第30話 3本目の腕
可愛い女の子と肩を並べて歩く。それも校内ナンバーワンクラスの美人とくれば、健全な男子高生ならそれだけで浮き足立ち、胸が高鳴ることだろう。
しかしリクの心中はそれどころではなかった。脳内は機能不全の一歩前、大混乱に陥っていた。
『一緒に行こう』
などと格好をつけたものの、具体的な策があるわけではない。正直、どうして良いか分からないのだ。
──妖? 妖術? 侵入者? 人間同士の喧嘩だってしたことがない。
栄生は『戦いになる』と言った。その言葉にも実感がわかない。さらに『ほとんど妖術が使えない』などと不吉なことを言う。かまいたち同士の戦いがどんなものかは知らないが、もう不安しかない。
リクは隣を歩く栄生に目をやる。艶やかな銀髪、透き通るような白い肌、形の良い薄い唇。大きな瞳は真っ直ぐに前を見据えていた。
「優しい風。でも、これから強くなる」
ふと、栄生が言った。確かに少し風が出てきたようだ。
優しい? リクはよく分からない。むしろ、その風はリクの不安を煽るように、背後からさざ波のように押し寄せる。不吉な知らせを携えた使者のように。
昨夜、出会ったかまいたちの少女。人の姿に化けるという妖。王国を追放された王女。同族の戦い。正面からの侵入者──どうしたらいい? 情報が渋滞して、なかなか目的地に辿り着かない。
人間の俺に何ができる? 妖術とは魔法みたいなものだろうか。そもそも戦うといったって、武器ひとつ持っていないんだ。
ああ、逃げ出したい……リクは心底思う。
面倒なこと、嫌なこと、怖いことからは目を背けて逃げてきた。逃避を正当化するために、達観したふりをして無関心を装う。そうやって今までやり過ごしてきた。
それは難しいことではない。物事との距離感を掴み、意思を曖昧にして、適当な言い訳をして、現実から逃げる。この3コンボがある限り、リクは平穏で自由な日々を送れるはずだった。
だが、ここではその3コンボが通用しない。人と妖の世界を繋ぐ曖昧なこの場所に、逃げ道なんてどこにもないのだ。
『勝てるかもしれない。負けないかもしれない』
頭に浮かんだ言葉を口にした。深い意味はない。ただ元気づけたかっただけだ。でも、あの時の栄生の表情を、リクははっきりと覚えている。
(あんな嬉しそうな顔されたらなぁ)
リクは急に気恥ずかしくなって、栄生に声をかける。
「栄生はさ、浴衣、似合うよな。なんか、こう、うん、着慣れているみたいだ」
「え? そう? 初めて言われたよ」
きょとんとした顔を栄生が向ける。
「俺のクラスの連中に見せつけてやりたいくらいだ」
教師に呼び出されたこと、渋谷に発生した竜巻のこと、昨日の出来事が遠い過去のことみたいだ。
「待って、リク」
栄生は唐突に立ち止まると、静かに目を閉じた。
「何か見えるのか?」
斥候に出した風ちゃんの視界を“見て”いるのだろう。感覚を共有できる──まったく荒唐無稽な話だが、もはや信じない理由がない。
「1kmくらい先にふたり。こっちに向かって歩いてくる」
(マジかよ……もう来ちゃったのか)
時間は待ってくれない。当たり前だ。無駄話をしている余裕はないのだ。俺はどうかしてる──何か作戦を考えなければいけないのに。リクの鼓動が激しい音を立てる。
──ちょっと待て。
「ふたり? え? 栄生、相手はふたりいるのか?」
「うん、若草色の髪の男……ピンク頭の女。歳は私たちと同じくらいかな。女は長い柄の大鎌と、なにか……口に咥えてる」
「口に咥えている?」
栄生は答えずに、小さく頷く。
最初、それは黒い布の切れ端に見えた。しかし栄生はその黒い生地に見覚えがある。黒い麻の生地に金色の桜の刺繍──心拍が跳ね上がる。そんなものがそこにあるはずがない。そんな馬鹿なことがあるはずない。
ピンク頭の女がぶらぶらと口に咥えているもの──それは浴衣ごと切り落とされた蒔絵の腕だった。
「……蒔絵」
栄生の表情が一瞬にしてこわばる。
「どうした? 何が見える?」
栄生が目を開けたとき、彼女は別の何かになっていた。リクはその変わりように驚き固まってしまう。
肌は青白く、唇は血色を失っていた。まるで色づけされていない人形だ。しかしそれとは裏腹に、栄生の瞳の奥には仄暗い赤い光が揺れている。まなじりは吊り上がり、何かを威嚇するように肩で息をしている。
栄生とは昨夜会ったばかりだ。リクは彼女のことをほとんど知らない。一緒に紅茶を飲んで少し話をしただけだ。それでも、リクは確信する。何かとてつもない深刻な事態が起きている。いったい彼女は何を見ている?
「リク……やっぱりここまででいい。終わるまで森に隠れていて」
栄生は消え入りそうな声で、道の脇にある森を指差した。
「お、おい、どうしたんだよ……」
「ごめんなさい。一緒にこの先へは行けない。大丈夫、リクは必ず人界に戻すから」
栄生は吐き捨てるように言うと、その場からリクを置き去りにして姿を消した。
◇
前触れもなく、栄生は乳白色の霧を纏って姿を現した。
決して油断はしていなかった。自分たちは今、他国の煉界を侵犯している。暴走気味のモカに気を配りつつ、ランは常に周囲を警戒していた。それでも、忽然と目の前に現れた栄生をランは補足できなかった。
「これはこれは東の森の王女殿下。御自らのお出迎え、誠に痛み入ります」
ランは目の前の栄生に、うやうやしく礼をした。
「あなたたち、誰?」
栄生は静かに問いかけた。
モカは口に咥えた蒔絵の腕を足下に落とすと、嬉しそうに飛び跳ねる。
「わぁ〜、栄生ちゃんだ。急に出てくるからびっくりしたよぉ。制服も可愛いけど、浴衣も似合うね!!」
栄生は無表情のまま顎を上げ、ランとモカを交互に見た。
ランはその視線に苛立ちを覚える。害虫を見るような冷めた視線。子供の頃から侮蔑には慣れている。しかし栄生が向けるそれは、自分を見ているようで、その実、何も見ていないようだった。まるで存在そのものを無視するような、無感情の瞳がそこにはあった。
「一度しか言わないから、よく考えて。その腕を置いて、ここから出ていってくれないかな?」
そう言って、栄生は履いていた草履を投げ捨てる。
「それはできない相談だね、王女殿下。僕たちは──」
「そっか」
ランが次の言葉を繋ぐ前に、栄生は目の前から消えた。そして次の瞬間には、モカの右腕が血飛沫と共に、宙高く舞った。肩にかけていた大鎌が派手な音を立てて転がる。
「えっ?」
モカは何が起きたのか分からない。あまりの速度に思考が追いつかないのだ。
腕が切り落とされた後も、モカの顔はまだニヤついたままだった。それからしばらくして、モカは大きな悲鳴を上げる。跪き、苦悶の表情を浮かべ、切り落とされた自分の腕を探し求めた。
「やられたらやり返す。文句はないよね」
(妖術・風斬波……?)
落ち着け、落ち着け──ランは自分に言い聞かせる。何が起きた? 思い当たる妖術は“風斬波”。三歳児が覚える初歩の妖術だ。風同士を擦り合わせた衝撃波を斬撃として飛ばすだけの単術な妖術。
しかし奇妙だ。術名の詠唱もなく、見えるはずの術式もまったく見えなかった。
「同族で良かった。加減ができそうにない」
栄生は誰に言うでもなく小さく呟いた。そしてゆっくりと歩き、蒔絵の腕を拾いあげた。滴る血が白い浴衣を赤く染める。
「可哀想に……必死に護ってくれたんだね」
栄生は目を閉じると、蒔絵の腕を大事そうに抱きしめた。




