第11話 捜索開始(2)
さあ、どうしようか。
リュックを背負って、雪の積もった噴水を見て、はあ、と白いため息をつく。街の時計台を見上げると、針は10時を差している。
(10時か。お店が開き始める時間ね)
ああ、そうだ。まずはパン屋だ。
(ニクスの様子を見に行こう)
約束の日、ニクスは来なかった。けれど、朝に何をしていたかは知らない。家にいたのか、父親の看病をしていたのか。
(あたしは何してたっけ。ヴァイオリンの練習だっけ?)
途端に、嫌な記憶が一気に蘇って、首を振る。
(ああ。やめようやめよう。過去はどうでもいいのよ。大事なのは今日よ)
今度こそ約束を守ってもらうわ。ニクス。
あたしはパン屋に向かって歩き出す。噴水から商店街の方に向かい、雪の積もった狭い道を歩いていく。馬車が通る。あたしは歩く。ブーツに雪がつく。
辿り着くのは、ミセス・スノー・ベーカリー。ショーウインドウから店の中を覗く。レジにいるのはニクスじゃない。
(……厨房かしら?)
あたしは扉を開ける。パン屋には何人か客がいて、パンを買っていた。厨房の扉が開き、パンを運ぶ店長が出てくる。
「あ、あの」
「うん?」
声をかけると、店長が振り向いた。あたしの顔を見て、口角が上がる。
「おお、ニクスのお友達か」
「おはようございます」
「おはよう」
「あの、ニクスいますか?」
「今日はいないんだ」
店長が笑った。
「寝坊しているのかな」
「え?」
「出勤のはずなんだが、連絡がない」
聞いた瞬間、あたしの体が硬直する。慎重に訊き返す。
「…………今日、出勤の、予定なんですか?」
「普段はこんな事無いんだがなあ。まあ、ニクスの家には電話が無いと言うし、仕方ないさ。その代わり、店に来たら、こてんぱんにこき使ってやる」
店長が、がはは、と笑い、パンを売り場に置いていく。
「パンをお求めかな? それとも、ニクスをお求めかな?」
「捜してきます」
あたしは微笑み、一歩下がった。
「見つけたら、連れてきます」
「ああ、ぜひ頼むよ」
「ごめんください」
あたしはゆっくりと振り向き、扉に向かって歩いていく。パンの香ばしい匂いがする。
(ニクスが、店に来てない)
(出勤だったのに、来てない)
(約束の当日、ニクスは来なかった)
(それ以降、姿を見せることはなかった)
生きてるかも死んでるかもわからない。
(そんな事、許さない)
あたしは店から出た。冷たい風が吹くが、あたしの体は暖かい。
(冷静に考えましょう。テリー)
サブミッション、ニクスを見つける。
あたしは噴水への道を歩きながら、脳内で考える。
(ニクスの居そうなところはどこだ)
(ミセス・スノー・ベーカリー)
(遊び場所)
(家)
ニクスの住所、あたし知らないわね。一度も彼の家に行った事は無いし、見た事もない。
(ニクスの家……)
本当に行った事がなかったか? 考えるが、思い出せない。そもそも、そんな記憶ない。あたしはニクスの家を知らない。
(でも、父親が寝込んでるって言ってた)
もう一度、ミセス・スノー・ベーカリーに戻るか? ニクスの家を尋ねてみたら、教えてくれるかもしれない。
(いや、個人情報だからと教えないかもしれない。ただ、訊かないと分からない。教えてくれるかも)
道を方向転換させ、もう一度店に向かって体を振り向かせると、はっとした。
(いや、待て)
そもそも、どうしてニクスはミセス・スノー・ベーカリーで働けている?
(ニクス自身が言っていた)
―――本当、紹介所があって良かった。
―――仕事案内紹介所。あそこが今の仕事を紹介してくれたんだ。本当に良かった。
(キッドが一緒に会社を回った時、あたしに言った)
―――三階建て。実は、地下もあるんだ。個人情報を管理するために作った。
(ジェフが相談してきた)
―――地下室には、管理している書類が山ほどしまってあるのです。しかし、地震が起きるたびに片付けていては、人手が足りなくなってしまいまして。
―――そこで、新しい棚をいくつか用意しようと思います。地震対策にぴったりのものを。
あたしも大事だから、大切に管理するようにジェフに伝えた。
(個人情報の書類は、地下に管理している)
ニクスの書類も、存在する。
(あたしは、紹介所の社長)
(社長が地下室に行ったって、何も変な事は無い)
あたしは歩き出す。
(ただ、断りは一言、入れておくべきかも)
紹介所に向かって、足が動いていく。商店街から道を外れ、今日も行列の出来る仕事案内紹介所へと向かう。雪を踏み、道を歩き、建物の裏に回る。
警備員がぼうっとしている窓へ、かかとを上げて覗き込む。
「あの」
「おっと! こいつは! テリー社長! この間はパンご馳走様でした!」
「中入っていいですか?」
「どうぞ! ご自由に!」
警備員が扉を手で差し、後ろを振り向いた。
「ディラン! テリー様がおいでだぜ!」
「何! テリー様って、社長のテリー様か!」
「この間のパンは美味しかったな!」
「なんてことだ! 俺、テリー様にお手紙を書いたのに、部屋に忘れてきちまった! 俺の気持ちをパンパンに入れたお手紙だぜ!」
「馬鹿野郎! 男がお手紙なんて気持ち悪い真似をするな! 男は拳で語るんだ!」
「ブロック! てめえもたまには良い事を言うな!」
「俺はいつだって良い事を言ってるぜ! 名言男だからな!」
「ブロック、俺は拳で語るぜ!」
「一緒に名言ボーイになろうぜ!」
(迷言ボーイの間違いじゃないの…?)
頓珍漢な会話を聞きながらあたしは紹介所へ入る。エレベーターに乗り、下りて、所長室へてくてく歩き、扉をノックする。
「どうぞ」
「失礼するわ」
扉を開けると、ジェフが机の書類とにらめっこ中だった。あたしに一瞬視線を向かせ、そのまま険しかった表情を緩ませる。
「おお、これは、テリー様」
「Mr.ジェフ。折り入ってお願いがあるの」
中に入り、ジェフの机の前まで歩く。ジェフが首を傾げる。
「はて、いかが致しましたか」
「まず最初に言っておきたいのだけど、あたし、悪い事はしないわ。貴方の前では必ず良い子になるって約束する」
「何をおっしゃいますか。テリー様はいつだって良いお方です」
「Mr.ジェフ。今回だけでいいの」
ジェフがあたしの言葉に、きょとんとする。あたしは続ける。
「個人情報が見たい」
「…個人情報を?」
「ニクス・サルジュ・ネージュ。12歳。男。この子はここで登録して、今、ミセス・スノー・ベーカリーで働いてる。でもね、今日無断欠勤しているようなの。家には電話が無いようだから、住所が知りたくて。駄目なら、その部分だけでもいいから見せてくれないかしら」
「ほう、それはまた、突然」
「ニクスは友達なの。だから、その、……捜しに行くって、お店の人に言っちゃったのよ」
「ほほっ。大事な事です。クライアント様との信頼問題にも関わりますからな」
ジェフが立ち上がり、机を回り、あたしの傍まで歩き、あたしの肩を掴んだ。
「登録しているのなら地下に書類があるはずです。行きましょう」
「いいの?」
「ええ。もちろんです。何も問題はございません」
「本当?」
「貴女はこの会社の社長です。確認が必要な書類があれば見なければいけない立場におります」
「確認ね」
「その通り。確認です」
ふふっと、笑うジェフを見上げる。
「助かるわ。Mr.ジェフ、ありがとう」
「さ、行きましょう。こちらです」
あたしの背中を押して、道を案内する。所長室から出て、ジェフと共にエレベーターで地下まで移動する。
エレベーターの扉が開くと、薄暗い地下室に、書類を保管するための背の高い棚が広がる。一列、二列、三列とそれ以上の数の列が並び、数多くの書類が保管されていた。皆、履歴書や経歴書らしい。
(地下室なんて初めて見たわね)
「Mr.ジェフ、どう探したらいい?」
「ニクス・サルジュ・ネージュ、の最初の文字、『N』で探せば見つかるかと」
「なるほどね。ありがとう」
一歩、二歩、三歩、四歩、その列を進む。
(N、N、N…うわ、いっぱいありそう…。でも見つけないと)
ニクス・サルジュ・ネージュを確認しないと。
(さて、寝坊助さんの履歴書はどこに……)
「テリー様」
ジェフが、あたしを呼んだ。
振り向くと、ジェフの顔が、どこか深刻そうに暗かった。曇っている。なんとも言えない複雑そうな顔。暗い地下で、ジェフが、毅然と立ち、姿勢よく、じっと、エレベーターの前から、棚に歩くあたしを見る。
あたしは瞬きをして、足を止め、ジェフを見る。
「…Mr.ジェフ?」
「テリー様、私は貴女の部下です。この会社で働かせていただき、それはとても光栄に思っております。個人的な気持ちとして言えば、私はテリー様が好きです。貴女はとても可愛い。目を離せないほど。世話を焼きたくなってしまうほど」
ただ、
「私の『上司』は、貴女だけではない」
ジェフの目に、嘘はない。
「私はその方を尊敬し、敬愛しております」
正直、テリー様よりも。
「テリー様の事だって、大事です」
娘のように、愛しく思っております。
「だからこそ、その方が貴女をお守りするためだと言うのであれば、このジェフ、この行動のせいで貴女に怒られても、憎まれても、恨まれても、嫌われても、悔いはございません。全ては、大切なテリー様のためです」
――――その言葉で、あたしは確信した。
「ああ」
ジェフに微笑んで、頷く。
「大丈夫よ。Mr.ジェフ。あたしも貴方が好きなの」
「テリー様」
「あたし、貴方を恨んだりしないわ。まあ、腹は立つけど、それは貴方のせいじゃない」
暗い顔のジェフに、あたしは肩をすくめてみせた。
「そんな顔しないで。Mr.ジェフ。正直、ここに向かってる最中に思ってたわ。連絡が行くんじゃないかって。ここ数日の事は絶対に見られてるし、連絡が行かない方がどうかしてるって。だから、察しはついてた。そもそもここは、あたしの会社じゃなくて、『あいつ』が作った会社だから」
だから、
「絶対に近くにいる、とは、思ってた」
でも、
「やっぱりね」
こんな薄気味悪い地下にいるなんて、
「相変わらず趣味が悪いわね」
暗闇の中、あたしじゃない手が伸びた。
「キッド」
後ろから、ぎゅっ、と抱きしめられる。耳元で、くすっと、いやらしい、艶やかな、色っぽい笑い声が、吐息が、聞こえた。
「趣味が悪くて結構」
すりすりと、かがんだ頭をあたしの頭にすりつけてくる。
「捕まえたよ。テリー」
じろりと横目で睨むと、キッドは相変わらずにやけている。目が合えば、キッドがあたしの頭を優しくなでた。
「大丈夫。何も怖い事しないよ」
「こんな所に隠れてたくせによく言うわね」
「ふふっ、ジェフに頼んで正解だった」
「恐れ入ります」
ジェフが頭を下げる。
満足そうに微笑むキッドがあたしの顎を、長い指ですくい、クイ、と自分の方に見上げさせる。
「名探偵テリー殿。貴殿の名推理は合っている。連絡が来て、先回りしてたんだ。そう。お前がパン屋に行った時点でここに来るんじゃないかと思ってね」
あ。
「今日も髪結んでるんだね。素敵だよ。このポニーテール」
そう言って、あたしの髪の一束を掴み、キスを落とす。
「さて、名探偵殿に質問したい」
キッドが、あたしの髪の一束から手を離した。
「どうしてニクスの住所なんて、探してるのかな?」
「さっきの話は聞いてなかったわけ?」
「ニクスが無断欠勤してる?」
「ほら」
あたしはそっぽを向いた。
「そういうところが嫌なのよ」
「テリーの口から聞きたかったんだ」
「時間の無駄よ」
「くくっ。それはお前の方だ」
「何が」
「履歴書なんて探しても無駄だ。書いてる住所なんて無いんだから」
「……………え?」
「ニクスには住んでる家なんて無い」
(…は?)
きょとんと瞬きすると、ジェフが付け足した。
「ニクス殿に関して、キッド様が事前に調べておいでです。書いている住所に行かれたのですが、何も無かったとか」
「全く何も無かったね。家も人も何もない。ただの土地。ニクスは毎日別の場所で寝泊まりしてるらしい。空き家とか、屋根のある建物なら、どこでも」
あたしは眉をひそめた。
「……そんなはずないわ」
「そんなはずがあるんだ」
「馬鹿。ニクスが何のために働いてると思ってるの」
「生きていくため」
「そうよ。家賃や、食べ物代を稼ぐためよ。ニクスには体の弱いお父様がいて…」
「そもそも、その父親は半年前から行方不明なんだよ。職場にもいない。どこにもいない。元々住んでた家は売られていた。つまりね、テリー、ニクスは今、孤児同然なんだ。家の無い子供。親がいない子供。帰る場所の無い、たった一人の孤児だ」
よく半年間も持ちこたえられたものだ。父親がいなくなったニクスの日々は散々だったものだろう。家賃が払えず住んでた家を出て、ホームレスとなり、空腹の中、街を彷徨い歩いた。ただ季節が冬じゃなかっただけ救いだった。ニクスは街を出て、しばらく森で暮らしていた。その方が安全だったからだ。獣はいるが、狂暴な獣ほど臆病で、なかなか遭遇しないし、自分を傷つける人間はどこにもいない。だからずっと森にいられると思った事だろう。でも冬が来て、住めなくなって、ニクスはまた街に戻ってきた。
そして見つけたんだ。無料で仕事を紹介してくれるここに。
「ニクスは安定した生活を手に入れたと思いきや、仕事に行く前、仕事の後、必ずあの震源地に向かう」
そして、あのトンネルに入って、長い時間を過ごす。
「秘密基地に入り浸る子供の行動に思えるだろ? でもね、テリー、このなんてこと無さそうなニクスの行動。実はすごく不気味なんだ」
あの場所には、ちょっとした、不吉な話があってね。
「いつだったかな。あの場所は結構前に、隣町へ通じるトンネル工事が行われてた」
穴を掘り続けると、作業員が何かを発見した。それが不思議な鏡だったそうな。そして、その鏡を見た者は全員死に至った。
「まるで鏡に魅了されたように鏡を求めて、体が凍って、動けなくなり、死んでいった」
工事は中断された。
「原因解明のため、あそこは立ち入り禁止区域となった。……なのに」
ニクスは平気な顔で、その不吉な場所を行き来しているんだ。
「調べれば調べるほど、ニクスの行動はとてもおかしいものに思えた。危険なトンネルへ入って、平気な顔。氷の上で一人遊びする雪っ子だ」
だから、俺はニクスを観察する事にした。
そしたら、ニクスの生活は、まあ、大体だが、早朝はここで過ごして、その後は疲れ切った顔でパン屋で働き始めて、寝泊り出来る場所を見つけてから、震源地に帰ってくる。夜遅くまで、トンネルに入り浸って、自分の泊まる場所に移動する。そして朝になれば、またトンネルへ戻ってくる。
これが、見てきたニクスの生活だ。
「ニクスが留守の間、トンネルに調査隊を潜らせてみたんだが…」
これがまた、とんでもない事になった。
「全員だ。翌日から変な歌を歌いだして、ベッドから離れられなくなった」
「体が冷えて意識は朦朧」
「よく口走るんだ」
「鏡よ鏡よ鏡さん」
「なんて素敵な鏡さん」
「あなたが欲しい」
「鏡が欲しくてたまらない」
つまり、やっぱり、噂通り、あのトンネルの中には変な鏡があるらしい。工事現場の作業員達と同じ現象だ。鏡を求めて、体を凍らせて、死んでいった。調査隊は死んではいないが、今にも死にそうな人達で溢れている。
でも、ニクスだけは、平気な顔だ。
「そんな、ある日のこと」
不可思議なニクスが、見た事の無い嬉しそうな笑顔を浮かべて、誰かを連れてきたじゃないか。
「テリーだった」
一緒にスケートごっこを始めた。
雪だるまを作り始めた。
鬼ごっこを始めた。
かくれんぼを始めた。
雪合戦を始めた。
星を二人で見つめた。
子供がする遊びを震源地で始め出した。
ニクスは楽しそうに笑ってた。テリーといる間だけは、どこにでもいるような子供の顔だ。
「でも、それ以外のニクスは、とても暗い顔で歩いている」
「あれは普通の子供の目じゃ無い」
「何か隠してる気がする」
中毒者の可能性がある。
「ちゃんと理由が分かるまで近づくなって、忠告してあげたのに」
キッドの腕に力が込められた。
「お前は本当に、変な奴と関わるね。ある意味幸運の持ち主だ」
「……そこまで知ってて、何もしなかったのね。ニクスが熱を出したって、キッドはニクスを助けようともしなかった」
「ニクスを保護するべきだった? ね、もしもあいつが中毒者だったらどうする? 俺、犬死にだけはごめんだよ」
「ニクスは人を殺さないわ」
「中毒者は違う」
「もういい。わかった。お前はやっぱり最低よ。触らないで。離して」
「離してもお前の行くべき所は一つだ。駄目だよ。俺の話をきちんと最後まで聞くまで離してやらない」
「何よ。話にオチでもあるの?」
「ニクスが行方不明な件だ」
あたしがキッドを睨むと、あたしの顔を見たキッドが笑い出す。
「くくっ。お前が心配しなくても、もう捜してある」
「……いたの?」
「俺のお手伝いさんは実に優秀だ」
テリー、どういう仕掛けか知らないか?
「ニクスが消えたり現れたりする」
「…何それ」
「雪の中を移動しているみたいに、あっちにいて、こっちにいて、ここにいると思ったらそっちにいる。どうも説明がつかないくらいおかしくてさ。どういう魔法なのかと思って」
「…………」
「偶然だって言いたいだろ。でも、だったら、そうだな。例えばここにいるテリーが、三秒後にはお前の屋敷に戻ってるんだ。その三秒後には東区域の美味しいアイス屋さんにいる。ニクスは、そういう移動をしてるんだよ。説明出来ない移動の仕方だ」
ニクスが雪を操っているように。
「そして、その果てにニクスは現れた」
場所は、
「震源地」
約束しているその場所に。
「今、ニクスがいる」
ニクスは立っている。
(……何のために?)
ニクスはあの場所で、何をしている。
(ニクスはいなくなった)
(確かに消えた)
ニクスは約束を破った。
(どうして?)
―――――――地面が揺れ始める。
「っ」
はっと上を見上げる。キッドが目玉をぐるりと動かした。
「おっと、これはまずい」
「キッド様!」
ジェフの呼ぶ声にキッドが振り返り、あたしの体から手を離し、代わりにあたしの手を掴んだ。そのままぐいと引っ張って、棚の無い位置まで走り出す。あたしの足が躓きそうになるが、お構いなしにキッドがまたぐいと引っ張って走りこむ。ジェフが腕を広げ、突っ込むように走ってきたキッドと、引っ張られたあたしを抱き止めた。
棚が揺れ、倒れる。書類がばらける。地面が揺れる。ジェフとキッドとあたしが座り込む。地下が揺れる。すさまじい音が響く。あたしは耳を塞ぐ。ジェフの手があたしの肩を抱きしめる。キッドが黙って何かを考える。あたしも考える。
思い出す。
(揺れてた)
確かに揺れていた。
(約束の日)
一日中、すごく揺れてた。
(被害はそんなに無かったけど)
でも、小刻みな揺れが、一日中起きていた。
(だから心配だったのよ)
ヴァイオリンを抱えながら、窓を見つめてた。
ニクス、大丈夫かな。
そんな事を呟いたあたしが、確かにいた。
揺れが引いた。
倒れた棚を見て、ばらけた書類を見て、ジェフが顔を引き攣らせた。
「……本日は、地下での業務になりそうですな……」
「Mr.ジェフ、バレなければ、整理は何日かかってもいいわ。あたしが許すから」
「新しい棚を早く発注するべきでした…」
『キッド様!』
機械音がする。キッドがコートのポケットから小型の機械を取り出し、それに声をかける。
「どうした?」
『ニクス・サルジュ・ネージュが』
あたしの目が見開かれる。キッドが微笑む。
『…あの…』
あたしとキッドは機械を見つめた。
『今、地震が起きたタイミングで…その…』
声が、ためらいがちに、しかし、ぐっと、絞り出すように、声を出した。
『浮かびました』
キッドが眉をひそめた。
「ん?」
『ニクスが浮かびました。…宙に』
「は?」
「ん?」
「え?」
キッドと、ジェフと、あたしの瞬きのタイミングが、重なる。
『宙に浮かび、空高く浮かび、ゆっくりと下りてきて、そのまま、その、着地して、何か叫んでいます』
「空中に浮かんだニクスはなんて?」
『我々が聞こえる範囲では、落ち着いて、と』
「…落ち着いて…? それは誰かに言ってるの?」
『いいえ、誰もいません。誰もいないのに叫んでいるのです』
「ああ、正常じゃないな。了解。向かうよ」
キッドが通信を切り、ポケットにしまう。そして、大袈裟に頭を押さえた。
「ああ、なんてことだ! ニクスが魔法使いになってしまった! 空を飛んで、この国を支配する気だ! そうだ。ニクスの保護者を呼んで説得してもらおう。ああ、なんてことだ! 駄目だ! ニクスの父親は行方不明。母親は楽園だ。ということは、生きてる人間で、ニクスを説得出来る人を探さないといけない! なんてことだ! ああ、困った! 困った!」
キッドが頭から手を離した。その顔はにやけている。
「ああ、ここにいた」
あたしの手を握り締める。
「ニクスの良き理解者が」
話のオチだ。
キッドがあたしに微笑む。
「来るだろ?」
あたしは頷く。
「もちろんよ」
「よし、来た。おいで。救世主」
あたしはキッドの手を強く握り返した。




