第14話 熱にうなされて
「ママもアメリも死んだわ」
あたしは汚い雑巾で台を拭く。
「次はあたしよ」
目は虚ろ。
「そんなに虐めないでよ。どうせ死ぬんだから」
「自業自得じゃない」
イザベラが冷たい声で言い放つ。
「人にやったことが自分に返ってきただけ」
「あたしが何やったって言うの?」
「人の命を奪った」
「……あたしのせいじゃない」
「ベックス一族は、命だけじゃない。多くの者達から奪い、苦しめた。あんたはね、呪われて当然なのよ」
あたしよりも高さも横もでかいイザベラが、あたしの目の前に立ち、あたしを見下ろした。
「呪われちまえ」
言ってくる。
「さっさとくたばっちまえ」
汚い雑巾をあたしに投げた。
「掃除はおしまい。片付けはあんたがやって。いいでしょ? どうせ死ぬんだから」
イザベラが作業部屋から出ていった。あたしは――どうしようもない怒りに、拳を握った。
(*'ω'*)
……美味しそうなスープの匂いがする。
(でも今は飲めないわ。食欲が無いの)
影があたしに近付き、優しい手であたしの頭を撫でた。
「テリー、起きて」
(何よ。まだ就寝時間でしょ? 寝かせてよ……)
「テリー、薬飲まなきゃ」
(……うるさいわね。誰よ)
無理矢理瞼を上げると、光があたしの目の中に入ってきて、顔をしかめた。
(うっ)
誰かがあたしの額に手を置いていた。
(……ん……?)
なんて温かい手なのかしら。
「テリー、おはよう」
目を凝らせば、どんどん焦点が合っていく。そして、あたしの目の前にいるのは、綺麗なドレスに身を包んだ、あたしの――親友。
(え?)
待って。だって――お前は――いなくなったんじゃ――、
「大丈夫?」
違う。彼女はいなくならなかった。あたしがいなくならないように未来を変えたから。手を伸ばせば触れられる。黒い髪の毛はお洒落にまとめられている。お姫様みたいにキラキラして、とても綺麗になったあたしの親友。
「……ニクス……?」
「久しぶり」
「……」
「体調崩したんだって? メニーから聞いたよ」
ここは冷たい牢屋ではない。暖炉で温かくなった部屋。ドアの前には、メイドのサリアが立ち、あたしは、囚人ではなく貴族のお嬢様。
「クルーがスープを運んでるのを見かけたから、ついてきちゃった。ほら、ちゃんと食べて、薬飲んで休まなきゃ」
「……」
「起きれる?」
ニクスに肩を借りて上体を起こし、――真っ直ぐ、親友を見つめる。
「……ニクス」
「ん?」
「こわい……ゆめをみたの」
既にニクスが死んでいて、あたしはただ死刑を待つだけの、絶望しかない未来の夢。
「……いま……かぜひいてるし……。……。……いっしゅんだけでいいから……」
両手を差し出す。
「……だきしめて……くれない……?」
「いいよ。いくらでも抱きしめてあげる」
ニクスが無邪気に笑ってあたしを抱きしめた。背中を撫でる手が、とてもとても温かい。そして、それが離れる事はない。
「その夢は怖かった?」
「……ずびっ、すごくこわかった」
「じゃあ、次に見る夢が良い夢になるよう、おまじないをかけてあげる」
ニクスがあたしの額に近づき、唱えた。
「痛いの、痛いの、飛んでいけ」
そして、あたしに優しく唇を押し付けた。……柔らかい。
ニクスがあたしの額から離れ、また笑顔になった。
「さっきね、アリスに会ったんだ」
「……そう」
「しばらくラウンジで話しててさ。明日一緒にスケートで遊ぶ約束をしたよ」
「……アリスと、仲良くできそう?」
「うん。アリスってお喋りで、あたしは喋るの苦手だから、結構相性は良いと思うんだ」
「……それなら、……よかった」
親友と親友が仲良くなるのは、あたしにとって嬉しいことだ。頬を緩ませると、ニクスがトレイ事あたしの膝に乗せた。
「ほら、心配はないから、テリーは栄養つけて」
「……うん。……ニクス」
「ん?」
「……ありがとう」
「どういたしまして。はい、食べて」
「……うん」
あたしが大人しくスープを口につけ始めたのを見て、サリアが安堵の息を吐いた。
「ニクス、助かったわ。お嬢様ったら、渡しても全く食べなくて」
「テリー、駄目じゃない。サリアさんが面倒見てくれてるのに」
「……食欲ないんだもん」
「聞いたよ。昼間はそんな状態で船を歩き回ってたんだって?」
「……ちょっと……うんどうしてただけよ」
「ソフィアさんを襲ってたって」
「あれはちがう」
「ふふっ! とにかく、無理しちゃ駄目だよ」
ニクスがあたしの頭を優しく優しく撫でてくれる。……でへへ。
「今休まないと、カドリング島で遊べなくなっちゃう」
「……そうね。せっかくの水着が使えないのは勿体ないわ」
「テリーの水着姿は、さぞ可愛いことだろうね」
「……ニクスのみずぎすがただって、……かわいいにきまってる……気がする……」
「うん。水鉄砲で遊ぼうね」
「……うん」
「でもさ、本当にこの時期、海に入っても大丈夫なの?」
「……島までいけば、あつくなるから」
あたしはサリアを見た。
「このじきなら、もう、そうよね?」
「ええ。行く途中はとても寒いですが、島の範囲に入った途端、着ていた服を一気に脱ぎたくなるくらい暑くなります」
「そんなにですか?」
「あの島、ちょっとかわってるから」
「そっか。なら気温の心配は無さそうだね」
これも不思議な事だ。島の一定の範囲に入った途端に暖かくなるのよ。それまではすごく寒いのに。その範囲に入りさえすれば、この時期だと、まるで夏がやってきたかのように暑くなる。だから氷山なんて存在しない。
島の範囲に入る前に、沈没事故が起きてしまった。
(……双眼鏡は渡したし、今は、……まだ大丈夫)
ちら、とニクスを見る。ニクスが首を傾げた。
「ニクス」
「ん?」
「……しょくじがおわったら……まただきしめてくれる?」
「うん。いいよ」
「……あたし、かぜ、ひいてるけど……」
「マスクすれば大丈夫だよ」
「……」
「でも、ちゃんと食べてからね」
「……ん」
だったらと、あたしはもぐもぐと野菜を食べ、スープを飲みこむ。丁度いい量だったわ。ご馳走さまでした。
「テリーお嬢様、お薬を」
サリアに玉の薬を渡され、あたしはうんざりしながら飲みこむ。うう。慣れないわ。この異物が喉を通る感じ。水で一気に流し込む。おえ。誰がこんな形の薬開発したのかしら。信じられない。あたしはニクスに愚痴を吐いた。
「ニクス、あたしね、……たまのくすりがきらいなの。ニクスは?」
「え!? そうだったの!? 奇遇だね!」
「え?」
「ふふっ! あたしも玉の薬、苦手なんだ。飲み込むのが下手くそでさ」
「……っ!」
あたしは目を輝かせて、運命を感じて、サリアに胸を上げてみせた。
「ほら! サリア! あたしだけじゃないわ!」
「わかりましたから、もう寝てください」
「だめよ!! ずびっ! まだニクスにだきしめてもらってないもん!」
きらきらした瞳でニクスを見つめる。
「……だめ?」
「はいはい」
ニクスがあたしを抱きしめてきて、あたしの体が力んだ。きゃっ! 親友にハグしてもらっちゃった! あったかい! 匂い嗅ぎたい! 今だけマスクを外してもいい? 駄目? ……チッ。ずびび。……はあ、あったかい。すりすり。ふう。久しぶりのニクスだわ。ニクス。……ニクス……。……好き……。あたしの親友。……すりすり。
「ほら、テリー。もう寝ないと」
「ニクス……」
温かいシーツと、ニクスに体を包まれて、あたしの心がとても安らかになって、うっとりする。ぎゅっと抱きしめているうちに、すごく安心して、すごく落ち着いてくるものだから――つい、うとうとしてくる。ニクスがクスッと笑い、あたしをゆっくりとベッドに寝かせ、頭を撫でるついでに前髪を退けさせ、あたしの頬を優しく撫でた。見つめてくる目がまた優しいから、あたしも甘えたくなって、ニクスを見つめる。
「……ねえ、ニクス」
「ん?」
「そのドレス、すごくすてき」
「ふふっ。ありがとう。この間の誕生日にテリーから送ってもらったものだよ」
「……しってる」
船に乗る事を聞いてたから送ったけど、あたしの勘は合ってたみたいね。すごく似合ってる。いつまでも綺麗なニクスを見ていたいのに、ニクスがすごく優しい手で、ママよりもママみたいな手で撫でてくるものだから、ついつい目がとろけてきてしまう。
「ニクス……」
「うん。テリーが寝るまでいるよ」
「……手、……にぎって……」
「いいよ。握ってるから」
瞼を閉じる。意識がふわふわしてくる。けほけほっ、と咳をした。また深く深呼吸をした。寝たいのに眠れない感覚。夢の中と現実の間をふわふわ浮いてる状態。手に力を込めたらニクスの温もりを感じる。ニクスがちゃんとあたしの手を握ってくれている。それがやっぱり、とても安心して、あたしは脱力して、深呼吸をした。次第に呼吸が整ったリズムを刻んでいき、――サリアがニクスに声をかけた。
「……ニクス、どうもありがとう」
「いいえ。あたしもテリーと会いたかったので」
寝てるはずなのに、あたしの耳にサリアとニクスの声が聞こえた。
「メイドの時も、生理になったらこんな風に寝込んじゃって……」
「迷惑をかけたわね」
「友達って、時に迷惑を掛け合って、助け合うものですから」
「お嬢様がニクスに会いたがっていたの。来てくれてありがとう。本当に助かったわ」
「こんな状態で歩いてたって聞いて笑っちゃいました。テリーって変わりませんね。昔から何かと無理ばかりして……」
「少しは痛い目を見ればいいのよ。ちょっと目を離した隙にいなくなってるんだから」
「ふふふっ。それも、昔からなんですか?」
「ええ。あなたと出会う前から、ずっと。……出会った頃はもっと酷かったけど」
「それは、……すみません。あたしのせいですね」
「抜け出し癖はどうにかしないといけないわね。ニクス、何か良い提案はある?」
「あたしからも言っておきます」
「そうね。それが一番いいと思う」
「あはは……」
「部屋まで送っていくわ。ここは広くて迷子になりやすいから」
「ええ、それは……良かった。すごく助かります。……ここ、マールス宮殿よりも道が複雑で、何度迷ったことか……」
ニクスの気配が近くなる。と思えば、あたしの耳にニクスの囁き声。
「じゃあね。テリー。良い夢を」
ニクスの手が離れた。気配が遠くなり、布が擦れる音が聞こえ、……ニクスの靴の音が聞こえた。
「テリーのマスク、可愛いですね。あれ、どこで見つけたんですか?」
さん、に、いち。
「診療室でしょうね。ふふっ。ニクスも貰いに行く?」
「うふふ! マスクをした状態じゃ、氷の上で踊れませんよ」
ドアが閉められた音が聞こえた。部屋が静かになる。
「……」
しーん、という音が耳に入る。
「……」
――幻聴が聴こえてくる――。
わー! 氷山だー! がちゃーん! わー! 船に当たったぞー! 大変だー! マーメイド号が沈むぞー! きゃー! 女、子供を優先して救助ボートに! 崩れるぞー! 助けてー! ママ、パパが! あなたー! ハニー愛してるよ! ダーリン! いやぁー!
死体が浮かぶ海。餓死する人々。凍死していく命。これも全て、この船の持ち主、ベックス家のせいだ!
「わたくしはベックス家に長年勤めておりました。しかし、生活は、それはそれは酷いものでした。今までも沢山の者達の話を聞いていただいたかと思いますが、最後に、わたくしの不幸なお話を、聞いてやってはいただけませんか」
「ひゃっ!!!!!!!」
あたしは飛び起きた。
(裁判が始まるわ!!)
あたしは辺りを見回した。
(ここはどこ!?)
船の中。
(ふ、船!? どうして!? 一体なんだっての!?)
あたし達、リンゴを盗んだだけで、海に沈められて、魚の餌食になるの!? そんなの絶対嫌よ!
「だ、だれか、たすけて!」
鏡に映る自分と目が合う。
「っ」
16歳のあたしがいる。
「……」
その姿を見て、一気に記憶の整理をし、冷静になったあたしは深く溜め息をつき、頭を掻いた。八月が訪れれば、あたしは17歳になる。
(こんな所で呑気に寝てる場合じゃない。時間は無いのよ)
窓を見れば、日が沈みかけている。
(さっきニクスが部屋に来たのは夢じゃないわよね?)
棚の上に、空になった皿が乗ったトレイが置かれている。
(……さっきの会話があたしの幻聴でなければ、サリアはニクスを送ってる最中ね)
サリアが戻ってきたら部屋からはどんな事があっても出られないだろう。あたしは病人で、サリアはあたしの看病をしなければ。……休むか、出るか。出るなら今しかない。
(ゆっくり寝ていたいところだけど……キッドもリオンもいないんだから、あたしが動かないと……あれ?)
双眼鏡はどこだ。
(首に下げてたはずなのに……!)
あ。
(そういえば、ソフィアに外された気がする。……あいつの部屋か。……くそ。あの女、勝手なことしやがって……! こうなったらマスターキーであいつの部屋に無断で入って、ついでに見られちゃいけないものがないか探してやるわ! ベッドの下にエロ本隠してたら、それをネタにみんなで指差して笑ってやるから! そうと決まれば!)
あたしはベッドから抜け出し、……着替えることは諦め、ネグリジェの上から上着を羽織り、ポーチバッグは持たず、お金をポケットに忍ばせ、バンダナを頭の上で結んでウサギ耳を作った――瞬間、揺れる視界。
(あーん! 目眩がーー!)
あたしはテーブルに寄りかかる。
(あたし、なんて可哀想なの! ここまで具合が悪いのに、見回りに行かないといけないだなんて!)
涙が出てきたわ。あたし、我慢出来ないの。だって長男じゃなくて次女だもん! 女の子だもん!! およよよ!! あたし、すっごく可哀想!! 悲劇のヒロインだわ! ああ! 世界で一番可哀想!! あたしったら、頑張り屋さんなんだから! 無理はしちゃ駄目! でも、無理しないとこの船が沈んじゃう! あーーー。もういやーーー。
「……」
そうだ。ドロシーを呼ぼう。薬無しでも体調を緩和するくらいの魔法なら知ってるに違いない。だってあいつは魔法使いだもの。よし、楽にしてもらおう。あたしは手を叩いた歌った。
ドロシーちゃーん。可愛い可愛いドロシーちゃーん。
「でておいでー!」
……。誰も現れない。
「チッ!!!!」
あたしは舌打ちをして、床を蹴って、勢いのままドアを開けた。
(畜生! 一通り見て回ったら朝までぐっすり寝てやる! サリアの説教も聞けないほど寝てやるんだから! もう、ぐっすりよ! ぐっすり!)
マーメイド号ツアーミッション、噂のトラブル箇所巡り。その三。
あたしは廊下をずかずか歩いていく。
(石炭倉庫はどうなってるかしら。見張り番がじゃれ合って双眼鏡を落としてないかしら。まさかという展開がこの船には待ち構えてる。キッドもリオンもいないんじゃ、あたしが見るしかない)
あいつら、城下町に帰ったら覚えておきなさい。
(とは言え、あたしこんな状態だし、一人だと心配だわ。手の余ってるクルーはいないかしら)
昼間に行ったスタッフルームのドアを開けて、中に入ってみる。誰かいませんか? と思って見回すと――マチェットが明日の予定を確認していた。目が合ったが、マチェットは気にせずカレンダーにペンで赤丸をつけた。
「こんばんは。社長の娘様」
「っくしょい! ……こんばんは。マチェット」
中に入って彼を見上げる。
「あなたいつでもここにいるのね。ひまなの? ひまなんでしょ。そうなんでしょ?」
「マチェットはようやく取れた休憩時間です。昼の分も含めた」
「じゃあこのあと、きゅうけいじかんをついかしていいわ。げほげほっ。ついてきてほしいの」
「他のクルーに頼んでください」
「あなたしかいないじゃない」
「ええ。昼の分も含めた休憩を取ってますので」
「だからその分、ついかしていいから」
「……今回はどのようなご用件ですか」
「マチェット、とけいをごらんなさい。もう18時よ」
「はあ」
「ふねのけしきがいろいろかわってるわ。げほげほっ。ほら、あたし、しゃちょーの娘だから、はっくしゅん! トラブルがないか見てまわろうかとおもいまして」
マチェットにアルコールスプレーを発射された。
「ぎゃっ!」
「お顔色が悪いのでお戻りください」
「なによ、まだもってたの。それ? やめてよ!」
「首にも傷があるようですし」
「……くびにきずですって?」
あたしは近くに置いてあった鏡を覗いてみた。
(……何これ。虫刺され?)
ちょっと嫌だ。何これ。どこでついたのかしら。
「さいあく。はっくしゅん! ねえ、ばんそうこうない? やだ、でんせんびょう? ほんとうにやだ。きもちわるい」
「……」
マチェットがあたしから一歩離れた。あたしはむっとしてマチェットを見る。
「ねえ、だいじょうぶよ。げほげほっ。あたし、ほんとうにただのかぜだから」
ぷしゅ!! また発射された。
「わかった。あるていど見てまわったら、まっすぐもどるから! げほげほっ!」
「どちらに行かれるおつもりですか」
「ひるまとおなじルート」
「またボイラー室に行かれるおつもりですか?」
「せきたんそうこは、かさいがおきやすいのよ。げほげほっ。なにかあってからじゃおそいの」
「お言葉ですが、何の為にボイラー員がいらっしゃるとお思いで? そういったトラブルが起きても処理出来るようにです。あなたがいなくても、彼らで何とかするかと」
「げほげほっ! もう、おかたいこと言わないの!」
絆創膏を首に貼り、ついでにセキュリティルームに指を差す。
「それと、しりあいのへやにもいきたいの。へやばんごうを調べてくださらない? ソフィア・コートニーよ」
「その方があなたの知り合いという証拠は?」
「……げほげほっ。あたしがうそをつくとでも?」
「社長の娘様と言えども、証拠がないのであれば対応出来ません。もしもそれでトラブルがあった場合、クレーム案件になりかねませんので」
「だいじょうぶよ。ほんとうにしりあいだから」
「いけません。クルーはルールに従順です。マチェットはそう教えられてきました。あなただけ特別扱いは出来ません」
(……頭硬いわね……)
「ついていく事でしたら可能です。その代わり、あまり人の多い場所には行かないようお願いします。あなたはまだ風邪が治っていないようです」
「……わかった。それならついてきてくれるのね」
「ええ」
「じゃ、それでいい」
(くそ。ソフィア、命拾いしたわね……)
あとでメニーに頼んで双眼鏡は回収してきてもらおう。くそ。
マチェットがマニュアルをジャケットの内ポケットにしまった。
「行きましょう」
「ええ。げほげほっ」
マチェットを連れて、再び暑くて賑やかなボイラー室にやってくる。ああ、昼間と変わらずここはいつでも熱いのね。
(……ん?)
ボイラー員たちが数人集まって、何か話し合っている。
「春が近付いてるとはいえ、氷山があるかもしれません。一度スピードを落としませんか」
「うむ……」
(……何? どうしたの?)
あたしはボイラー員たちに近付いた。
「こんばんは」
ボイラー員達があたしを見て眉をひそめた。昼間話した男があたしに近付いてくる。
「ああ、どうも。お嬢様」
「……ずびっ。なにか?」
「あんたには関係ねえ」
「でも気になるわ。どうしたの?」
「あー……」
「おい、そんな娘に話しても時間の無駄だ」
「お嬢さん、ここはあんたが入って良い所じゃないよ」
「おい、口に気をつけろ。社長の娘だ」
「おっと、そいつは」
「失礼しました」
「……名乗ってなかったな。ウェイドだ。……倉庫で火災が起きた」
「げほっ。しぜんかさい?」
「ああ、まあ、すぐに消えたが、……あれだけ積まれていたら火災くらい起きて普通だ。で、今後の方針として、一旦、船の速度を下げるか、このままでいくかを考えていたところだ」
あたしは石炭倉庫を覗いた。
「……ねんりょうは足りそう?」
「何も考えなければ余裕だ。だが、船にはもしもがつきものでね」
「だれかに言った?」
「あんたが初めてだよ。お嬢様」
「けっこう。なら、げほっ、夜はスピードを下げて。ずびっ。その人も言ってたけど、夜はまわりが見えづらくなるし、とけきってない氷山も、ひるまに、はっけんされてるわ。げほげほっ、いつ霧が出てもおかしくないし、なにかあってからじゃおそい。……ねんのためよ。上の人に怒られたら、しゃちょーのむすめのテリーって女に、そう指示されたって言っていいわ」
「そうかい。ならそうさせてもらうよ」
ウェイドが大声を上げた。
「聞け! 夜は速度を落とす! おい! 作業中断! 速度を落とすぞ!」
あたしは他のボイラー員に顔を向けた。
「そうこのかべにこげた跡はない?」
「ほんの少しだけ。だけど、船ではよくある事です」
「かべがもろくなってる可能性があるわ。ごほん! なにか、強制できるのであれば、お願いしたいんだけど」
「整備の奴らに伝えておきます」
「ええ。お願い」
(……危ない。様子を見に来て損はなかったわね)
くらりと目眩がした。
「……。マチェット、出ましょう」
「はい」
あたしとマチェットがエレベーターに戻った。
(ああ、怠い……)
様子を見るのはいいけど、歩くのがしんどすぎる。車輪のついた椅子はない? このマチェットに押してもらって進むなら、あたし、ちょっと遠くでも行ける気がする。あ、でもレストランは駄目よ。想像しただけで吐きそう。
(……夜の船か)
どうしよう。このまま部屋に戻って休もうかしら。
(初日から何かあるとは思えないし……)
あたしは考える。
本当に休んでいいの? キッドもリオンもいないのよ。
大丈夫。ドロシーがいるわ。催眠の力を持つソフィアも、……最悪、魔力を持つメニーもいる。リオンがいないとはいえ、彼から配属された騎士も兵士もいるらしいし、ちょっとくらい休んでも大丈夫じゃない? あたしはね、心配しすぎなのよ。休んでも大丈夫よ。多分。
「……」
屋敷で休んだ結果、この船は沈んだ。あたし達は破産した。罪人になった。
今回もそうなったら、
あたしはクレアを失う。
「マチェット」
「はい」
「あたしとデートしない?」
マチェットがゆっくりとあたしに振り返った。とても怪訝そうな顔をしている。
「あたし、ほら、こんなたいちょうでしょう? げほげほっ。いろいろ見てまわりたいけど、こんなんじゃいつたおれてもおかしくないわ。ずびっ」
「……部屋に戻られては?」
「クルーのあなたがいればたおれても平気でしょ。しんりょうしつにはこんでくれたらいいんだもの」
「はあ」
「もくてきちは、みはり台よ。っくしゅん! ずびびっ! でも、ずびっ、そこに行くまでに、ちょっとだけいっしょにぐるっと見てまわってあげてもいいわ」
「いえ、結構です」
「おほほ。えんりょすることないわ。ずびっ! そうよね。あたしみたいな美人とデートだなんて、ずびっ。さすがのあなたも謙虚になるわよね。げほげほっ。でも気にしないで。あたし、今すごく気分がふわふわしていて、あなたといっしょにいても苦じゃないの。というわけで、デートしてあげるわ。かんしゃして」
「いえ、結構です」
「だいじょうぶ。ママにはひみつにしてあげるから」
「いえ、結構です」
「さて、どこから行きましょうか。あら、たいへん。あたし、パンフレットをへやにわすれてきたみたい。げほげほっ。マチェット、下の階からいきましょう。そうね。バーがいいわ。あたし、大人なふんいきのバーに行きたい」
「……」
「ね、バーにつれてって。げほげほっ」
「……その姿で歩かれるおつもりですか?」
「もんだいないわ。げほげほっ、レディのパジャマすがただなんて、あなたのようなかたぶつならそうそうおがめないでしょ。はっくしゅん! はあ。ほら、見ていいわよ。需要あるわよ。げほげほっ。このリボンとか、フリルとか、かわいいでしょ。ぬいぐるみやまくらをもたせたくなるでしょ。あたし、かわいいでしょ。げほげほっ! ぶあっくしゅん!」
「……三十分だけにしていただけますか。長居は禁物です。あなたが菌を撒き散らすのを最小限に抑えたいのですが」
「マスクしてるからへいきよ」
「……本件、マチェットがお受け致します。……バーまでご案内します」
エレベーターが止まり、ドアが開いたが、マチェットの大きな溜め息と共にドアが再び閉じられた。




