第2話 10月17日(1)
じりりりりりり、と、目覚まし時計が鳴った。
(やめろ……。朝なんか来るな……)
手でボタンを押すと、目覚まし時計が止まった。
(……休みまで、今日を入れて二日……。……二日頑張れば三連休……。二日頑張れば三連休……)
ふああああ。と大きな欠伸を一回。
(そういえば、ソフィアと出かけるんだっけ……。……どこに行くんだろ……)
起き上がり、眠たい目を擦る。目覚まし時計を見れば、針は8時。
「……休みたい……」
呟いて、
(月曜日に……サボったのを思い出せ……)
「……行くか……」
はあ、とため息をつきながらベッドから抜けて、クローゼットを開けた。
(今日はどうしようかな……)
昨日のピナフォアドレスは可愛かった。
(……今日はいつも通りでいいか)
キッドのお下がりのシャツを着て、スノウ様に買っていただいたパンツを穿き、靴下、動きやすい靴を履いて、髪の毛を二つのおさげに結ぶ。小指に指輪を嵌めて、ジャケットと、ミックスマックスのストラップが揺れるリュックを持って、部屋から出る。
リビングに下りていくと、じいじがラジオをつけて、新聞を読んで、ソファーでくつろいでいた。
階段から下りてくるあたしを見上げ、声をかけてくる。
「おはよう。ニコラや」
「おはよう。じいじ」
欠伸をしながら、ソファーの背もたれにジャケットをかけて、床にリュックを置く。
「キッドは?」
「まだ寝とるよ」
「あいつ、何もないと本当に寝てばかりね」
「今日はおやつにロールケーキを食べると、寝る前に張り切っておったぞ」
「廃棄のやつね。あんなに喜ぶと思ってなかった」
また欠伸をして洗面所に行く。いつものように顔を洗い、水を洗面台に落としながら今日のことを考える。
(今日は品出しかしら……。……いや、レジかも……)
手に水を溜める。
(……アリスはいるかしら)
アリスの顔を思い出す。あたしのやることを思い出す。
(アリス)
アリーチェ。
アリーチェ・ラビッツ・クロック。
その少女を、思い出す。
(名前は一致している)
(年齢も一致している)
(性別も一致している)
10月末にこの城下町を血だらけの景色に変える、一人の少女。
アリーチェ・ラビッツ・クロック。
「……」
あたしはそっと顔を上げた。鏡に映るあたしが見える。
顔を水で濡らしたあたしがいる。
前髪も、少し濡れている。
水滴が落ちる。
手から水がこぼれる。
洗面台に落ちる。
ぽたぽたと、音が鳴る。
鏡には、14歳のあたしが映っている。
「……」
15歳。たったの15歳。
犯罪を犯すアリーチェ・ラビッツ・クロックが、アリスだったとして、彼女はなぜ殺人犯などになってしまうのだろうか。
(あたしは一度目の世界のアリスを知らない)
分かっていることと言えば、
(キッドがいなかった)
(キッドのファンクラブはなかった)
(キッド殿下という存在はなかった)
(アリスがやることと言えば、帽子の絵を描くこと)
(キッドがいなかった世界で、彼女はそれだけをやり続けたのだろうか?)
アリーチェの名前は紹介所では登録されてなかった。
自らでアルバイト応募に名乗り出た可能性が高い。
一度目の世界でも、同じく。
(だとしたら、なおさら分からない)
奥さんや、社長や、社員のカリン、ジョージ、リトルルビィがいなかった場合、別のアルバイトを雇って、穴埋めは完了される。
(リトルルビィはいなかった)
(リトルルビィは存在してなかった)
(リトルルビィはどこにも働きに出なかった)
(認知もない)
(誰も、彼女を知らないまま、彼女は死んだ)
アリスは、リトルルビィに仕事を教わることはなかった。
(もちろん)
(ニコラも存在していない)
(ニコラという少女はいなかった)
(ニコラという少女は働きに出なかった)
(ニコラとアリスは出会うことはなかった)
出会っても、出会わなくても、何かが変わるわけではない。ただ、出会ってなかった。
だとしたら、アリスは、あの片思いの話を、ピナフォアドレスを、誰に話して、誰に渡したのだろう。
話さなかったのだろうか。渡さなかったのだろうか。キッドのストラップも、無ければ、誰かに、何かをあげることもなかったのだろうか。キッドがいなかった世界で、アリスは看板が飛ばされて落ちてきても、回避する手段はない。どうやって回避したのだろう。そもそも飛んでこなかったのかもしれない。ハロウィン祭の準備を、こつこつ進めていたのかもしれない。アリスらしい、楽しそうな笑みを浮かべて。
(分からない……)
あたしの顔から、水滴が落ちる。
(ますます分からない)
アリスの笑顔を思い出せば、思い浮かべれば、そうなればなるほど、
(分からない)
(惨劇を起こす理由が、皆目見当がつかない)
城下町を、彼女は愛している。
キッド殿下万歳と叫んで笑っている。
帽子屋を継ぐと意気込んでいる。
帽子の絵を描き続けたいと祈っている。
偉大になりたいと、夢を見つめている。
――だって、ニコラ、そのお陰で、今日が良い日だったことは間違いないのよ。
楽しそうに言っていた。
――今日を経て、私達は、友達から親友になったんだから!
嬉しそうに言っていた。
「ニコラ」
笑って訊いていた。
「11月になっても会えるわよね?」
あたしの手が、伸びた。
鏡に触れた。
あたしの手が、鏡に映る。
(アリス)
鏡を見つめるあたしが映ってる。
(アリーチェ)
鋭く睨んでいるあたしが映ってる。
(何があったか、調べさせてもらうわよ)
(少し、デリケートなところに触れても、悪く思わないでね)
ジャックに殺される前に、何があったか、この目で確認しないと。それがリオンの手柄となる。あたしは救われる。
11月になっても、アリスに会える。
「ニコラやー! 時間はいいのかー?」
「はっ!」
鏡には、目を見開いてはっと息を呑む、慌てるあたしの姿が映っていた。
(*'ω'*)
9時34分。噴水前。
赤いマントを翻すリトルルビィが現れる。
あたしの前に歩いてきて、目をきらきらと輝かせて、あたしを見つめてくる。くるんくるんと回って、あたしを見つめてくる。スキップをして、あたしを見つめてくる。黙ったまま見つめてくる。それを眉をひそめて見つめていると、リトルルビィが前髪をなでなでと撫でた。そこで分かった。
「……前髪切った?」
「うん!!!!!」
リトルルビィが全力で頷いた。
「何センチ?」
「……二センチくらい……?」
ぽっと頬を赤く染める。
「じ、自分で切ったの……」
「……ふーん」
「ニコラ……どう……? 可愛い……?」
(正直違いが分からない)
だけど、あたしのお気に入りのリトルルビィにそんなきらきらした目で見つめられたら、何もコメントを言わないわけにはいかない。あたしは悩んだ末、言葉を選び、それを並べる。
「そうね。似合ってる」
「えへへへぇー!」
(褒めとけ褒めとけ。分からない時はとにかく褒めておけ)
「いつもと雰囲気が違うと思ったら、前髪だったのね」
「え、雰囲気違うかな……?」
「ええ。可愛い」
(褒めとけ褒めとけ。分からないけど褒めておけ)
「わぁーーーい!」
ふわふわとリトルルビィが微笑み、今日も力強く拳を握る。
「今日も頑張ろうね! テリー!」
「ニコラ」
「ニコラ!」
朝から元気のいいリトルルビィがあたしと商店街の通りに向かって歩き出す。
「アリス、今日は来るかな?」
「来るって言ってたけど……どうかしら。首にあの痣だし」
「痣……それなのよね……」
リトルルビィが眉間にしわを寄せた。
「今日、メニーに訊きたいことがあるの」
「メニーに?」
「お屋敷の人も、夢見てるんでしょう? だったら、痣もあるのかなって」
「……ああ……」
ドロシーに痣のことを訊けばよかった。屋敷にいるんだし、ドロシーなら見ているだろう。
(まあ、昼にメニーが来るだろうし)
「そうね。昼に話を聞けばいいわ」
「もし全員に痣が発見されてるなら、今回の中毒者の魔法は、『夢で起きたことを痣として現実に反映される』効果ってことで、間違いないと思う」
「……痣ね……」
痣だけならおかしい。
(アリーチェは死ぬのよ)
(事件を起こした二日後に、死ぬ)
(そして、外傷は無かった)
(痣なんてあったら、外傷扱いになっている)
綺麗な体のまま亡くなったから、夢の中で殺されたんだと、言われるようになるのだ。
(夢の中で殺される……)
昨日会ったアリスは、ギロチンで首を跳ねられて目が覚めたと言っていた。
(……同情する。ギロチンなんて、嫌な夢)
でも、アリスは生きている。首に痣が残っただけ。
でも、アリスは死ぬ。綺麗な体のまま。
(……どういうこと……?)
その違和感を考えていると、
「おはよーーーー!」
アリスがあたしの後ろから突進してきた。隙を取られたあたしは、地面に倒れる。
「がはっ!」
「きゃーーー! ニコラーーー!」
道端に倒れたあたしを見てリトルルビィが悲鳴を上げた。アリスはげらげら笑っている。
「はっはっはっはっはっ! アリスちゃん復活! 今日の私は! 絶好調なのです!!」
「アーリースー……」
「ぶふっ! どうしたの! ニコラ! そのおでこ! 額が、まっかっか! ぷぷぷっ!」
(うるせえ! アリスの愛が大きすぎたのよ!! 友達同士のやりとりみたいに思いきり体当たりしやがって! 別にもっとやってくれなんて思ってないんだから!)
立ち上がって、手の砂をほろい、アリスに振り向く。首には、昨日見たトランプの模様のチョーカーがされていた。アリスがにこりと笑う。
「おはよう! ニコラ!」
「……おはよう」
アリスがリトルルビィに顔を向けた。
「おはよう! リトルルビィ!」
「おはよう! アリス!」
「うん! 朝から素晴らしい挨拶!」
アリスのやる気はみなぎっている。
「さあ、今日も元気に! 明るく! 激しく! 穏やかに過ごすわよ! おー!!」
「おー!」
「……おー」
三人でそのまま歩き出し、シャッターが半分閉められた店の中に入っていく。中では奥さんがレジを触っていた。あたし達を見てにこりと笑う。
「おはよう。三人とも」
そして、アリスを見て声をかけた。
「アリス、体調は?」
「復活しました!」
「あはは! そりゃ良かった。あんたがいないと店が静かだからね」
「今日もよろしくお願いします!」
「はいはい。ニコラ、体調は?」
「大丈夫です」
「リトルルビィは……」
「この通りです!」
「よしよし。三人とも元気だね。今日も頼むよ」
奥さんがレジのレバーを回す。
「看板娘達のいい笑顔、期待してるよ」
そう言って、奥さんが歯を見せて笑った。
(*'ω'*)
10時30分。ドリーム・キャンディ。
店をオープンすると、なぜかお客さんが多く入ってくる。しかも不慣れな二階の品出しの時に限って声をかけてくる。
「すみません」
「はい」
「ねえ」
「はい」
「おい」
「……あ?」
「ごめんください」
「はい」
「あの」
「はい」
返事をして、棚に案内して、戻って、品出しして、こういう時に限って、棚のものがどんどん無くなる。
(朝から汗をかけというの!? 何なのよ! 畜生! 今日は暇だと思ったのに!)
「ニコラ!」
そこへ、元気はつらつのアリスが飛び出る。
「そっちやって!」
「分かった」
「リトルルビィ、この方の案内お願い!」
「はい!」
「ニコラ、これ!」
「はい!」
「リトルルビィ、それ!」
「はい!」
「いらっしゃいませー! レジ伺いまーす!」
うおおおおおおお!!
(アリスが……ちゃんと働いてる……!)
いや、毎回きちんと働いてくれてるのよ。だけど、忙しくなるとお互い自分達の手元で精いっぱいになるから、アリスもここまで気が回らないのに。
(今日のアリスは店全体が見えてる……)
おかしい。
(アリスがおかしい)
まさか、
(何かあった……?)
「ふう!」
アリスが汗を拭う。
「さて、スナック菓子の品出しを……」
「アリス」
「うん? どうしたの? ニコラ」
あたしは真剣な表情で訊く。
「何か……その、悪夢以外で、嫌なことでもあった……?」
「ん? なんで?」
「……アリスが、今日すごい動けてるから……」
「もー! 失礼な子ね!」
アリスがぷううっと頬を膨らませる。
「私だって働けるんですよー! 見たか! 先輩の本気を!」
「……普段からそうやればいいのに……」
「今日はね、朝に珈琲を飲んだから集中力が半端ないのよ」
「珈琲?」
きょとんとすると、アリスがにこにこして頷く。
「そうよ。珈琲。うんと苦いやつを飲んで来たの!」
「珈琲飲んだくらいで、こんなに変わる?」
「何言ってるの。珈琲は偉大なのよ! 二杯くらい飲めば、集中力は格上げなんだから!」
アリスが微笑みながら、足を動かす。
「向こうの品出しやってくる。ニコラ、そっちのエリアお願い!」
「ん」
頷いて、言われた範囲のエリアに足を動かす。
(どこからやろうかな……)
一瞬だけ大量に客が来たせいで、棚ががぼがぼだ。
(……これは面倒くさい……)
端の方から棚の整理を始める。
(商品を前に出して……後ろががら空きのものを裏から持ってきて……)
いくつか見て、その棚の入りそうなところを確認して、二階の倉庫を開ける。
(あった。あった)
そこから出したい品の箱を持って、棚の前まで歩いていく。
「よいしょ」
その前に置く。
「もう一つ」
もう一度戻って、箱を取ってくる。
(……重たい)
ぐっと腕と腰に力を入れて、持ち上げる。
(……重たい……)
少しふらつきながら、棚まで運ぶ。
(前が見えない……)
大きい箱で見えない。
(えっと……棚は……)
箱を少し退かせて顔を覗かせると、前から一輪のテリーの花。
「……」
顔を思いきりしかめると、テリーの花をあたしに向けるヘンゼが、気取りながら笑った。
「ふっ! ちっちゃな未熟の苺ちゃん。こんにちは。ご機嫌いかが?」
「退いて。邪魔」
横を通り過ぎ、さっさと棚の前に歩き、重たい箱を置く。
「……はあ……」
重いものを持って溜め込んだ息を吐き、棚に顔を上げる。
(えーっと……)
「ニコラ、今日のおすすめを教えてくれないか?」
「社長の特性ロールケーキと洋菓子コーナー。一階」
「なるほど。ところでニコラ、今日のお兄さんの服装はどうだい? 紳士的でかっこいいかい?」
ちらっと見ると、ヘンゼがいつものスーツではなく、私服になっている。テリーの花をくるくると回し、にやにやとあたしを見下ろしていた。
「……何? 今日は休みなの?」
「ああ。この後、マドモワゼルとデートに行くんだ」
「……ああ、はい。……手作り洋菓子は一階」
「ん? 何だい? もしかして、ヤキモチかい? ニコラ、お兄さんがニコラじゃない他のマドモワゼルと出かけるからって、ヤキモチを妬いているのかい!?」
ヘンゼが胸を押さえた。
「ああ! 一人のマドモワゼルの心を傷つけてしまうなんて、俺はなんて罪な男なんだ!だが、安心してくれ。ニコラ。君のために、三連休の最終日、昼の時間だけは確保してある。一緒に出掛けよう」
「帰れ」
「博物館に行こう。いや、美術館の方がいいかい? 歩いた後は、お兄さんと優雅なランチを楽しもう」
「帰れ」
「三連休の最終日だけさ。どうだい? 大人のお兄さんに興味はないかい? ニコラ」
「帰れ」
「照れているんだね? 恥ずかしいんだね? 大丈夫。心を解放させるんだ。お兄さんのラブリーゾーンは10歳から90歳までオッケーさ。さあ、ニコラ、お兄さんに身を委ねてごらん。新たな世界を発見できるかもしれないよ」
「帰れ」
「ニコラ、君は絶対美人になる。どうだい。お兄さんどうだい?」
「帰れ」
「帰れ」
声が重なった。
(ん?)
きょとんとして振り向くと、帽子を深く被り、丸眼鏡をした、薄い青髪の少年が、じろりとヘンゼを睨んでいた。ヘンゼがその少年を見て、目を丸くする。
「ややっ! これはこれは!」
ヘンゼがあたしから一歩離れ、テリーの花を少年の手に無理矢理渡す。
「休みの時にも会えるなんて嬉しい限りです。我が主」
「お前のその言い方が気に入らないんだよ……。なんだよ。この花……」
「テリーの花です。綺麗でしょう? レディを口説く時は、花を持って接するんです。これ、お兄さんの生きてきた中での教訓ですよ。貴方も可愛い妹には、綺麗な花を用意するべきです」
「うるさい。黙れ。戻れ。帰れ。さっさと行け。今日はオフだろ」
「ええ! この後デートです!」
「デート前に人の妹を口説くな!」
「ふっ! まるで本当の兄妹のようだ。麗しいです。リオ……」
「言うな!」
「おっと失礼」
くすりと笑って、ヘンゼがまた一歩下がった。
「それでは俺はこの辺で。また明日お会いしましょう。レオ君」
「やかましい。さっさと行け」
「ふっ! 楽しんできます。今度こそ俺は運命の人と出会うのだ……!」
華麗なステップでヘンゼが一階に下りると、一階からまた声が聞こえた。
「兄さん! ここにいたのか!」
「グレタ! なんでお前がここにいるんだ!」
「兄さん! 今日のお部屋のお掃除は兄さんだぞ!」
「グレタ! 今日はリサとデートだと言っただろ! お部屋のお掃除くらいお前がやれ!」
「兄さん! そんなことを言ったらママが悲しむぞ!」
「グレタ! わざわざそれを言いにここまで来たのか!」
「兄さん!」
「グレタ!」
「アーユー・デェト・トゥデイ!」
「オーウ! イエス!」
「クリーン、ユー!」
「ノオオオオウ!」
「クリーン! ユー!!」
「ノオオオオオン!!」
とんちんかんな会話に、レオの片目が引き攣った。
「……何やってるんだ……。……あいつら……」
呆れたように呟いてから、あたしに向き合った。
「ニコラ」
「仕事中」
「しながらでいい」
あたしの手が棚の整理を始める。レオがあたしの横で声をかける。
「あの後、あの人に何もされなかった?」
「何もって?」
「……火あぶりにされるとか」
確かに笑顔でやりそうだ。だが、残念ながらされていないので、あたしは首を振った。
「……残念だけど、あたしは生きてるし、そういうことはなかった。あたしも疲れてたし、あの後はまっすぐ家に帰ったわ」
「……何もされてないんだな?」
「あんたが心配するようなことは、特に」
「……ねえ、本気?」
「何が?」
「婚約してるって」
一瞬、あたしの手が止まり、また動き出す。
「関係ないんじゃない?」
「僕達のことを知ってたのか? 知ってた上で黙ってたのか?」
「あんたを知らないレディなんて、このご時世いないでしょ」
「なんで言わなかった」
「ニコラはあいつと婚約してないもの」
「ああ、なんか、名前言ってたな。君、ニコラって偽名なの?」
「ねえ」
レオに振り向く。
「やめて。特に、ここではそういう話は無しよ。仕事してるの」
「昨日、なんで来なかった。兄さんに何か言われたんじゃないのか?」
「昨日は用事があったの。だから行けなかった」
「じゃあ、今日は来るんだな?」
「ええ。行く。あんたに訊きたいこともあるし」
「僕だって訊きたいことだらけだ」
「今日は行く。絶対行く。だからその話をここでしないでくれる?」
「絶対だな?」
レオがあたしの顔を覗き込んできた。青い目に、あたしの姿が映る。
「絶対来るんだな?」
「行く」
「分かった。じゃあ、話はその時だ」
レオが指を立てた。
「君が彼女を探していた理由も、訊きたい」
レオが指を差した。
「僕を試したのか?」
アリスに指を差した。
「アリーチェ・ラビッツ・クロック」
リトルルビィと笑うアリスを見下ろし、
「ん?」
リトルルビィを見て、目を見開く。
「……なんで、ルビィがここにいるんだ?」
「……知ってるの?」
「城で何度も会ってるよ。兄さんの部下の……」
レオがはっとして、またあたしを見た。
「……そのことも知ってるんだな」
レオがあたしに向き合う。
「ニコラ、ちゃんと話をしよう。このままじゃ、お互いにとっても良くない」
「ええ」
「今日の夕方、いつもの所で」
「分かった」
頷くと、レオの手が伸びる。
(ん?)
あたしの頭に、手を乗せる。切なそうに、あたしを見つめる。
「……待ってるよ。兄妹」
レオの手が離れた。複雑そうにその目を伏せ、あたしから視線を逸らし、そのまま後ろに下がり、背を向け、一階に向かって歩いていく。階段を下りたところで、うんざりしたレオの声が聞こえた。
「お前ら、さっさと帰るぞ」
「ややっ! これはこれは、リオ……!」
「やめろ!」
「やめません! このグレーテル・サタラディア! 貴方様の名前を的確命中」
「帰るぞ!!」
「痛い! レオ君! お兄さんまで引っ張らないでください!」
「痛い! 流石我らの主! 痛い! さすがリオ……」
「やめろって! もう!!」
レオが双子を引きずって店から出て行った。急に静かになった店内。一人一人の足音が響き、階段を上がってくる音が聞こえた。
リトルルビィが、階段を駆け上がり、二階に来て、あたしに声をかけてきた。
「……ニコラ」
ひそりと声をひそめる。
「今の人、見た?」
「……ん? 誰?」
「……リオン様がいたの」
「リオン様?」
あたしはきょとんとして、
「へえ。第二王子様が、一体何の用かしらね?」
すっとぼけた頃、珍しくホレおばさんが二階まで上がってきた。




