第19話 10月14日(3)
16時。家の前。
(はあ。着いた着いた)
ドレスの袖が揺れる。
(チェス楽しかったわね)
ソフィアとボードゲーム如きで盛り上がってしまった。
(さて、ドレスをハンガーにかけないと)
明日はどのドレスを着ようかしら。チラッとキッドの絵が書かれたバッグを見れば、親友のアリスの笑顔を思い出す。
(……でへへ)
ドアノブをひねると、鍵がかけられていた。
(ん、……留守?)
朝はキッドとじいじがいたはずだけど。
(出掛けてるのかしら)
苺ケーキに埋もれるキッドが付いた鍵を使って扉を開ける。中に入れば、やはり誰もいない。手を洗ってから静かな二階に上って、自分の部屋に入る。エコバッグを置いて、ジャケットを脱いで、クローゼットを開ける。中にあるハンガーにアリスから貰ったピナフォアドレスと、仮装用の衣装一式をかけてしまう。エコバッグはクローゼットの奥にぽいと投げた。
「よし」
完璧。
部屋にある鏡の前に歩く。あたしが映る。アリスのドレスを着たあたしがいる。くるくると回れば、アリスのものだったドレスがあたしに着られて揺れている。
「鏡よ鏡よ。鏡さん。この世で一番美しいドレスはどれ?」
それは、アリスのドレスです。
「そうよ。このアリスのドレスが、何よりも美しいドレスなのよ」
なんて素敵なドレスなの。
「……良い匂いがする」
くんくん嗅げば、太陽の匂い。
「本当に向日葵の花みたいね。アリスって」
あたしはテリーの花。アリスは向日葵の花。花同士で仲良くするの。
(大好き)
アリス、大好き。
(……あたしの親友)
頬が自然と緩んでしまう。
(ああ、言っておくけど、ニクスも好きよ。あたし、ニクスも大好き。ニクスがいてくれたら、あとはどうでもいいとさえ思ってしまうほど。でも、ニクスとアリスは違うの。アリスは、また違う種類で好きなの)
まるで許される浮気をしているよう。
ニクスは親友。アリスも親友。二人とも、あたしに笑顔を浮かべてくれる仲良しの友達。
(あたし、女の子で良かったわ。こんなに綺麗なドレスを着られて、アリスと親友になれて、ニクスとも親友で、あたし、今とても幸せよ)
くるくるワルツを踊る。
「ふふっ」
くるくる回れば、お腹が空いてきた。
「……」
(……お菓子ないかな)
回るのをやめて、部屋から出る。また一階に下りる。ラジオをつければ、部屋が電波音でにぎやかになる。
(……お菓子、……お菓子はどこだ……?)
がさごそ。
(果物ジュースでもいいわね)
がさごそ。
(何かないかしら?)
冷蔵庫をぱたんと開けてみる。あたしは目を見開いた。
「……。……。……え?」
ワインがある。
「ワイン?」
この家には、ワイン貯蔵庫がないはず。冷蔵庫に、安物のボトルがぽつんと置かれている。
「何これ?」
朝にはなかったのに。
「なあに? これ」
あたしの目が輝く。
「なぁに? これ? これ、なあに?」
あたしの目がきらきらと輝く。
「もしかしてこれは、ワインという名のジュースじゃなぁい?」
きらきらきらきらきらきらと、あたしの目が輝く。
「じいじ? キッド?」
周りを見る。
「誰もいない」
再び、冷蔵庫を見る。ボトルを見る。
「冷蔵庫に入ってるものって、大切なら名前を書いておくのよ」
見てみる。
「これ書いてない」
あたしは頷いた。
「きっと、あたしが見たことないジュースなのね」
あたしは頷いた。
「あたし14歳よ。お水だと思って飲んでしまうかも。まさかワインだなんて思わないわよ」
あたしは頷いた。
「本当、本当。ワインなんて見たことないわ。だってあたし、14歳の可憐なニコラちゃんだもの」
ちらっと周りを見る。後ろ。左。右。前。誰もいない。
再び冷蔵庫のボトルを見る。
「あー、喉が渇いた気がするー。いっぱい動いて喉が渇いた気がするー。そうよそうよ。喉が渇いたわ。あーん。喉が渇きすぎてあたし死んじゃうー」
ちらっと周りを見る。後ろ。左。右。前。誰もいない。
再び冷蔵庫のボトルを見る。
「ここにはサリアがいない。ギルエドもいない。ママもいない」
ボトルを見る。
「……ばれなきゃいいのよ」
あたしは考える。
「一口なら、大丈夫そうね」
よし、
「コルクを抜こう」
あたし、工場でワインボトルを開ける担当をしていたこともあるのよ。ワインを飲むためなら、その身に付けた技術を、胸を張って使うわ。あたしはキッチンからナイフを手に持つ。
(コルク抜きがなくても、ナイフがあれば)
「えい」
ぱこ、と音が鳴らしてコルクを抜く。中から酸っぱい匂いが漏れてくる。
「わああああああああああ……!」
あたしの目がきらきらと輝き、グラスにボトルを傾けた。中から赤色のワインが出てくる。
(なんてこと! 赤ワインだわ! あたし、赤ワイン、だーい好き!)
グラスギリギリまで入れて、ボトルをキッチン台に置く。
あたしはあまりの感動に口元を押さえ、きらきらしたおめめで、グラスに入った赤ワインを見つめる。
(ああ、何年ぶりかしら……? 久しぶりね。赤ワインちゃん。お元気だった? そうね。最後に飲んだのは死刑前の……)
指で数えて、その数に圧倒され、口を押さえる。
「……きっとこれは、女神アメリアヌ様から、あたしへのご褒美ね……」
あたし、沢山お仕事して頑張ったから、
「あたしへのご褒美なんだわ!」
「そうよ! そうに決まってる!」
「まあ、そんなわけで!」
「あたしの努力と罪滅ぼし活動の成功に向けて!」
「乾杯!!」
グラスを傾けると、あたしの喉を赤ワインが通過する。
「んっ」
ぱっと目を見開く。グラスを下ろして、あたしは感激の声をあげた。
「びぃぃぃぃぃいいいいいみいいいいいいいいいいい!!!!!」
美味すぎる!!
甘い! フルーティー!! 濃厚なのに舌触りがしつこくない!!
「すごいわ! 美味だわ! 美味! 美味!! 美味!!」
工場では一口サイズしか飲めなかった。これだけの量を、このテリーが飲んでると知れば、工場の連中は羨ましがるだろう。
「おほほほほ!」
あたしは最高な気分になって笑った。
「おーほっほっほっほっほっほっ! いい気味!」
また、ごくりと飲んだ。
「ほれ見たか! どうだ! あんた達があたしの分を少なく渡していたことも、あたしは知ってるのよ! 飲んでやる! その分も飲んでやる!!」
冷蔵庫に視線が移って、ぴこんとひらめいた。
「あ、そうだわ」
冷蔵庫を開ける。中にはチョコレートの袋。
「おつまみは大事よ」
あたしはにこりと笑って、ぱたんと冷蔵庫の扉を閉める。キッチン台に戻り、チョコレートの袋を開けて食べてみる。
「むきゅむきゅむきゅむきゅ」
グラスをもって、ワインを飲み込む。
「ごくごくごくごく」
ぷはっ!
「おかわり!」
大丈夫。ばれないばれない。だってボトルにはまだ沢山残ってるんだから。
(でも、立ち飲みなんてはしたないわ。しょうがないわね。座って飲みましょう)
リビングにグラスとチョコレートの袋と、ボトルを持ってくる。
「どっこいしょ」
椅子に座り、ふふっ! と笑う。
「これで終わりよ。このグラス分でおしまい。あとはチョコレートをいっぱい食べればいいわ」
グラスぎりぎりまで赤ワインを注いで、ボトルを立てて置く。
「いただきます」
飲み込む。
「はぁぁぁぁあああ」
濃厚な舌触りに、ため息が出る。
「素晴らしい……」
ワインを飲む。
「濃厚。甘い。さわやか。フルーティー……」
あたしは目頭を押さえた。
「あたしは最高に至福よ……!」
体を震わせる。
「んふふふふふ……!」
ワインを飲む。
「ふふふふ!」
ワインを飲む。
「あははははははは!」
ワインを飲む。
「メニーめ、ざまあみろってんだ! テリーお姉様は今超幸せなのよ! 美味しいワインを飲めて、ドレスまで着られて! ばーか! メニーのばぁーーか! だいたいねえ! 全部あたしのお陰じゃない! あんたが結婚出来たのもあたしのお陰じゃない!」
ワインを飲む。
「メニーみたいな恩知らず、あたしは知らないわ! 今までずっとドレスも髪飾りも靴だってリサイクルで出してあげてたのに、なぁあああんでよりにもよってリオン様と結婚するわけぇえ!? あのねえ! リオン様と結婚するのは、このあたし、テリー様なのよ! なのに殿下も殿下よ! あの猫かぶり女のどこがいいわけぇ? おかしいわよ! いかれてるわよ!」
ワインを飲む。
「ママもなんでギルエドを解雇したわけぇ? たかが『豪華客船が沈んだ』だけじゃない! 弁護士立てて、紹介所であたしかアメリを働きに行かせれば、ぎりぎり破産なんてことにもならなかったのよぉ! あれ? 紹介所なかったんだっけ? あはははは! つーか! サリアを解雇した時点でアウトよ! アウト! なんでサリアを解雇しちゃったわけ!? あたしのお姉ちゃんを取らないでよ!!」
ごくりと飲み干せば、グラスにワインがなくなった。
「おっかわりー!」
大丈夫。ばれないばれない。またグラスに同じ量、ぎりぎりまで注ぐ。
「ひっく」
チョコレートを食べる。
「ていうか、誘拐事件で死んだガキがキッドだったなんてねぇー! まさかまさかの偶然よ! キッドが死んでたらまた同じ道を辿ってたってことかしら? あはははは! あたしに感謝しなさい! クソガキ! 世界の救世主はこのあたし、テリー・ベックス様よ! メニーじゃない! このあたし! テリーよ!! あははははははは!!」
ワインを飲む。
「はっ!! あたしったら、髪を下ろしてるなんてはしたない。あたし、つーさいどあっぷじゃないと嫌なの!」
あたしはエプロンのポケットからリボンを取り出し、髪の毛を結ぶ。上手く結べないから、もうこれでいい。めちゃくちゃに結んだ髪の毛を放置する。
「だいたい! メニーなんて偉そうに椅子に座ってただけじゃない! あいつが工場にあたし達の様子を見に来るたびに虫唾が走ったのよ! あーあー! あの目が本当に大嫌い! メニーなんて大嫌い!! 色々してやったあたしは馬鹿よ! 大馬鹿よ! ばぁーか! メニーのばぁーか!!」
ワインを飲む。
「あーあ! しんどい! 明日も鞭打ちかしら!? 背中がひりひりするのよ! もー! やんなっちゃう!」
ワインを飲む。
「ジョニー! ケビン! ハンス! セーラ! 今夜はパンじゃなくて、チョコレートよ!」
ワインを飲む。
「あれ? いないんだっけ? まだいないんだっけ? ああ、そっか! 四匹とも牢屋で会うんだもの! ここにはいないんだわ! あれ? ここ、どこだっけ? あはははははは!」
あら、いけない。グラスにワインがなくなったわ。
「おかわりおかわりー! じゃんじゃん飲みまくれぇー!」
おぼつかない手つきでグラスのぎりぎりまで注ぐ。
「セーラは可愛いわよねえ……。なんで雌の鼠ってあんなに可愛いのかしら。無邪気で活発でいつもジョニーとケビンとハンスを困らせてたわねえ……。ああ、会いたいわ……。まだ生まれてないんだっけ……?」
ワインを飲む。
「ねえ、あたしいつになったら、ここから出られるのぉ? アメリー? ねえねえアメリー? 昔の話でもしましょうよ。あたし達が金持ちだった頃の話よ。あの頃はあたし達も若かったわよねえ。我儘し放題で。あ、覚えてるぅ? あんたがリボンを私のものって言って、でもそのリボンはあたしのもので、やめて引っ張らないでって二人で喧嘩になってぇ、リボンがびりって破けたら、もういらなーい。ぽーい。ってあんたがあたしのリボンを捨てるのよー。もう本当に最低なお姉ちゃんよ。あんたは」
ワインを飲む。
「だからねぇー? あたしはぁー、そんなお姉ちゃんになりたくないと思ってねぇー? 妹が出来るって聞いた瞬間、優しいお姉ちゃんになろうって決めたのよぉー? 初めてメニーに会った時のこと覚えてるぅー?」
教会だったわねぇー。
「あたしもアメリもお洒落して、結婚式に行ったのよねー」
メニーはあの男の後ろに立ってた。
「目が合ったのよ」
初めて見た時に、
「なんて素敵な青い目なのかしらって思って」
あたし、笑ったのよ。
「笑ったら、メニーは笑い返してくれたわ。少し、不安そうだったけど」
この子があたしの妹なんだって、思ったのよ。
「嬉しかったわ。だって、ずっと欲しかった妹が出来たんだもの」
でも、どうしてかしらね。なんでメニーって、使用人同然の扱いをされたんだっけ?
「使用人が皆屋敷からいなくなったのよねぇー。一人、また一人いなくなって、メニーがその分全部家事をやって。あ、そうだ。アメリ、メニーの手見たことあった? あの子ね、手がぼろぼろなのよ。ほら、皿洗いとか掃除とか、水仕事が多いでしょう? だからねぇー、あたしはメニーの肌に合うものを覚えておいたのよぉー。どうやったと思うー? あたしねぇー、すごいんだからぁー」
イベントの日に、メニーの部屋にプレゼントを置いておくのよ。それで、手を観察するの。
「手が荒れてたら、そのクリームはメニーに合ってない。手の荒れが治ったのなら、そのクリームはメニーの肌に合ってた」
ならばその成分が入った化粧水を渡せば、メニーのお肌って保たれるのね。アメリ、乙女に肌は大事なのよ。
「メニーの誕生日なんてねえ、もー、大変だったのよぉー。ママとアメリとメニーにばれないように、深夜の皆が寝静まった頃にね、魔法使いのふりをして、プレゼントを、メニーの枕元に置くのぉー。もういつ起きるかひやひやしながらあたし用意してたのぉー。時々ねー、宝石とかぁー、装飾品だとかも置いたことあるんだけど、あの女、まーーーーーったく喜ばないからもう大変なのよぉー。引き続き化粧水とかぁー、クリームとかぁー、肌にいいもの渡してあげてたのよぉー。しかも全部安物なのよー。あいつの肌は安物の化粧水で塗り固められてるのよぉー。でもしょーがないわよねぇー。そうしないとメニーの肌が荒れるんだからぁー」
ワインを飲む。
「はあ」
息を吐いて、頭をテーブルに置き、グラスを眺める。
「メニーってね、寝顔も可愛いのよ……」
あたしは微笑んだ。
「時々、テリーって呼んでくれるの……」
あたしは微笑んだ。
「寝言で、あたしの名前を呼んでくれるの…」
あたしは微笑んだ。
「ふふっ……。可愛い……。……メニー……」
その顔を、思い出す。
「……愛してるわ……。……メニー……。……あたしだけの……可愛い妹……」
あたしは呟いた。
「……あたしのメニー……」
あたしは微笑んだ。
「アメリ、知らないでしょー……。……メニーね、あたしのことお姉様って呼ぶのよ。……普段はテリーだけど、二人になったらそう呼べって……あたしが言ったのよ」
ひっく。
「だって、妹だもの! 当然でしょう? なんでメニーだけが酷い扱い受けなきゃいけないわけ? 妹よ? あたしの妹! 本当はもっと一緒に遊びたかった。一緒にドレスを選びに出掛けたかった。……まあ、出かける時は、いつもママとあんたがいたから、メニーと二人で出掛けるなんて出来なかったんだけどね」
あたしは笑った。
「あたしねー、行方不明の友達がいるんだけどねー? 名前も忘れちゃったんだけどー、そいつにねー? 昔、同情でもいいから、そんなに大切なら妹を嫁ぐ先に連れて行けって言われたの。だからねー? あたしは喜んだのよ。大好きなリオン様がお嫁さんを探してるって聞いて。とうとうチャンスが巡ってきたわと思って、あたしは、舞踏会に行ったのに」
目が鋭くなったと同時に、体を起こした。
「なんでメニーが舞踏会にいたわけ?」
「なんでガラスの靴を落としたわけ?」
「なんでリオン様と良い感じになってるわけ?」
「だって、挨拶しに行った時、リオン様はあたしに目もくれなかったのよ」
「いっぱいお化粧して、可愛くして、綺麗なドレス着て行ったのに」
「リオン様がダンスに誘ったのは、メニーだったのよ」
「ドロシーに魔法をかけてもらったメニーだったのよ!」
「そうよ!」
「悪いのは全部メニーとドロシーなのよ!」
「あははははは!!」
ワインをぐいと、飲み干した。
「あたしを死刑にしたメニー様とリオン様と、魔法使いのドロシーが悪いのよおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!! ああああああああああああああああああ!!!!」
叫んで、空になったグラスを置いて、ボトルを手に持つ。
「んふふ! おかわりぃ! っふふ! ふふふふ!」
またグラスに同じ量、ぎりぎりまで注ぐ。もう出てこない。
「あれ?」
出てこない。
「空になっちゃった」
軽くなったボトルをそっと置いて、ばたんとテーブルに突っ伏する。
「あーあ! 死刑かあー! あーあ! 死にたくなーい! もっと人生謳歌したーい! ずっと牢屋で過ごして華の二十代も終わって! あーやだやだやだやだー!」
体を起こして、ワインを飲む。
「ひっく」
チョコレートを食べる。
「っく」
チョコレートを食べる。
「美味ね。これ」
ワインを飲む。
「ごくごくごく!」
ごくりんこ。
「ふーう!」
あたしは手拍子した。
「ジャック! ジャック! 切り裂きジャック!」
あたしはまたテーブルに突っ伏した。
「あたし、まだ死にたくない!」
いきなり、テーブルを叩き始める。
「でもね、聞いて、ジョニー! あたしが殺される前にね! きっと、白馬に乗った王子様が現れて、こう言うのよ!」
お待たせ。お迎えに参りました。プリンセス。
「王子様、うふふ! あたしだけの王子様!」
きっと、死刑執行直前に、
「あたしを救い出してくれるのよ!」
「助けに来てくれるのよ!」
「白馬に乗った、あたしだけの王子様!」
「あたし待ってるの!」
「だって待つことしかできないから!」
「こんな牢屋で自分から行動なんて、自殺行為よ!」
「だから待ってるの!」
「ずっと待ってるの!」
「ずっとずっとずっとずっと、王子様を待ってるの!!」
「王子様……」
あたしは微笑んだ。
「リオン様……」
あたしは呟いた。
「……レオ……」
その瞬間、がちゃりと、玄関の扉が開いた音が聞こえた。
(ん? 看守?)
「ただいまー。テリー、いる?」
声が聞こえて、しばらく廊下を歩いてくる音が聞こえて、リビングの扉が開く。現れたのは、青い髪の、青い瞳の、それはそれはとても美しい、若い紳士。
一瞬にして、あたしの頭から、リオン様が消え去った。
「はっ!!」
どきゅーーーーん! と胸を恋の矢で撃たれる。あたしの目の形がたちまちハートに変わった。
「誰!? 超イケメン!!」
「ん?」
「きゃー! かっこいい!」
「え?」
若い紳士があたしの前にあるボトルを見た。
「あれ?」
若い紳士があたしに近づいた。
(きゃあああああああああ!!)
口を押さえて若い紳士に見惚れる。うっとり。若い紳士が空になったボトルを手に持って揺らしてみた。
「おー……。……こいつは……」
くすっと笑って、ちらりとその青い目が、あたしを見る。
「これは、君が飲んだのかい? レディ」
「は、はい!」
「へえ」
若い紳士がにやっとして、あたしに顔を近づける。
「いけない子だ」
顎を掴まれて、くい、と上に上がったと思えば、若い紳士が、真っ直ぐあたしを見つめてきた。あたしの顔に、熱がぶわぁあ、と集まってくる。
「あぇっ……」
「くくくっ。お前、顔赤いぞ?」
「あ……ああ……あの……」
「怒られても知らないよ」
まあ、
「俺は悪い気分じゃないけど」
「どうした?」
今度は白い髭の生えたお爺さんが部屋に入ってくる。
「む?」
あたしと、あたしの顎を掴む若い紳士と、空になったワインボトルと、空になったグラスと、開けられたチョコレートの袋を見て、黙り込む。
「……。……。……。……」
「じいや、俺は悪くないよ」
若い紳士があたしから手を離して、二歩下がった。
「キッドや」
「はい」
「水を持ってこい」
「はい」
若い紳士が走り、水が入った容器を持ってきて、新しいグラスに注いだ。
「テリー、水だよ。飲んで」
「……水はいらない」
ぷいっと水から顔を逸らす。
「あたしは! ワインがいい!」
「……。……。……。……」
「じいや、俺は悪くないよ」
「……。……。……。……」
「分かった。婚約者として、何とかしてみせよう」
若い紳士が笑い、あたしの背中を優しく叩く。
「テリー」
名前を呼ばれて見上げると、若い紳士が微笑んであたしを見つめている。
(ぎゃっ! イケメンの微笑み!!)
ぽおおおおおっと見惚れる。
「ねえ、俺からのお願い。水、飲んでくれない?」
「の、飲まないって言ったら?」
「……そうだな」
若い紳士がそっと手を伸ばして、あたしの唇に触れる。
「口移し、しちゃおうかな……」
「ぎゃひっ!!」
目をハートにさせて、あたしは自分の両手を握る。
「そ、そんなことされたら、あたくし、気絶しちゃいますわ!」
「じゃあ、飲んでくれる?」
「飲みますわ! 喜んで飲みますわ!」
「良い子だね。愛してるよ。テリー」
若い紳士が顔を近づけさせて、あたしの頬にキスをした。
(へ……?)
初めてキスされた。
(家族以外、キスなんてされたことないのに……)
イケメンに、キスされちゃった……。
(初めての……キス……)
頬に柔らかい感触。
(ああ、もう駄目……!)
あたしの心臓がどきゅんと跳ね飛んだ。
「ぎゃんっ!!」
「おっと」
背中から地面に倒れる。目が回る。くるくる回ると、若い紳士が見下ろしてきた。
「おーい。テリー、大丈夫かー?」
「はいぃぃいい……! らいひょうふへすう……!」
「パンツ見えてるぞ。ほら、ドレス押さえて」
「は、はぃいい……!」
肩を抱かれて起こされる。あたしの視界にはもうこの超イケメンで埋め尽くされる。
(ああ! なんて美しいのかしら! きっとこの人が、あたしの運命の王子様に違いないわ!)
瞳がきらきらきらきら!
イケメンもきらきらきらきら!
「はい。テリー。水飲んで」
「はーい!」
ごくごくごくごく。
「おかわりいる人ー!」
「はーい!」
ごくごくごくごく。
「もういっちょー!」
「はーい!」
ごくごくごくごく。
「……お、お手洗いはどこですか……?」
「こちらに。レディ」
「はひっ!」
若い紳士に手をそっと握られて、腰を支えられて立ち上がる。あたしの心臓はばくばく。
「だ、駄目です! 入籍前の男女が、こんなに接近するだなんて!」
「接近しないと、美しい貴女にエスコートが出来ません」
「う、美しいだなんて……! そんなこと、初めて言われました……!」
足元がおぼつかない。
「あ、あたし、こんなに優しくされたことがなくて!」
足を踏む。
「あっ! ごめんなさい!!」
「大丈夫?」
「ご、ごめんなさい……。痛かったでしょう……?」
「痛い? まさか。まるで重さを感じませんでした。貴女はひょっとすると、天使の羽でも生えているのでは?」
「て、天使だなんて……」
ぽっ。
「なんてお優しい方なのかしら……」
「さあ、着きましたよ。レディ」
若い紳士が扉の前で立ち止まる。
「さ、どうぞ」
「ご親切にどうもありがとう……」
「ごゆっくり」
若い紳士に見惚れながらお手洗いの部屋に入り、扉を閉めた――途端に、一気に気持ち悪くなる。
(あ、何これ……。……吐く……)
便器に顔を埋めて、口を開くと、簡単に胃の中のものが吐き出された。
おろろろろろろろろろろ! おろろろ! おろろろろろろろ!!
「げほっげほっ」
「げほげほげほげほげほ!」
「おろろろろろろろろろ!」
便器の水がべちゃべちゃと跳ね飛ぶ。
「おえっ!」
おろろろろろ! おろろろろろろ! おろろろろろろろ!!
(いいいいいいいいいいい!!)
おろろろろろろろろろろ! おろろろ! おろろろろろろろ!!
おろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろ!!!!
「……」
「……。……」
「……。……。……。……。……。……」
ぶるぶると体が震える。
(……え、何これ……)
急に寒気がやってくる。
(何……? あたし、どうしちゃったの……?)
……あたし……?
(ん……? ……ん……?)
(……あたし、誰……?)
(ここ、どこ……?)
「ひっ!」
今度はお腹がぐるると唸りだす。
「いいいい……! お腹痛い……!」
泣きそうになりながら、一度上から出したものを流してから、下からのものを処理する。
「ううううう……」
唸りながら出して、出して、とにかく出して、胃の中がもやもやして、もうとにかく全部出そうとして、でもこれ以上出なくて、頭ががんがん痛くて、フラフラして、トイレを流して、手を石鹸で洗って、うがいもきちんとして、タオルで手もきちんと拭いて、きりっとして、毅然として、扉を開ける。
「……おえっ」
そこで力尽きて、床に倒れる。
「あーあ」
誰かの声が聞こえて、肩をつんつんされる。
「もう。成人してないのに、お酒なんか飲むからこうなるんだぞ。テリー」
「……。……。……」
「じいや、テリーの意識がないよ」
「……起きたら説教だ……」
「じいや、俺は悪くないからね」
あたしの体が宙に浮かぶ。誰かに体を抱えられた。足が宙ぶらりんりん。
「テリー、大丈夫?」
「気持ち悪い……」
「だろうね」
「あのね……」
誰かに返事をする。
「世界が回ってるの……ぐるぐる回ってるの……」
「じいや、この悪い子寝かせてくるよ」
「ああ」
「うううう……」
あたしが唸ると、あたしを抱えた誰かが歩き出す。
「ねんね、ころりよ、おこーろーりーよー」
「うるせえ……誰よ……耳障りな声ね……」
「うわあ、すげえ野太い声」
誰かがくくっと笑って、あたしの体を揺らす。どこかへ向かう。世界が変わる。視界が変わる。さっきの部屋とは違う部屋に移動される。誰かが扉を開けて、部屋に入る。何歩か足を進ませて、ベッドに座る。
「よいしょっと」
あたしの背中を叩く。
「ほら、テリー」
起きて。
「ん……」
瞼を上げる。
「あ……」
貴方が、ここまで連れてきてくれたの?
王子様。
あたしの、たった一人の王子様。
「ほら、テリー、ごろんして」
「うん」
あたしはふにゃ、と笑って、そいつに言った。
「分かったわ。レオ」
あたしはベッドに、ごろんと倒れた。
「明日はどこに行くの?」
深く、呼吸をする。
「レオ、あたし、だるくて……」
ため息をついて、深呼吸。
「レオ……」
深呼吸して、
「寒い……」
息を大きく吐く。
「……あっためて……」
気持ち悪い。
「レオ……」
気持ち悪い。
「はあ……」
大きく、深呼吸。
「……」
「……」
「……あー、もう怒った」
キッドが無線機を取り出した。
「誰か、人探し」
チッ。
「レオって奴を探せ」
冷たい声が無線機を切った。
( ˘ω˘ )
ジャック ジャック 切り裂きジャック
「……」
切り裂きジャックを知ってるかい?
「……」
ジャックはお菓子がだぁいすき!
「……」
ハロウィンの夜に現れる。
「……」
ジャックは恐怖がだぁいすき!
「……」
子供に悪夢を植え付ける!
「……」
回避は出来るよ! よく聞いて。
「……」
ジャックを探せ。見つけ出せ。
「……」
ジャックは皆にこう言うよ。
「……」
お菓子をくれなきゃイタズラするぞ!
「……」
ジャックは皆にこう言うよ。
「トリック! オア! トリート!」
「ねえ」
「ン」
「あげる」
「オ菓子ダ!」
「ふふっ」
「ヤッタヤッタ!」
そっ。
「……」
「怖いもの見せてよ」
にこりと笑う。
「そしたら、このお菓子あげる」
「……」
「ほら、早く見せてよ」
皆でジャックを怖がろう。
お菓子があれば、助かるよ。
皆でジャックを怖がろう。
お菓子が無ければ、死ぬだけさ。
ジャック ジャック 切り裂きジャック
切り裂きジャックを知ってるかい?
ジャック ジャック 切り裂きジャック
切り裂きジャックを知ってるかい?
「……この程度?」
ジャック ジャック 切り裂きジャック
「ふふっ」
切り裂きジャックを知ってるかい?
「ふふふふふっ」
切リ裂キジャックヲ知ッテルカイ――?
「全然怖くないわよ。ジャック」




