第36話 分け身の王女の壁になる〜2
「イテテテテ……」
下駄で背中を蹴飛ばすなんてひどい“姫様”もいたものだ。栄生に蹴り飛ばされたリクは、枯れ葉にまみれて8回転、背中をさすりながら起き上がった。
参道脇の森の中は強い草木の匂いがした。きっと雨のせいだろう、とリクは思う。木々を抜けてくる風は12月だというのに少し暖かい。風は立ち込める霧をうねらせ、湾曲しながら吹いてくる。枯れ葉に埋まった足を踏み出すと、パリパリと音を立てた。その音がやけに大きく耳に届く。
リクは大きく息を吸い込む。これはいったいなんだろう──何もかもがクリアに感じられる。目も耳も鼻も、まるで五感すべてが敏感になったような、感覚そのものが更新されたような、そんな感じだった。なにより身体が熱い。膝の熱が全身に広がって、濡れた制服を脱ぎたくなるほどだ。
栄生は調子が悪いのだろうか?
森の端、参道との境目からだと、巨大な“かまいたち”と栄生の戦闘がよく見えた。
それは巨大な化け物と戦うゲームみたいだった。前脚と鋭い尾の連続攻撃、その合間に繰り出される咆哮。栄生はその攻撃を紙一重でかわし続けていた。
どういうわけか、互いの動作が遅く見える。激しく降る雨の影響だろうか──昨夜、道玄坂で見た栄生とは別人のようだ。あれは明滅するストロボの中を動くような、言わば瞬間移動みたいな速さだった。栄生は一瞬で現れ、文字通り消えたのだ。
しかし今の栄生の動きは、リクの目でも十分に追えた。“妖術戦”というものはこんなものなのだろうか。さっきのふたりは動きにキレがなかった。この変身したかまいたちに至っては、さらに速度が遅い。
(栄生の戦術、あるいは手加減だろうか。苦戦しているようにしか見えない……というか、なんで俺を蹴飛ばしたんだ?)
長いムチのような尾が、複雑な軌道を描いて振り下ろされた。栄生は半身になってかわすが、尾の先端の刃が肩口のあたりをかすめる。
(尾っぽが鎌みたいになってる!? あれが妖術……か?)
『勝てないかもしれないけれど、負けないかもしれない』
無責任に励ました自分に後悔していた。でもこうして離れて見れば、決して勝てない相手ではないとリクは確信する。
──見える。あれなら俺でもかわせる。でも倒し方が分からない。
「栄生!」
リクは叫びながら森を飛び出した。
「リク? どうして戻ってきたの!」
「こいつは俺が引きつける。その間に何か策を考えて!」
「引きつけるって……無茶だよ!」
「任せて。たぶん大丈夫だと思う。それと風ちゃんはどこ?」
「木の上で寝かせてるよ。余裕ないもん」
「すぐに起こして! 目が欲しい」
「目?」
「視界を共有できるなら、木の上からも観察できる」
「あ、あのね! 簡単に言わないで!」
余裕をなくした栄生に、リクはにっこりと微笑む。
「俺が引きつける。栄生は“ふたつの視覚”でアレの動きを見極める。必ず隙がある」
言いながら、俺は何を言ってるんだろう、とリクは思う。妖との戦いなんて初めてなのに。さっきまであんなに怖かったのに……。
けれど、空から落ちたとき、自分の中で何かが変わった感触があった。カチリと音を立てて、レールが切り替わったような感触。ふわりとした温もり、懐かしい温もり、点のような温もり……。
水の中へ墨を垂らしたように、不思議な感覚が広がっていく。
茜色に染まった西の空、錆びついたブランコ、長く伸びた自分の影、2匹の小さなかまいたち──なんでこんな事を思い出す?
いや、それは後で考えよう。今は──
かまいたちは威嚇するように2本足で立ち上がる。やはりデカい。ビルの3階くらいの高さはあるだろうか。凶々しく燃える目がリクを見下ろす。かまいたちは倒れ込みながら左前脚を斜めに振り抜く。黒光りする爪で身体を切り裂くつもりなのだ。
「リク!」
後ろから栄生が叫んだ。
「大丈夫。見えてる」
黒く見えた長い爪は灰色だった。先端は研いだように細く鋭い。薙ぎ払うようなモーションが、今では止まったように見える。リクの鼻先を鋭い鉤爪がゆっくりと通り過ぎる。触ろうと思えば触れそうなほどだ。
(よく見ると爪の先だけが白いんだ)
前脚をかわされたかまいたちは、バランスを崩さず、そのままの勢いで身体を回転させる。振り子のようになった尾の先が円を描きながらリクを襲う。が、リクは振り回された尾を軽々と飛び越えた。
(身体が軽い。まるで自分じゃないみたいだ。空から落ちたときも……まるで見えない何かに支えられているような……)
「あれ、俺、まだ飛んでる……」
リクは自分の足元の遥か下に、かまいたちの長い尾を見た。
◇
「風の加護……」
栄生は信じられないという表情のまま、リクを目で追った。
その体さばきはすでに自分以上の速さがあった。根拠は単純だ。どんなに目を凝らしてみてもリクの姿を見失う瞬間がある。あれはもはや人間の動きではなかった。
栄生はリクに言われたとおり、自分の視界と風ちゃんの視界を共有した。確かに俯瞰で見ると相手の動きがよく分かった。
(こんな使い方……私、どうして思いつかなかったんだろう)
爪による攻撃を避けられると、かまいたちはすぐさま巨体を回転させ、遠心力を使った尾の攻撃へと移行する。雨に濡れた砂利を巻き上げ、鎌と化した尾を、竜巻のような速さで振り抜いた。リクはその速度にもしっかり反応して大きく跳躍する。
宙に飛んだリクの身体は白い霧に包まれていた。風の加護──栄生にはそれがはっきりと見える。東の森の王族でも可視化するほど強力な“加護持ち”なんていない。いや、正確に言えば、栄生は過去に1人だけ知っている。
母だ。生まれつき身体の弱かった母が、王宮入りし、現国王の王妃になれたのは強力な“加護持ち”だったからだと聞かされたことがある。しかしなぜ人間のリクが、母と同じ“加護持ち”なのだろう。六村リク。君はいったい何者なんだ……。
そのとき、風ちゃんの視界が異変を捉えた。栄生は振り向いて雨雲を見上げた。
空に出現した紫色の光。ひとつ、ふたつ……その数はどんどん増えていく。やがて紫色の光は剣の形になって切先をかまいたちに向ける。すでにその数は百を超えている。
「あれはなんです? 栄生、さ・ま」
とつぜん耳元で女の声がした。
栄生が向き直ると目の前に5つの人影があった。
誰もが黒いインパネスコートを羽織り、目深にフードを被っている。左胸には漠に絡みつく3匹の蛇をあしらった白い紀章が見えた。
「それにしても……まあ見苦しいというか、見るに堪えないというか……とにかく無様なことこの上ないですわね、栄生、さ・ま。本当にあの王妃からお産まれになったのでしょうか?」
声をかけてきた背の低い女が歩み出る。
「見たところ、逆変化のかまいたち。北の技術でしょうか。ホント、あなたは面倒ごとばかり……人界へ払われたと聞いて、私は安堵していたのですが、やはりクズはクズ。どこにいても迷惑なお人ですわね」
「いちいち絡むな、雫石」
大柄な男が低い声でたしなめる。
「失礼しました、栄生様。アレは我らが処理しますので、しばらくお下がり下さい」
目の前に信じがたい者たちがいる。
「王国の……妖術教導群。どうして……」




