第21話 10月16日(3)
16時。ドリーム・キャンディ。
店の鳩時計が鳴った。「ぽぉ」という音で、はっとする。
(終わりだわ)
ふう、と息を吐き、立ち上がる。
「ニコラ、お疲れ様。あがっていいよ」
奥さんがカウンターから声をかけてくる。あたしは今の作業を片付け、奥さんに振り向いた。
「奥さん、お疲れ様でした」
「ねえ、ニコラ、良かったらロスの洋菓子、持って行かない?」
「ロス?」
訊き返すと、奥さんがいつもの笑顔で頷く。
「賞味期限が切れたやつ。一日切れてるだけで、全然食べられるものなんだけど、さすがに売り物に出来ないから、従業員に配ってるんだよ。今回は結構残っちまってね」
「……はあ」
(別にホームレスをやってた時も、ごみ箱のもの漁って食事してたし。……一日くらい過ぎても何ともない)
「……良いなら、持って帰りたいです」
「いいよ。沢山あるから、いっぱい持って帰りな!」
奥さんが微笑んで、店の裏を親指で差す。
「厨房の前の籠の中にあるから、好きなだけ持って行っていいよ」
「ありがとうございます。見てみます」
店の奥に入り、厨房の前に置かれた籠を覗き込む。山のように積まれた様々な洋菓子が入っていた。
(あら、すごい。いっぱいある)
じっと見てると、厨房の扉が開いた。社長が出てくる。目が合い、あたしは軽く頭を下げた。
「……お疲れ様です」
「……」
社長が厨房に戻り、またすぐに出てくる。手には大きめの紙袋を持っていた。
「ん」
あたしに渡してくる。
(……これに入れろってこと?)
あたしは恐る恐る、手を伸ばし、紙袋を受け取った。
「……ありがとうございます」
「……」
社長がしゃがみこみ、籠に手を突っ込ませ、プラスチックの容器に入ったお化けの形のケーキを、あたしに渡してきた。
「……ありがとうございます」
受け取って、紙袋に入れる。
社長がまた手を突っ込ませ、プラスチックの容器に入ったカボチャの形のケーキを、あたしに渡してきた。
「……ありがとうございます」
社長がまた手を突っ込ませ、プラスチックの容器に入ったガイコツの形のケーキを、あたしに渡してきた。
「……ありがとうございます」
社長がまた手を突っ込ませ、大きめの容器に入ったミイラの顔のクッキーの詰め合わせを、あたしに渡してきた。
「……ありがとうございます」
「……全て、手作りだ」
「……ああ、そうなんですね」
あたしは紙袋の中身をちらっと見た。
「……売れ残ったんですね……」
「……ミイラが悪かったか……」
社長がそっと歩き出した。
「ガイコツが悪かったか……」
社長がそっと厨房の扉を開けた。
「……カボチャに罪はない……」
社長が厨房に入っていった。
「……お化けのせいか……」
寂しそうに、厨房の扉を閉めた。
「……」
「ニコラ!」
ととと、と紙袋を事前に手に持っていたリトルルビィが駆けてくる。
「わあ! いっぱいある!」
リトルルビィがしゃがみこみ、籠を覗いた。
「あー! 社長のケーキがある! やったぁ! 持って帰ろうっと!」
嬉しそうにリトルルビィが言うと、厨房の扉の窓に社長がぴたっと貼りつき、次の獲物を見つけたような目をリトルルビィに向けた。
「ニコラ、どれ持って帰る? これ、社長の手作りで、すっごくすっごく美味しいのよ!」
お化けのクッキーの詰め合わせをリトルルビィが目を輝かせて、紙袋に入れていく。
「うふふ! どれにしようかなぁー?」
社長の手作りのお菓子を中心に紙袋に入れていくリトルルビィを見て、社長がゆっくりと、人を殺した後に浮かべる笑みのような微笑みを見せて、扉の窓から離れて行った。あたしはそれを黙って見つめる。
「……」
「ニコラ? どうしたの?」
「……何でもない……」
あたしはまた籠を見下ろす。
「ビスケットもあるのね。クッキーとかなら、置いてても大丈夫かしら」
「全然大丈夫よ! 私も沢山持って帰るけど、全然日持ちするの!」
「多分『あいつ』が単体でばくばく食べるだろうから、持っていけるだけ持って行こうかしら」
「ねえ、ニコラ、提案なんだけど」
「ん?」
顔を覗き込んできたリトルルビィを見ると、リトルルビィがひそりと呟いた。
「この後、アリスの家に行かない?」
「アリス?」
「アリスね、ロスが出るの、毎日すごく楽しみにしてるの。体調不良だって言うし、社長のお菓子いくつか見繕って、お見舞いに行かない?」
「お見舞い……」
(お見舞いって、なんだか、友達のやり取りみたい……)
ヘンゼには、レオに会うように頼まれたけど。
(28日まではまだ時間がある。アリーチェのことも、まだ大丈夫でしょう)
あたしの中で、優先順位があたしの親友のアリスに変わった。
「賛成。行きましょう」
「よおし。選ぶぞお!」
あたしとリトルルビィが、既製品と、社長の手作りのお菓子を紙袋に入れ始めた。手に持つのが、圧倒的に社長の手作りのお菓子の方が多く、あたしが顔を上げる頃、また社長が、獲物を殺して快感にひたるような目で、厨房の扉の窓からあたし達を見下ろしていた。
(*'ω'*)
16時30分。エターナル・ティー・パーティー。
店内に入ると、カトレアが帽子の位置を細かく調節していて、扉の開いた音を聞いて声を出す。
「いらっしゃいませ」
振り返って、あたし達を見て目を丸くする。
「あら! こんにちは。ルビィちゃんにニコラちゃん」
女神のように美しく微笑み、あたし達に歩み寄ってくる。
「こんにちは! カトレアさん!」
「こんにちは」
リトルルビィとあたしが挨拶すると、カトレアがあたし達が手に持った紙袋を見て、くすっと笑う。
「まあ。今日はロスが出たのね」
「アリスの分です!」
「ふふっ。ありがとう。このお菓子と一緒にお茶を出してもいいかしら?」
「お願いします!」
リトルルビィがにこりと微笑んで頷き、ふと、口角を下げた。
「あの、アリス、体調どうですか?」
「大丈夫よ。一日お休みだったから、また帽子の絵でも描いてるんじゃない? 部屋から出てこないのよ」
カトレアが店の奥に指を差した。
「部屋は分かる? 階段を上って、二つ目の部屋よ」
「はい!」
「お茶を持って行くわ。先に行って、お話でもしてあげて」
「ニコラ、行こう!」
リトルルビィが歩き出し、あたしも歩き出す。廊下を進み、階段を上り、二階の廊下に出る。
「ねえ、ニコラ、アリスの部屋見たことある?」
「掃除した」
「えっ!? テリー、掃除したの!?」
「ニコラ」
「ニコラ、掃除したの!? あの部屋を!? いつの間に!」
「この間遊びに行ったのよ」
「そうよね。カトレアさんがニコラの名前知ってたから、あれって思ったの。そっか。掃除したのね。あの部屋を……」
「……大変だったわ」
「……テリーって綺麗好きなのね」
二つ目の部屋の前に着き、足を止め、リトルルビィが扉をノックした。
「アリス! お見舞いに来たよ!」
リトルルビィが声を出すと、しばらくして、中から、ガタン! と音が鳴った。
「ちょっと待ってー!」
向こうから元気そうなアリスの声が聞こえて、すぐに扉が開いた。中からは髪の毛が乱れ、首元まで襟があるネグリジェを着たアリスと、――掃除したはずの部屋が、元のありさまに戻っている姿が見えた。あたしは目を見開き、アリスに怒鳴った。
「貴様ああああああ!!」
「ひえっ!」
「元に戻ってるべさーーーー!!」
「だ、大丈夫よ! ニコラ!」
アリスが下に落とされていたぬいぐるみをぽぽいとベッドに投げて、お菓子の袋をゴミ箱に捨てて、椅子にかけられたドレス達をハンガーにかけて、クローゼットにしまうと、ある程度、形が掃除した時に戻る。
「ほら、こうすれば綺麗でしょう?」
「アリス……あとであのドレス洗濯に出しなさいよ……」
「ぶふっ! なんか、ニコラ、私の保護者みたい! ぶっくくくくく!!」
アリスが笑い出し、あたしとリトルルビィが顔をしかめた。ついでに腕を組む。
「体調はどう?」
「うん! だいぶ良くなった。二人とも入って!」
アリスがあたし達を部屋に招き、二人で部屋に入る。今日もアリスの部屋には、至る所にリボンとベルトと紐がぶら下がっている。アリスがあたし達をカーペットの上に座らせた。
「待ってて。今、お茶を淹れてくるわ!」
「あ、それなら大丈夫! カトレアさんが淹れてくれるって言ってた!」
「何? 流石姉さんね。気遣いもぬかりない…」
リトルルビィから聞いたアリスが、ふむ、と頷き、扉を閉めた。
「二人とも、わざわざお見舞いに来てくれたの? ふふっ。嬉しいわ!」
「ロスが出た日だったの。社長が悲しそうだったし、アリスも持っていったら喜ぶかなって思ったから、ついでに持ってきたのよ」
「ええ! ロスが出たの!? やったー! じゃあ、姉さんはそのお菓子を持ってここに来るのね?」
リトルルビィが微笑んで頷く。それを見たアリスがにやあ、とにやけた。
「ニコラ、社長のお菓子、ちゃんと食べたことある? 本当に美味しいんだから! 紅茶にも合って最高なのよ!」
「前にリトルルビィでクッキーを食べたことあるわ」
「うん!」
「社長のクッキー美味しいのよね! でもね、私はビスケットも好き。ロールケーキも大好き」
「社長、あんな顔して甘いもの上手に作るよね」
「女の子の気持ち分かってるわよね! 社長って、顔は怖いけど心は乙女だから!」
三人で丸くなって、カーペットに座る。
(……なんか、友達の集まりみたい……)
こうやってはしたなく床に座るのも新鮮。
(ざまあみろ。ドロシー。あたしにも友達はいるのよ。えっへん)
アリスが急にため息をついた。
「あーあ。お菓子のロス、もう少し早く出てくれたら私も助かったのに」
「ん?」
リトルルビィがきょとんとした。
「何が助かるの?」
「ジャックに渡せたもん」
「ジャック?」
「あのね」
アリスが眉をへこませた。
「私、ジャックに会ったの」
あたしとリトルルビィが、アリスを見つめた。
「昨日の夜、うーん。今朝?」
アリスがのんびりと語りだす。
「変な夢を見たわ。もうね、頭がおかしくなってしまうような、とんちんかんな夢だったわ。喋る兎さんを追いかけて、私、巨大な穴に落ちるの。そこは不思議な世界に通じていて、私はその不思議な世界に迷い込んでしまうのよ。そこでね、ふとした時に、ジャックに会ったの。お菓子ちょうだいって、言われたんだけど、私、お菓子持ってなかったのよ」
その夜、異常に甘いものが食べたくなって、ぺろりしちゃった!
「そしたらもう、そのタイミングを見計らってたかのようにジャックが現れて。それから、もう、大変よ。お菓子がないから、渡せないってなった途端、私の夢が変なことになったの。にやにや笑う猫がいて、私の邪魔ばかりしてくるの。でね、すごく綺麗な女王様がいるんだけど、猫が女王様に悪いことするのよ。あろうことか、私が罪をなすりつけられて、女王様に追いかけられるのよ」
その小娘の首を跳ねよーーーー!!
「逃げた。もう、ひたすら逃げる夢。でも、私、ジャックにお菓子を渡せなかったから、目を覚ます前に捕まっちゃって。……あの……」
アリスが、言葉を濁した。
「あのね」
アリスが、気まずそうに視線を逸らした。
「目を覚まして、気づいたの」
目を覚ます前に、
「私、首を切られたのよ。ギロチンで、ちょきんって」
そしたら、
「……これ……」
アリスがネグリジェの襟をめくった。すると、アリスの首がはっきり見えた。首に線が入っている。
痣のような線。
「何もしてないの」
「夢を見ただけ」
「夢で首を切られただけ」
「首に、痕が付いたの」
アリスが、息をこぼした。
「どう思う?」
アリスが訊いてきた。
「どう思う?」
アリスがにやけた。
「どう思う?」
アリスの口角が上がった。
「ドウ思ウ?」
アリスが笑った。
「あっはははは!」
「あはははははははははははは」
「きゃはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!」
「ひゃはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!」
首の痕を触って、笑って、なにがおかしいのか分からないのに、笑って、ふふふと、また笑って、くくくとお腹を押さえて笑って、あたしの目を、じっと見つめた。
「ねえ、ニコラ」
嬉しそうなアリスの顔。
「ジャックはいたよ」
アリスの目がリトルルビィに向けられた。
「切り裂きジャック」
アリスが言った。
「ジャックは」
アリスが言った。
「本当にいるのよ」
アリスがにやけた。
「ジャックは悪夢を見せる」
「ジャックは悪夢で人を殺す」
「きっと」
「きっと」
「きっと」
「いつか」
「誰かが本当に、殺されるかもね」
「アリスー、学校から電話よー」
扉の向こうから、カトレアの声がして、びくっ、とあたしは肩を揺らした。振り向いて、扉を見つめる。
「はいはーい!」
アリスがいつもの間の抜けた声を出して、立ち上がる。扉を開けて、廊下に出て行った。
残されたあたしと、リトルルビィは、ゆっくりと、視線を合わせた。
「……」
「……」
リトルルビィは黙って、あたしを見る。あたしも黙って、リトルルビィの赤い目を見つめる。しばらくお互い黙ると、リトルルビィが、その重たい口を開けた。
「……すごく嬉しそうだったね。アリス」
不気味なほど笑うアリスの顔が、頭から離れない。リトルルビィが目を伏せた。
「……ニコラ、メニーの話、覚えてる?」
「……ん?」
「メニーが言ってたでしょう? テリーがいなくなってから、屋敷内がおかしくなったって」
リトルルビィはあたし達の会話を、パンを美味しく食べながらきちんと聞いていたようだ。
「この時期だから、だと思ってたけど。……アリスの首の痕を見て、思ったの。なんか違和感」
違和感を感じる。
「切り裂きジャックって、確かにハロウィン近くになるとすごく騒がれるけど、変な夢を見る人が多くなるなんて、今年が初めて」
違和感を感じる。
「皆、忘れっぽくなってる。特に大人は皆、忘れっぽくなってる」
違和感を感じる。
「皆、変な夢を見たって言ってた」
違和感を感じる。
「あのね、テリー、実はね……」
リトルルビィが重たい口を動かす。
「もう調査は始まってるの」
あたしは瞬きした。
「キッドが初めて切り裂きジャックに会った時から、もう、捜してるの」
あたしは目を見開いた。
「そうよ。メニーの言う通り」
違和感の正体。
「この騒動、お化けじゃなくて」
リトルルビィが、あたしを見た。
「中毒者かもしれないの」
アリーチェ・ラビッツ・クロックは、謎の死を迎えた。
アリーチェ・ラビッツ・クロックは、自殺だと思われた。
アリーチェ・ラビッツ・クロックは、ジャックに殺されたと言われた。
(自殺、じゃなかった)
痕なんて知らない。でも、
(これが、中毒者なのだとしたら)
アリーチェは自殺じゃない。殺された。
中毒者の切り裂きジャックに殺された。
事件を起こした二日後に、制裁を受けるように殺されるのだ。
(……でも、なぜアリーチェが?)
彼女に、何があったのだろう。
(アリーチェ・ラビッツ・クロック)
彼女とジャックに、何があったのだろう。
(アリーチェ・ラビッツ・クロック)
考えれば考えるほど、謎は深まるばかり。
(アリーチェはどこだ)
(今日、レオの元へ行くべきだったかしら)
アリーチェはどこだ。
(アリーチェ・ラビッツ・クロック)
広場を血の海に変える、少女の名前。
(アリーチェ・ラビッツ・クロック)
その二日後に、牢屋の中で死んでしまう少女の名前。
「……」
「……テリー?」
リトルルビィがあたしに近づく。義手じゃない生身の手をあたしに寄せる。あたしの手の上に重なる。きゅっと、握られる。
「テリー」
顔を上げる。ルビィがあたしを見ている。
「テリーは私が守るから」
ルビィの赤い目が、ゆるぎなくあたしを見つめる。
「悪夢なんて見させない」
これが本当に中毒者なら、
「……魔法使いさんが、またどこかで、見ているのよ」
私とお兄ちゃんを呪った魔法使いさん。
「……紫の……」
「え?」
――紫?
訊き返そうとした直後、勢いよく扉が開いた。おどけた顔のアリスが戻ってきた。
「ちょーーーっと失礼!」
ぱたぱたと机に走ってくる。
元に戻った汚い机の上で、ごそごそと何かを探し回る。何十冊も重ねられたノートとアリスの手がぶつかった。ノートがあたしの方になだれ込んできた。
(え!?)
ばさばさ! と、ノートがあたしに降ってきた。
「ぎゃーーーーー!」
「きゃ! テッ……じゃなかった! ニコラ!」
「あ、ごめん!」
アリスが謝る頃、全部のノートが降り終わる。あたしの周りにはノートだらけ。一冊だけ頭にかぶる形で落ちてきて、まるでノートの帽子。いらっとして、アリスを睨んだ。
「アーリースー……!」
「きゃははははは! ニコラ、その帽子、よく似合ってるわよ! あはははははは!! あっはははははは!!」
「うるさいわぁああ!」
頭のノートを掴み、閉じて手に持つ。すると、視界に映った文字を、一瞬目で追った。
『Alice Rabbits clock』
「ん?」
アリス・ラビッツ・クロック?
「……ん?」
あたしの目が、きょとんと緩む。
「ん?」
アリスを見上げる。
「アリス」
「あったー!」
アリスが目を輝かせて、ぼろぼろになった教科書を手にもって、掲げた。
「えっと……35ページの……」
「ねえ、アリス」
「ん?」
教科書を開いたアリスが、あたしを見下ろした。
「何?」
「ねえ、アリスって」
苗字、
「ラビッツ・クロックっていうの?」
「え? うん」
アリスが頷く。
「あれ? そういえば、私、ニコラに言ってなかった気がする」
「……ん? 何が?」
「名前」
「名前?」
「ええ。私の名前」
アリスが教科書35ページを開いた。
「すごーく長い、超言いづらい私の名前、私、そういえば、ニコラに教えてなかったわよね」
「アリスは、アリスでしょう?」
「違う違う。アリスは私の名前じゃないの」
「え?」
あたしはきょとんとして、瞬きした。
アリスは教科書36ページを覗き込んだ。
「ほらほら、ニコラもよく見て」
Alice Rabbits clock.
「文字の綴りがアリスだから、そうやって皆に呼んでもらってるだけ。アリスって名前、可愛いじゃない」
その瞬間、とてつもなく嫌な予感がした。
Alice Rabbits clock.
そうだ。これはアリスと読む。
Alice Rabbits clock.
しかし、アリスと読まない読み方が一つだけある。
「……アリス」
「んー?」
「それじゃあ、アリス、名前、なんて言うの?」
アリスが名乗った。
「アリーチェ」
『Alice』
「アリーチェ」
私の名前。
「アリーチェ・ラビッツ・クロックよ」
アリスが笑った。
アリスが、くすくす笑った。
「長い名前でしょう? 嫌いなのよ。本名。今まで通り、アリスでいいからね」
アリーチェがくすくす笑う。その笑顔を見て、思わず、声を漏らす。
「……え……?」
「アリス」
カトレアがトレイを持って、部屋に入ってきた。
「教科書は見つかった?」
「うん! ここに!」
「ちょっとぼろぼろじゃない。またこの子は……」
「読めればいいのよ! 読めれば!」
アリーチェが教科書を机に置き、カトレアからトレイを受け取った。
「きゃああああん !私の! 好きな! 社長のロールケーキが入ってるううう!!」
お皿に切り分けられたケーキを見て、目を輝かせるアリーチェが叫んだ。
「やった! やった!」
アリーチェがあたし達の間に入り、トレイを真ん中に置いた。
「皆でつまみましょう! うふふ! なんか勉強会みたいね! ニコラ、砂糖いる? リトルルビィ、ミルクはいる?」
わくわくしたアリーチェがいる。
「姉さん! ありがとう!」
「あとで先生に連絡するのよ」
「はぁーい!」
姉に笑顔を向けるアリーチェがいる。
首にジャックにつけられた痕を見せるアリーチェが、
これから、広場で、無差別大量殺人を行う、アリーチェ・ラビッツ・クロックが、目の前で笑っている。
驚きと、絶望と、恐怖で、その少女を見る。
元気な明るい笑顔の似合う、その少女を見る。
今日も笑う。明日も笑う。会うたびに笑っている、心が明るくなる、どこか違和感を持つ、その少女を見る。
アリーチェを見る。
親友の、アリーチェを見る。
(何が起きてるの)
この少女が事件を起こす。
(何が起きてるの)
アリーチェが事件を起こす。
(何があったの)
アリーチェが、人を殺す。
(これだけは分かる)
アリーチェは、笑う。
何かが、起きるんだ。
笑顔のアリスが、残酷なアリーチェが、城下町で、無差別の大量殺人を行う、何かが、起きるのだ。
「はい、ニコラ。フォーク」
「ええ」
あたしは微笑んで、手を伸ばす。
「ありがとう。アリス」
あたしは、アリーチェの持つフォークを、握って、受け取った。
第五章:おかしの国のハイ・ジャック(前編) END




