……………」
「聴かせて」
ニクスがあたしの手を握った。
「ありがとう」
ニクスが目を伏せた。
「今でも、はっきり覚えてる」
毎日お金のない日々を過ごしていた。お父さんが怪我をして、仕事をクビになってしまった。明日から、もう稼ぎが無くなる。不安に駆られたその夜だ。
鏡が家の前に置かれていた。
とても高級そうな鏡で、これを売ってお金にしようと思って、お父さんと僕が拾ったんだ。家に置くと、不思議な事が起きた。
『鏡よ、鏡、この世で一番美しいのは誰。…それはニクス』
『当然だ! 僕の娘だからな!』
『ふふふふ!』
鏡が喋ったんだ。そして、お父さんと僕にアドバイスをくれた。まずはお金を作る。鏡を売った。でも、鏡は不思議な事に、買い手に回って、回って、巡り巡って、すぐに戻ってきたんだ。家の前に捨てられてたんだ
『王よ、姫よ。また私を売るのです。さすれば、高額な金が手に入る』
『なんて素敵な鏡なんだ。ニクス、売りに行こう』
『ありがとう。鏡さん』
僕達は、鏡のお陰で生活が出来た。笑顔が増えた。お金があるから、時々医師免許を剥奪された凄腕のお医者様にもお父さんを診察してもらえた。お父さんの怪我はどんどん治ってきた。鏡が、僕らの願っていた幸せを叶えてくれたんだ。
僕、それで、この先も、これでようやく、幸せになれるって思ってた。
でもね、お父さんがどんどんおかしくなっていった。
『なんて素敵な鏡なんだ。もう手放したくない』
お父さんが鏡に魅入られた。
『もう放さないぞ』
お父さんが鏡に依存してしまった。
『鏡よ、鏡』
お父さんが鏡に心を囚われた。
『どうしよう。お父さんがおかしくなっちゃった』
僕はそれで、鏡を捨てる事にした。
『今までありがとう。鏡さん。でも、ごめんなさい。お父さんのためだから』
工事中のトンネルがあった。その奥に、鏡を立てかけて、そのまま家に帰った。
鏡を捨てた翌日、お父さんが鏡を求めていなくなった。
家は追い出されたんじゃない。自分から出て行ったんだ。大家さんは親切な事に、必死に僕を引き止めてくれたのに。
『ニクス、お父さんが見つかるまで、ここにいなさい!』
『僕、捜しに行きます!』
『ニクス!』
僕は一人で城下町を走り回った。お父さんを見つけるために。
『まさか』
そう思って、捨てた場所に行ってみた。
お父さんはいた。鏡に寄り添ってた。
『もう離れない』
お父さんは鏡に支配されていた。
『お父さん』
僕の声が聞こえなくなったお父さん。
『お父さん』
毎日声をかけた。
『お父さん、帰ろう』
どんどん、お父さんは凍っていった。
『お父さん、どうしたの? なんで凍ってるの?』
どんどん、お父さんは雪だるまになっていった。
『お父さん、お父さん、お父さん』
いっぱい、助けを求めたよ。沢山大人に助けてを言った。でも、どんなに警察や兵士に言っても、ホームレスがいるだけだって信じてもらえなかった。
『誰か、助けて』
誰も助けてくれない。
『誰か助けて』
魔法使いさんが現れた。
魔法の薬をくれた。
「…………………」
「昨日の夜、テリーが眠った後ね、僕、起きたんだよ」
あ、テリーが寝てるって思ったら、
「キッドさんが来て」
何があったか、全部話してくれた。
「………ごめんね」
ニクスがあたしの首に、そっと、触れた。
「お父さんが、暴走して、君の首を絞めたって」
あたしの首を、優しく撫でる。
「痛かったでしょ」
「……平気よ」
「強がっちゃって」
ニクスは微笑んであたしを見つめる。
「…………あのね、テリー」
笑顔のニクスが首を振った。
「…いつか、どうにかしなきゃいけなかったんだよ。僕、キッドさんにお父さんが殺されたって聞いて、…安心したんだ。すごく」
ニクスは、微笑んでいる。
「これで、終わったんだって、心から安心した」
ニクスがくすっと、笑った。
「薬じゃ…なかったんだね」
ニクスは、微笑んでいる。
「人間が飲むと毒になる飴。僕がお父さんに毎日与えていたのは呪いであり、毒だった」
呪われた人間に、呪いを重ねた。
その時、すでに、もう、手遅れだった。
「でも、僕、なんか、こうなる事がわかってた気がする。だって、…治るなんて思ってなかった。元に戻るなんてあり得ない。あんな氷の巨人みたいになったお父さんが元の形に戻れるなんて、僕には到底思えなかった」
でも、
「それでも、僕には、飴を渡す事しか出来なかった」
鏡を見張った。
「これ以上、人が呪われないように」
雪の王国を作った。
「雪の王国には雪の城がある。でも雪の城には近づいちゃいけない。怖い雪の王様が住んでいるから」
僕は、雪の王国を見張った。約束したから。
「お母さんに」
「お父さんは」
「僕が」
「守るって」
―――――ニクスが声を出して笑った。
「怖い思いさせてごめんね!」
ニクスがあたしの頭を撫でた。
「テリーを雪の王国に連れていけば、一緒に遊べると思った時、ナイスアイディアだと思ったんだけど、僕が馬鹿だったよ」
あんな危険な場所に、テリーを連れて遊んでたなんて。
「ほら、お父さんが、ああなっちゃったでしょ?」
具合が悪くて病院に行ったら、お父さんの事を訊かれるかなって思って、
「僕、もううんざりだったの」
お父さんの事、考えたくなかった。
「雪山も、雪だるまも、かまくらも、全部、お父さんが壊しちゃったって聞いたよ」
ああ、もう、最悪だ!
「こうなったらしょうがない。また別の所で作ろうよ。大きなやつ」
ねえ、テリー。
「もっと安全な場所で、もっと大きな雪だるまを作って、もっと大きなかまくらも作って」
テリー、
「一緒に遊ぼう!」
「ニクス」
そっと、頬に触れた。
「ありがとう」
ニクスが笑顔を浮かべたまま、瞬きした。
「よく、頑張ったわね。一人で」
鏡を見張って、
雪の王を守って、
雪の王国を作ることで、人々が呪われないようにした。
「ニクスは皆の英雄ね」
ニクスは微笑む。
「あたしの事も守ってくれた」
あたしは微笑む。
「鏡の権利を譲ってくれたから、鏡を割れた」
ニクスの頬を優しく撫でた。
「ありがとう。ニクス。守ってくれて」
あたしはニクスの手を握る。
「ニクス、本で読んだんだけどね」
ニクスがあたしの手を握る。
「友達って、助け合うものなんですって」
あたしは微笑んだ。
「ニクスはあたしを助けてくれた。だから、今度はあたしがニクスを助ける番よ」
「何言ってるの。僕、テリーに助けられてばかりで、何も出来てないよ」
「沢山助けてくれたじゃない」
呪われないように、
「ずっと守ってくれてた」
ニクスを見つめる。
「だから、今度はあたしの番。ね、ニクス、あたし、何したらいい?」
ニクスがあたしを見つめる。
「あたし、ニクスの力になりたいの」
だって、
「ニクスは、あたしの唯一の友達なんだもの」
それも、
「最高の友達よ」
まあ、父親にはなれないけど、
「ニクスの話を聞いて、信じる事くらいなら出来ると思うの。それで、もしそれが助けられそうな事なら、あたしいつだってニクスを助けるわ」
友達って、助け合うものよ。
「頼って。ニクス」
あたしもニクスに頼るから。
「助けが必要なら、いつでも頼って」
あたしはゆっくりと腕を広げ、ニクスを抱きしめた。
「ニクス」
「ちょっと、テリー」
ニクスがココアを棚の上に置いた。
「あはは、もう。テリーってば。ココア持ってるのに、危ないよ」
「ニクス」
耳元で、ニクスの名前を呼ぶ。
「ニクス」
囁く。
「もう大丈夫よ」
ニクスの耳に、伝える。
「もう、大丈夫」
抱きしめると、ニクスが微笑む。
抱きしめると、ニクスの口角が下がった。
抱きしめると、ニクスが黙った。
抱きしめると、ニクスが静かに深呼吸した。
抱きしめると、ニクスの呼吸が震えた。
抱きしめると、ニクスが抱きしめ返した。
抱きしめると、ニクスが顔を俯かせた。
抱きしめると、ニクスがあたしの肩に顔を埋めた。
抱きしめると、ニクスが眉を下げた。
ニクスが涙をこぼした。
「お父さんが死んじゃった」
ニクスの涙が溢れる。
「お父さんが死んじゃった」
ニクスが大粒の涙を流した。
「ずっと守ってきたのに」
ニクスの声が震える。
「お母さんと約束したのに」
ニクスがあたしを強く抱きしめた。
「守れなかった」
ニクスがうずくまった。
「約束、破っちゃった…」
「約束が何よ」
ニクスの背中を撫でる。
「あたしだって、約束くらい破るわ」
「もう、守れない」
「それなら、新しい約束を一緒に考えましょう。何でもいいから」
「でも」
「ニクス、お父様は、ニクスの事恨んでないわ。だって、あたしの首を絞める時、ニクスの事を捜してたんだから」
「…捜してた…?」
「ええ。僕のプリンセスはどこだ、って。心配してた」
「お父さんは」
「良いお父様ね」
「僕を突き飛ばした」
「羨ましい」
「僕を守ってくれた」
「あたしにはパパがいないから」
「死んじゃった」
「お墓参りに行きましょう」
「お父さん…」
「ニクスは精一杯守ってた」
「お父さんが…!」
「たった一人で、大勢を守ったわ」
ニクスを抱きしめる。
「ニクス」
ニクスがあたしを抱きしめた。
「終わったのよ」
あたしは囁いた。
「もう大丈夫」
ニクスが深く息を吸った。
「っ」
―――ニクスが、泣き叫んだ。
ずっと、ずっとずっと微笑んでいたニクスが、あたしを抱き締めて、悲鳴のような、痛々しい泣き声をあげる。
溜まっていたストレスを、溜まっていた不安を、溜まっていた悲しみを、溜まっていた怒りを、溜まっていた不幸を、吐き出すように、叫んで、泣いて、涙を溢れ出して、流して、落として、あたしの肩を濡らして、あたしを抱き締める。
ニクスの指があたしの背中に食い込んだ。伸びた爪が、あたしの背中に食い込んだ。けれど、あたしもニクスをきつく抱きしめる。痛みを少しでも共有する。
ニクスが痛いと、あたしも痛い。
ニクスが悲しいと、あたしも悲しい。
ニクスが笑うと、あたしも笑いたくなる。
だから、またニクスが笑えるように、ぎゅっと、ニクスを抱きしめる。
離さない。離れない。大事なニクスを、もう離さない。
(ニクス)
あたしの肩が濡れる。
(それで少しでも痛みが和らぐなら)
ニクスの爪が背中に食い込む。
(少しでも、ニクスの不幸が消えるなら)
あたしは動かない。
(傍にいるわ。ニクス)
それが友達でしょ。
(その涙が止まるまで、傍にいる)
震えるニクスの体を、更に、ぎゅっと、強く、抱きしめ続ける。




