第18話 10月13日(1)
チチチチ、と、鳥の鳴き声が聞こえてくる。
「……ん……」
掠れた声を漏らして、瞼を上げた。そして、見慣れない天井に眉をひそめる。
「ん……?」
……どこ、ここ? 見渡せば、どこかで見たことのある部屋。ちらっと居心地の好い毛布を見て、きょとんとする。
(……あたし、なんでキッドの部屋で寝てるわけ? ……キッドは?)
むくりと起き上がり、ベッドの傍にある時計を眺める。9時14分。
「ふああ」
欠伸をして、ぼうっとする。
(……起きよう。午後の支度しないと)
ベッドの傍にあったスリッパを穿いて、部屋から出る。見ると、やっぱりキッドの部屋だった。あたしの部屋はその隣。
(……昨日、どうやって寝たか記憶がない……。……ジャックに消されたかしら?)
馬鹿なことを考えながら一階に下りると、じいじが珈琲を飲んでゆったりしていた。あたしに気付いて、じいじが微笑む。
「おはよう。ニコラや」
「おはよう」
きょろりとリビングを見て、階段を下りる。
「……キッドとスノウ様は?」
「早朝に出て行かれた。昼から見回りの仕事があるらしくてな」
「ふーん……」
あたしは座るじいじを見下ろした。
「じいじ、キッドって昨日どこで寝たか知ってる?」
「ん? 自分の部屋に寝とったぞ」
「……うん?」
あたしは眉をひそめる。
(あたしがいたのに、自分の部屋で寝たの……? どういうこと……?)
一緒に寝たわけじゃあるまいし。
「……」
(まさか、一緒に寝たの?)
「ん? どうしたんだい? ニコラや。お腹が痛いのかい?」
「……なんか、すごく寒気がしてきたわ」
顔を青ざめながら、リビングの椅子に座る。
「お腹空いた」
「今日はゆっくり過ごすのかい?」
「いや、午後から出かける。あたしの友達のアリスと遊びに行くのよ」
「ほう。楽しんでおいで」
「……場所さえ良ければね……」
ため息混じりに言うと、じいじがきょとんとした。
「うん? 変わった場所なのか?」
「……キッドのグッズ販売会場だって」
「ほう」
じいじが面白そうに、にやりとして、あたしに頷いた。
「……楽しんでおいで」
「……嫌な予感しかしない……」
あたしは青い顔で、深くため息をついた。
(*'ω'*)
12時55分。中央区域。噴水前。
待ち合わせ場所へ歩いていくと、アリスが既に立っていた。
「ニコラー! こっちこっちー!」
アリスがあたしの姿を見つけて、大きく手を振る。
今日はアリスの雰囲気が少し違う。いつもの可愛い系のピナフォアドレスではなく、大人っぽい、濃い青色のピナフォアドレスを着ていた。普段の色も素敵だが、こっちもなかなか大人っぽくて魅力的だ。
(ああ、ドレスが恋しい……。羨ましい……)
「お待たせ。アリス」
「むふふ! 戦場に行く準備はいい!?」
アリスが目を輝かせて、拳を握った。
「さあ、ニコラ! 行くわよ! いざ尋常に!」
「イベントって何時から?」
「あと三十分後」
金のチェーン時計をポケットから取り出し、アリスがその針を見て、目を鋭くさせる。
「いい? ニコラ。城下町限定のイベントよ。この日のために遠くから来る人もいるんだから!」
「……それ、ぎりぎりに行って間に合うの?」
「今日のイベントはね、なんと予約制なの」
「予約制……?」
「抽選に当たったのよ! ふふっ! ニコラ、私に誘ってもらえて、すごく運がいいんだからね!」
「ああ……そうなの……」
あたしの眉間に皺が増えると、アリスがにやりとした。
「一人につき、一Tシャツ。お揃いの買いましょうよ」
「あたしはいい」
「えっ!? で、でも、キッド様のTシャツよ? ニコラ!」
「……Tシャツは、着ないから……」
「え、じゃあ、……あの、ニコラ、私、二枚買ってもいい? ニコラがいるから、ほら、一人一枚だから……」
「どうぞ」
「……ありがとう。ニコラ……! 私、二枚買うわ!!」
感激するアリスに、あたしは哀れな目を向ける。
(……それでいいの? アリス)
しかし、わくわくするアリスの輝く目を見ていると、とても別のものを買いなさいとは言えない。そんなものを買うんじゃないなんて、言えない。そんなわくわくする笑顔に、何も言えない。
(このあたしが……何も言えなくなるなんて……!)
アリスの笑顔、おそるべし!!
「さあ! 行きましょう! いざ、楽園へ!」
輝く笑顔でそう言われて引っ張られ、会場へ移動する。歩きながら、アリスが元気に歌う。
歩こう 歩こう 私は歩こう
キッド様を求めて どんどん 歩くわよ
坂道も トンネルも レンガの道も
橋も 砂利道も ニコラと一緒
蜘蛛の巣くぐれば 会場よ
辿り着けば、その行列の多さに、あたしはぎょっと顔を青くさせる。
「は!?」
『これより販売開始します!』
メガホンを持ったイベントスタッフが言うと、一気に行列がなだれ込む。
「は!?」
「ニコラ、行くわよ!!」
アリスと手を握り合って、なだれこむ人々に紛れて、アリスがもみくちゃにされながらTシャツを二枚購入する。
「は!?」
「キッド様のTシャツばんざーい! うええええん! やったああああ!」
泣き喚くレディ達に目を見開いて、唖然とする。
「は!?」
「キッド様の仮装をしてみたの!」
「きゃー! すごーい!」
キッドの姿を真似している人々を見て、顔を青ざめさせる。
「は!?」
「おおおおお! キッド様! 美しいいいい! 大好きだあああ!!」
キッドのポスターを持って愛を叫ぶ紳士の集団がいて、暑苦しい光景に呆然とする。
「は!?」
「キッド殿下は私の孫みたいなもんでのう」
「いやいや、私の孫みたいなものですぞ」
「いえいえ、わしの孫みたいなもんでのう」
キッドをイメージしたお茶を飲みながら、年配の集まりがキッドを孫にしたがる話で盛り上がっていて、目を丸くする。
「は!?」
「キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳!」
呆然とその会場を見つめる。
異様な空気を感じ取る。
あたしは悟った。
ここは、この会場全体、キッド信者のはびこる世界なのだと。
「キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳!」
(こ、こいつら……! いかれてやがる!)
「キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳!」
(な、なんておぞましい光景なの……!?)
Tシャツの販売会場を見れば見るほど、キッドのポスターが、キッドのストラップが、キッドのハンカチが、キッドキッドキッドキッドキッドキッドキッドキッドキッドキッドキッドキッドキッドキッドキッドキッドキッドキッドキッドキッドキッドキッドキッドキッドキッドキッドキッドキッドキッドキッドキッドキッドキッドキッドキッドキッドキッドキッドキッドキッドキッドキッドキッドキッドキッドキッドキッドキッドキッドキッドキッドキッドキッドキッドキッドキッドキッドキッドキッドキッドキッドキッドキッド。
「キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳!」
あたしは顔を青ざめて、叫ぶ群衆を呆然と見つめる。
「ほら、ニコラ! ニコラも叫ぼうよ!」
わくわくして目を輝かせたアリスが、呆然と立ち尽くすあたしの隣で、洗脳じみた声で、叫んだ。
「キッド様万歳!!」
アリスが叫ぶと、周りも負けじと叫びだす。
「キッド殿下万歳!!」
「キッド殿下万歳!!」
「キッド殿下万歳!!」
(ひぃ!)
キッドの信者が、どれだけ叫べるか争ってる!
(ここにいたら、アリスまで頭がいかれてしまう……!)
あたしは、友達のアリスを見捨てない! ぐっと拳を握って、アリスを見る。
「アリス! 外に出るわよ! ここは非常に危険だわ! 異常に以上に危険だわ!」
アリスの手を握り、会場から出ようと一歩踏み込みと、イベントスタッフがメガホンで叫んだ。
「ただいまより! こちらで限定キッド様ポーチを販売します!」
「何ですって!?」
「無くなり次第終了です!!」
「なぁあああんですってえええええええええええ!!!?」
アリスが叫んで、あたしの手を握りしめて、引っ張った。
「なっ……! アリス!?」
「行くわよ! ニコラ! キッド様の限定ポーチ! ポーチ!」
「ポーチ如きで、アリス……!」
「いっくわよおおおおおお!!」
もうあたしの声が聞こえなくなったアリスが、あたしを引っ張って販売カウンターに向かう。しかし、他の人々も負けてない。皆、全力疾走でそのカウンターにあるキッドの絵が描かれたポーチを求めて、男も女も、老若男女関係なく、皆が手を伸ばす。アリスが必死に手を伸ばし、ポーチを取り、上に掲げた。
「とったどーーーーーー!!!」
ちゃりん! とお会計。
「戦利品よ!!」
アリスが大喜びする。
「やったわ! 私、やったのよ!!」
アリスが飛び跳ねて喜ぶ。
「キッド様万歳! キッド様万歳! キッド様万歳! キッド様万歳! キッド様万歳!」
「ひぃ!」
アリス以外の人々も、叫ぶ。
「キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳!」
「ひいいい!」
(キッド菌の中毒が、この会場を支配している……!)
(くそ! あたし一人では、為す術がないわ!)
(ここにいたら、あたしまでもキッド菌の中毒によって、洗脳されてしまう!!)
(まずは、アリスの目を覚まさなければ!)
あたしは、友達のアリスを見捨てない!! ぐっと拳を握って、アリスを見る。
「アリス!」
またアリスの手を握った。
「一旦退却よ! これは訓練じゃない! 本番なのよ!!」
そう言ってうっとりするアリスを引っ張って会場の出入り口に走ると、
「キッド様万歳!」
「ひえっ!?」
胴上げの嵐。
「キッド様万歳!」
「ひえっ!?」
キッドの扇子を持ちながら踊るマダム達。
「キッド様万歳!」
「ひえっ!?」
山に向かって叫ぶ人達。
「きっどひゃま、ぱんっひゃいっ」
「……あら……」
万歳する可愛い子供達。
「キッド様万歳!」
「ひえっ!?」
川に飛び込む人たち。
「キッド様万歳!」
「ひえっ!?」
キッドの賛歌を歌う合唱団。
「キッド様万歳!」
「ひいいい!?」
唄う人々。
「キッド様万歳!」
「キッド様万歳!」
「キッド様万歳!」
「キッド様万歳!」
「キッド様万歳!」
「キッド様万歳!」
「あ……あああ、ああああ……」
あたしは恐怖と絶望に顔を歪める。この人々は、キッドに心を奪われてしまった哀れな人達だ。全部、キッドのせいだ。キッドが心を惑わしたんだわ……!
(あいつはなんて恐ろしい魔王なの……!)
膝ががくがくがくがくがくがくがく!! 体がぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶる!!
「あ、アリス……」
アリスの顔を見ると、アリスが生気のない目で微笑んで、あたしに言った。
「キッド様万歳」
「え」
「キッド様万歳」
アリスが思いきり叫んだ。
「ニコラも一緒に! せーの!!」
キッド様万歳!! キッド様万歳!! キッド様万歳!!
「ああ……! そんな! アリスが! アリスまでもキッドの呪いにかかってしまった……!!」
キッド様万歳!! キッド様万歳!! キッド様万歳!!
「いいいいいいいいい! やめて……! やめてアリス……! こんなこと! そんな!! アリス……!!」
耳を開けばキッド様万歳!!
目を開けばキッド殿下万歳!!
辺りを見渡せばキッド様万歳!!
胴上げ、唄、声、喋りに愛情、すべてのすべてがキッド様だったりキッド殿下だったり、キッドとキッドとキッドとキッド。
キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳!
あたしの目がくるくる回る。
キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳!
洗脳されるように、影響を影響に影響で反響して木霊して聞こえてくる。
キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳! キッド殿下万歳!
――あたしは、キッド殿下にとらわれた。
「き、きっどでんか……ばんざい……」
白い目で、青い顔で呟く。隣で興奮したアリスが、汗をかくまで笑顔で叫ぶ。
「キッド様万歳! キッド様万歳!!」
「きっどでんか……ばんざい……」
「キッド様万歳! キッド様万歳!!」
「きっどでんか……ばんざいぃ……」
目がくるくるくるくるくるくる回る。
(いかれてる……)
(いかれてる……)
ここは、キッドでいかれた人達の集まり。
「キッド様万歳! キッド様万歳!! ばんざいいいいいいい!!」
アリスは、それはそれは、楽しそうに叫び続ける。




