第17話 ハロウィン祭(1)
こんこん、と音が鳴った。
扉が叩かれているような音。
もう朝かしら。でも、目覚まし時計の音は鳴ってない。
あたしは許される限り、眠ることにした。
すやあ、と深呼吸する。
扉が開いた音が聞こえた気がした。
「ニコラ、朝だよ」
あたしは眠る。足音が近づいた。
「ニコラや、起きなさい」
肩を揺らされる。あたしは眉をひそめ、掠れた声を出す。
「……まだ寝る……」
「起きなさい。遅刻するよ」
「……目覚まし時計は……まだ……鳴ってない……」
「時計は壊れただろう?」
「……あ、そうだ……」
あたしはうっすらと瞼を上げる。
「壊れたんだった……」
「今日は早いのだろう? 顔を洗っておいで」
「……ふああ……」
欠伸をして、伸びをしながら起きる。目を擦る。
「……仮装の用意しないと……」
「食べてからにしなさい」
「はい……」
頭を掻きながら、ベッドから抜ける。何も手入れしないまま部屋からじいじと出て、廊下を歩き、階段を下りて、リビングに行く。テーブルには朝食が既に置かれていた。
「軽いものにしておいたよ」
(流石だわ。じいじ。サラダとスクランブルエッグ。……美味しそう)
先に顔を洗いに洗面所へ行く。蛇口をひねって、水を手の中いっぱいに集めて、顔にあてがう。
(……冷たい)
タオルで顔を拭き、棚に戻す。洗面所から出てリビングに戻り、椅子に座る。
「……いただきます……」
ぼんやりしたまま食べる。じいじが焼いてはちみつをつけたトーストを皿にのせて、あたしの前に置いた。
「今日は忙しくなりそうだのう」
「……今日でバイトも最終日だわ。……明日には帰れる」
「ああ。ニコラとして最後の日じゃ」
じいじが微笑み、頷いた。
「頑張るんだぞ」
「……はーい……」
(ああ、顔洗っても眠い……)
ふわあ、と間抜けな欠伸。
「……仮装の服がね、動きにくそうなの」
「いつから用意していたんだ?」
「ソフィアに貰ったのよ。ちょっと前に」
「何を着るんだい?」
「あとで見せる」
もぐもぐとよく噛んで、食べていく。
「ご馳走様でした」
皿を洗面台に運び、再び洗面所に行き、歯を磨く。口の中が泡だらけになる。
(あ……、そういえば)
鏡を見て、思い出す。
(キッドとの賭けも、今日だった)
キッドの仮装を見て、悲鳴をあげたらキスだっけ?
(はっ)
鼻で笑い飛ばす。
(メニーもリトルルビィもあたしが負けてキッドに屈すると思ってるようだけど、あたしはそんなに簡単な女じゃないのよ)
今日こそ、あたしという人間を見せる時。
(あたしはキッドに勝って、今日のハロウィン祭を充実させるのよ。頑張れ、あたし。ファイトよ、あたし)
目が覚めてきた。口の中の泡をぺっと吐き出す。あ、と口を開けてみる。歯が輝いてる。
「よし」
洗面所から出て、上に向かう。階段を上って、自分の部屋に戻り、クローゼットを開けた。
「猫のお化けだっけ?」
クローゼットから衣装を取り出し、見つめる。
「……はあ」
完全にソフィアの趣味ね。
寝巻を脱いで、下着をつけて、キャミソールを着て、上から着ていく。猫耳のついたフードを被り、手袋をつけて、短いカボチャパンツを穿いて、太ももまである靴下を履く。尻尾が揺れる。
(あ、これも渡されたんだっけ)
首に小道具。鎖がぶら下がる首輪。鏡を見る。
(……まじで猫みたい……)
ブラシで髪の毛を整え、素敵なおさげにして、耳にはニクスのピアスを輝かせる。
「よし」
あたしはリュックとジャケットを持つ。
「これでいいわ」
ミックスマックスのストラップと帽子が揺れるリュックを肩にかけて、部屋を出る。一階に下りる。じいじがあたしの仮装を見る。呟いた。
「……ソフィアが好きそうじゃのう」
「じいじもそう思う? あたしもそう思うのよ」
上からジャケットを着る。
「今日寒いかしら?」
「さっき見てみたが、とても晴れていて暖かかった。だが上着は持って行った方がいいだろうな」
「じゃあ、持っていく」
リュックを背負う。
「行ってきます」
「馬車に気を付けての」
「はい」
リビングから出て、廊下を歩き、玄関に行く。扉を開ければ、ぶわっと外の風が吹いた。じいじの言っていた通り、青空が広がっている。紅葉が舞い、木が赤くなり、黄色くなり、草は枯れかかっているが、緑を保っている。
(……晴れて良かった)
ゆっくり歩いて広場に向かう。足を動かして、一本道を進み、建物が見えてきて、入って、建物を進み、人が歩いていて、道を進み、人とすれ違い、広場に入って、噴水前に行く。街から見える時計台の時計は、9時35分。
街には、既に仮装をする人々がにぎわっていた。
噴水の前にいるはずのリトルルビィを探す。
(どこかしら?)
きょろりと見回す。辺りは仮装した人々が歩いている。
(どこだろう?)
きょろりと見回す。少年が歩いている。
(ん?)
少年があたしの前にやってくる。
「え」
赤い目がぽうっとあたしを見つめている。あたしは少年を見つめる。リトルルビィを見つめる。
「……びっくりした」
「私も」
作り物の斧を持ち、帽子を被り、じいじのようなオーバーオールを身に着け、いつもの長い髪の毛は帽子の中に隠されていた。遠目で見れば、本当に少年のよう。
「テリー、猫なのね!」
リトルルビィの頬が赤く染まる。
「可愛い!」
「あんたは」
あたしは首を傾げた。
「かっこいい、でいいのかしら」
「うん!」
リトルルビィがくるんと回って見せた。
「かっこいいでしょ!」
斧を構える。
「かっこいいでしょ!」
「何の仮装?」
「木こりのお化け!」
「木こりは幽霊じゃない?」
商店街に向かって、一緒に歩き出す。
「テリー! 尻尾が揺れてる!」
「誰それ」
「ニコラ! 尻尾が揺れてる!」
ゆらゆらゆらゆら。
「可愛い!」
太もも。
「絶対領域!」
リトルルビィが目を輝かせる。
「可愛い!」
「露出が多そうで少ないのよね」
「可愛い!」
「はいはい。あんたも可愛い」
頭をぽんぽんと撫でる。リトルルビィがへへ、と笑うと、前から商店街の人とすれ違う。
「ああ、おはよう、二人とも!」
「おはようございます!」
「おはようございます」
商店街の中に入れば、仮装した人々が声をかけてくる。
「よお、二人とも!」
「スタンリーさん! おはようございます!」
「おはようございます」
「ニコラちゃん、ルビィちゃん、おはよう!」
「エリサ、おはよう」
「おはよう!」
「まあ、可愛い! 猫ちゃんときこり君ね!」
「えへへ!」
「エリサは?」
「雪の女王よ!」
「おはようございます!」
「よお、ハリー」
「おはよう、ハリー」
「あら、ハリー、……何の仮装?」
「魔法使いさ!」
「貴方、額にそんな傷なんてあったっけ?」
「お前、眼鏡かけてたっけ?」
「きゃ! 可愛い! おはよう! エリサ」
「ベッキーおはよう!」
「ニコラちゃん! 可愛い!」
「ベッキーも可愛いわ」
「おはよう! リトルルビィ!」
「おはよう。リトルルビィ」
「フィオナ、エミリ、おはよう!」
「リトルルビィ、かっこいい」
「エミリは……何?」
「悪魔に乗り移られた女の子」
「エミリ、ブリッジを練習してたのよ」
「ブリッジ? なんで?」
「ブリッジ、するの!」
「うわあああ! やべー! 仮装してくるの忘れたー!」
「俺もー!」
「スティーブ、ブライアン! 前見ろ!」
「きゃっ! ちょっと男子!!」
「人のいる方に走ってこないでよ! 危ないでしょ! エミリもいるのよ!」
「よお、ジミー!」
「よお」
「おはよう!」
「おはようさん」
「チャッキーさん、この包丁、血がついてます!!」
「マイケル、それ仮装用だぞ」
「パメラさん、この仮面脱いだ方がいいですかね?」
「いいんじゃないかい? でもジェイソン、……見える?」
「息苦しいですが、視野はばっちりです」
「奥州筆頭! レッツ・パーリー! ゴオオオオオゥ!!」
「ナンシーさん、あれ見てくださいよ。フレディ君が指にチョコレート挟んでなんかやってますよ」
「なあ、これ店番の時は脱がないと駄目かな……」
「エド、気を落とすなよ。いくら仮装でも手がハサミは持ちづらいって」
「だよなぁ」
「ニコラ、皆、盛り上がってるね!」
リトルルビィが楽しそうに笑う。人々がハロウィンでにぎわっている。歩いていると、ドリーム・キャンディのテントに辿り着く。
「あ」
声を出す。
「あらぁ」
足をギプスで固定して車椅子に座ったカリンと、奥さんがいた。カリンがあたし達を見て、いつもの明るい笑みで微笑んだ。
「二人とも可愛いわねぇ」
「カリンさん!」
リトルルビィが駆け寄る。
「怪我は、大丈夫なんですか?」
「大丈夫よぉ。峠は越えたからぁ。本当は安静してた方が良いんだけどぉ、今日はせっかくのお祭りでしょぉ? どうしても参加したかったのぉ」
カリンがにこりと笑って、自分の仮装を見せた。
「急遽仮装がミイラになっちゃったけどぉ、ふふ。これも悪くないでしょぉ?」
「可愛いです!」
「ありがとぉ。ルビィちゃん」
カリンがリトルルビィとあたしの姿を見る。
「ルビィちゃんはぁ、きこりのおばけぇ?」
「はい!」
「ニコラちゃんはぁ、猫のおばけぇ?」
「はい」
「可愛いぃ!」
ふふっと、笑って、テントの隅に手を差した。
「そこに荷物置いてぇ」
「はい!」
あたしは荷物を置く前に、ちらっとリトルルビィを見る。
「リトルルビィ、上着着る?」
「私はいらないかなあ。結構厚着なの」
「この衣装も見た目に寄らず厚着なのよ。……あたしもいらないかな」
ジャケットを脱いで、リュックと一緒に隅に荷物を置く。
「今日はぁ、レジ機が使えないのよぉ。だからぁ、難しい計算はそろばんを使ってくれるかしらぁ?」
「はーい!」
「そろばん……」
(出来るかしら……)
表情を曇らせると、あたしを見たカリンが笑った。
「ふふふ! 大丈夫よぉ。足し算は出来る?」
「足し算だけなら……」
「なら大丈夫よぉ。分からなくなったら、紙に書いて計算すればいいからぁ!」
「はい」
「じゃ、そろばん置いておくわねぇ」
テーブルにそろばんを置かれる。悪魔の角をつけた奥さんが笑った。
「大丈夫だよ。今日は一つ一つ値札も貼っておくから」
「はい……」
「ニコラも今日で勤務最終日だね」
「ああ! そうだったぁ! ニコラちゃん、今日で最後なのねぇ!」
カリンがしょぼんと眉をへこませた。
「やだわぁ。寂しくなるわねぇ」
「いつでも戻ってきていいからね。籍は置いておくから」
「……ありがとうございます」
「今日は頑張るんだよ」
「はい」
頷き、リトルルビィとテントの椅子に座る。二人で商品の値段を確認して、お金を入れる箱の位置を確認して、そろばんの位置を確認すると、テントの前に人が立った。
「ん」
あたしが振り向く。リトルルビィが顔を上げる。カリンが顔を上げた。奥さんが見た。
ハートの国の女王様のようなドレスを着たアリスが立っていた。
「おはようございます!」
赤い帽子のヘッドドレスを頭につけ、ハートのステッキを持ったアリスが、笑顔を浮かべた。
「おう。来たね」
奥さんが微笑み、アリスに腕を広げた。
「よく来てくれたね。アリス」
「奥さん!」
アリスが座ったままの奥さんに抱き着いた。
「お菓子ありがとうございました!」
「いいんだよ。大丈夫なの?」
「父さんと相談しました!」
アリスが体を離し、また向日葵のように温かく微笑む。
「社会貢献してこいって言われたので、アリスちゃん、今日もいっぱい働きます!」
「そうかい。じゃ、頑張ってもらおうかね!」
奥さんが微笑む。カリンも隣で微笑む。
「アリスちゃん、素敵ねぇ! そのドレス!」
「ああ! カリンさん! 足は大丈夫なんですか?」
「大丈夫よぉ。今日が終わったら一ヶ月くらいお休みを貰うんだけど、でも大丈夫よぉ」
「今日はミイラなんですね」
「急遽ねぇ」
「アリス!」
リトルルビィが手招きした。
「アリスはここ!」
隣の椅子を叩く。
「はいはい!」
アリスがあたしとリトルルビィの間の席に座る。そして、両腕を広げ、あたしとリトルルビィを抱きしめた。
「会いたかったわ! 二人とも!」
「アリス」
あたしはアリスの背中を撫でる。
「素敵なドレス」
「ふふ! 知り合いに作ってもらったの! 素敵でしょう?」
「ええ。すごく素敵」
アリスがあたしのフードの猫耳をつまむ。
「ニコラは猫ちゃんなのね!」
「そうよ」
「リトルルビィは木こりね!」
「うん!」
「リトルルビィ、男の子みたい! かっこいい!」
アリスが笑うと、リトルルビィも笑う。アリスが笑うと、自然とあたしの口元が緩む。
(ハロウィン効果かしら)
街がいつも以上に明るい気がする。
アリスが拳を固めた。
「二人とも、今日は忙しくなるわよ! 看板娘の三人で頑張っちゃうわよ!」
「頑張っちゃうわよ!」
「えいえいおー!」
「えいえいおー!」
「……おー」
あたし達のやり取りに、カリンと奥さんが微笑んだ。
その時、突然店の扉が開いた。中からは社長とジョージがお菓子の品を持って出てきた。
ジョージからあたし達に声をかけてきた。
「やあ、三人とも」
「ジョージさん! 怪我は?」
アリスが訊くと、ジョージがくつくつと笑った。
「まだちょっと痛いけど、一日休んだらだいぶ元気になったよ」
リトルルビィがジョージを見上げる。
「それ、何の仮装ですか?」
「ん? 分かんないかな?」
ジョージが服装を見て、答える。
「猿」
「お猿さんのお化けですか?」
「この立派な尻尾を見てよ」
「ジョージさん、お猿さんなら顔を赤くしないと!」
「よっし! アリスちゃんが赤く塗りますよ!」
「やめてくれよ! アリス、どうせペンキで塗る気だろ!? そうはさせないぞ!」
「私、そんなことしない!!」
皆が笑い出す。アリスも笑う。くすくす笑う。見てた商店街の人達も笑った。
「アリス、絶好調だな」
「えへへ!」
「まあ! アリス! 来たのね!」
「ベッキー!」
「待ってたわよ!」
「エリサ、まあ! ドレス素敵!」
「アリス!」
「フィオナ!」
アリスが笑う。本当に楽しそうに、嬉しそうに笑っている。
しかし、心中では何を考えているかは分からない。
カトレアのことを頭の隅で考えているかもしれない。
考えてないかもしれない。
あたしには分からない。
それでも、アリスは笑ってる。
現実の世界で、笑っている。
「アリス」
一言だけ。
「困ってることはない?」
「ニコラ」
アリスが微笑んで、あたしの手を握る。
「大丈夫よ」
アリスの手を握り返す。
「父さんも姉さんも、賛成してくれたの」
大丈夫よ。
「ニコラもいるんだもん。大丈夫よ」
アリスが微笑む。
「今日は楽しみましょう!」
アリスが微笑む。あたしもこくりと頷いた。
時間の針は動く。
人々は不安な顔を取っ払い、笑顔の仮面をつける。
ハロウィン祭が始まる。




