第29話 ふたりと1匹
雨上がりの空を引き裂いた亀裂から、眩い青紫の光が射し込んだ。栄生は東屋から身を乗り出して、その光を不安げに見つめる。
半結界が壊された。そう栄生は悟る。半結界──煉界口が破壊されたのなら、“侵入者”はすぐにここまでやってくるはずだ。そしてここを抜ければ、東の森まで一気に向かうことができる。
(晶たちはどうしたんだろう)
あの3人がそう簡単にやられるはずがない。王国内でも随一の力を持つ近侍の家系“芝崎家”の妖術は伊達ではないのだ。栄生はもちろん、王族をも凌駕するといわれる彼らが、易々と倒されるはずはなかった。しかし現実は首を振る。煉界口は何者かによって壊されたのだ。それは晶たちが侵入者を阻止できなかったということになる。最悪の事態を想定して動かなくてはならない。
さらに栄生には、もうひとつ気がかりなことがあった。
少し前、とてつもない妖力の発現を感じた。煉界内にいてもはっきりと分かるほど強大な妖圧だった。あの力はいったい何だったのだろうか。
「栄生、大丈夫か? 顔色が悪いぞ」
並んで空を見上げていたリクが、心配そうな視線を向ける。
「凄いな。あんな色の光、見たことがない……外側から攻撃って、いったい何が起きてるんだ?」
「変なことに巻き込んじゃったみたい。ごめん」
栄生は戸惑うリクと向き合うと、小さく頭を下げた。
可哀想なことをしたと栄生は思う。突然かまいたちが現れ、煉界に連れ込まれて1泊、挙げ句の果て、朝起きてみればこの騒ぎ。戸惑うなというほうが無理な話だ。しかも侵入者は同族のかまいたちに違いない。この子を完全に巻き込んでしまった。
「誰かが扉を壊して、無理矢理ここに入ろうとしているの」
「壊すってことはお仲間じゃないんだよね」
リクは念を押すように言った。その表情は真剣そのものだった。
「ここは……ここは人の世界と君たちの森を繋ぐ場所なんだよな。だとしたら、ここに来る目的はなんだろう。この屋敷? それともこの先にある君たちの森なのかな?」
「それか、私ね……」
栄生は小さく付け加えた。
「えっ? 栄生って誰かに狙われてるの!?」
「王族っていつも狙われているのよ。森にいてもいなくても。珍しいことじゃないの」
「おおおっ……かっけぇぇぇ」
リクはキラキラと目を輝かせる。
意外な反応に、栄生は吹き出してしまう。
「馬鹿ね、どこがカッコイイのよ」
「悪漢につけ狙われる王女。そしてその王女を守る騎士──やばい、俺、そういう陳腐な話に弱いんだ。なんなら栄生が攫われて、塔か地下牢に閉じ込められるとか、めちゃくちゃ燃えるっ」
「勝手に攫われることにしないで!」
リクは手を握りしめ、ひとり盛り上がっている。
不安が薄らいでいく。面白い人だ。こんな事態に巻き込まれたんだ。文句のひとつも言っていいのに──栄生はそう考えて首を振る。違う。リクはまだ何も知らないから、そんな風に明るく言えるんだ。四方の森の確執、人界の鎌狩り、泥沼の王室……知らない方が幸せかもしれない。
私はこの人を守り抜いて、無事に人界へ戻さなければならない。
栄生は考える。仮に侵入者と戦うとして、どこで迎え打つべきか。煉界口からここまでは森を抜ければすぐの距離だ。このまま屋敷の庭で待ち伏せをする? 駄目だ。もしここを抜けられたら、すんなり東の森へ侵入できる。おまけに追放された私は、ここから東へ進む資格がない。
相手は何人だろう。どんな妖術を使うのだろう。
こんな時、栄生は蒔絵のような妖術が使えたらと思う。そして三太のような治癒術が使えたらいいのにと願う。
栄生が使える妖術はわずか3つしかない。どれもかまいたちの子供が初めて習得する初歩的なものだ。持ち前の妖力で誤魔化しているものの、術の効果は強いものではない。相手が同族なら、昨夜のように妖圧で恫喝することもできないだろう。
それでも、ここから先へ行かせるわけにはいかない。追放されたとはいえ、良い思い出がほとんどないとはいえ、東の森は故郷であり、母が私を産んでくれた場所なのだ。
「リクは屋敷の中に隠れていて。きっと戦うことになると思うから」
栄生はリクの手を取り、東屋から庭に出る。玉砂利を踏みながら早足で縁側まで歩いた。
「中にいて。もし誰かが来たら……」
栄生の言葉をリクが遮った。
「いやあ、改めて見ると立派な屋敷だよなぁ。純和風建築っていうのかな、ほら、釘を使わないで建てるってやつ。なんだっけ……あ、そうだ“木組み”だよ」
栄生は意味が分からず、ただパチパチと瞬きをする。
「俺がバイトしている書店はさ、暇な時間にいろんな本が読めるんだ。まあ、小さな古い書店だからね」
リクはそこで言葉を切って、空を見上げる。亀裂から漏れ出した不思議な光は、ますます強さを増していた。
「うちの店長は変わり者でさ、売れないような専門書ばかり仕入れるんだ。『ダムの設計』とか『光の三元色基礎知識』とかね。建築なんてぜんぜん興味がなかったけど、読んでみるとこれがなかなか面白いんだ」
栄生の瞬きはさらに回数を増していく。
「この建物はきっと木組みで造られている。かまいたちってすげーな。こんなの建てちゃうんだからさ。栄生は知らないかもしれないけれど、襖の文化は察しの文化なんだ。だからこの屋敷に鍵なんてほとんどない。ここに俺が隠れても意味なんてないよ。それに相手は……よく分からないけどさ、すごい力があるんだろ?」
言われてみれば、と栄生は思った。そもそも外敵の侵入を想定していないから鍵なんてものはない。煉界そのものが結界であり鍵なのだから。
玄関口に閂はあったが、閉めてあるのを見たことがなかった。子供の頃からよく遊びに来た場所だ。建物の内部はかなり正確に覚えている。リクが指摘するように、隠れる場所なんてないし、妖術から身を守れるような仕掛けもない。
「一緒に行こう」
栄生は驚いて目を丸くする。
「一緒にって……何言ってんの? 駄目よ、これ以上リクを巻き込むわけにはいかない」
「ノープロブレム」
リクは安心しろとばかりに白い歯を見せて笑う。それから人差し指をくいくいと振った。
「気にするなって。もう頭のてっぺんから足先まで、しっかり巻き込まれてる」
「相手はかなり強いんだよ。考えたくないけれど、晶や蒔絵が敵わなかったのなら私に勝ち目はない。さっきも言ったけど、私は王族の落ちこぼれなんだよ」
捲し立てられるように栄生は言った。
「でも勝てるかもしれない。もっと言えば、負けないかもしれない」
この人は何を言っているのだろう。でも不思議と栄生は笑ってしまう。
「負けないかもしれないって……意味分かんないですけど」
こんな考え方があるのだろうか。負けることは恥だと教えられてきた。敵に弱みを見せて一度でも舐められたらそこで終わりだと。戦いには必ず勝利しなければならない。負ける勝負は挑んではならない。王族の双肩には、常に国民の命がかかっているのだ……。
「鳥居の近くまで行くんだよな。歩いてどのくらい? 気絶してたから分からないんだよな」
リクはそう言って手を差し出した。
「さっきも言ったけど、狙いは私かもしれない。近くにいればリクも狙われる」
「そん時は助けてくれ。痛いのは嫌だ」
と、リクは笑う。
「仮に侵入者の狙いが君たちの森だったとしても、彼らは栄生を倒さなければいけない。どのみち戦いは避けられないよ」
その通りだった。けれど人間であるリクは、同族である侵入者と戦う術がない。何かあればもちろん助けてあげたい。けれど──
栄生は視線を落とす。そして消え入りそうな声で告げる。
「一緒に行こうって言ってくれて凄く嬉しい。でもね、リク、私ね……ほとんど妖術が使えないの」
栄生の脳裏に誰かの言葉が響く。
『聞いたか? 栄生様は妖術も使えないばかりか、人化にも失敗したらしい』
『長女の亜羽様も苦労するわね。本当に陛下の娘なのかしら』
『王宮で遊びまくってるじゃないか。この前も神木をへし折ったとか」
憐れみと侮蔑の言葉が頭を駆け巡る。王宮にいれば嫌でも感じる蔑んだ眼差し──それを一瞬で掻き消したのはリクだった。
「それがどした? 妖術ってものが何なのか分からないけど、栄生はあんなに速く動けるんだ。大丈夫。それにさ──」
そう言って、リクは言葉を切った。
「俺たちはふたりじゃない」
栄生の右肩で眠る“分け身”を指差す。
「もうひとり、そこにいる可愛いのがいるじゃん。こっちはふたりプラス1匹、きっと何か手はあるはずだ。歩きながら作戦を考えようぜ」
「……」
感情がぐしゃぐしゃになって、栄生の胸は潰れそうになる。こんな風に言われたのは初めてだった。
『大丈夫』
私はずっと誰かにそう言ってもらいたかったのかもしれない。どこかでその言葉を待っていたのかもしれない。
たった3文字の言葉に栄生は救われる想いがした。そして、東の森では奇異の目を向けられた分け身を、彼は今、必要としてくれている。
「にしても、妖術かぁ。空にもしっかりヒビ入っちゃってるし、いろいろ信じないわけにもいかないよな」
リクは栄生の手をそっと握ると、ゆっくりと歩き出した。
東の森の方角から、ふわりとした風が吹く。それはほとんど密度を持たない風だった。淡い橙色の、傾きもない、ありふれた風だ。
栄生は思う。
煉界口を壊すなんて狂っている。侵入者は普通じゃない。最悪の事態を考えるなら、私に勝算はないだろう。それでも、それでも、この人を信じてみよう。ありふれた優しい風を呼ぶ、この人を。
「リク……」
栄生は呟くようにリクの名を呼んだ。
「そっちじゃない」
◇
屋敷は人界と東の森の中間地点にあって、東に向かえば東の森の王国へ、西に向かえば人界、つまり人間の世界へ繋がっている。
「広いな。まるで神社の参道みたいだ」
栄生とリクは森の真ん中を貫く道を歩いていた。幅の広い砂利道の両側には、背の高い木々が並んでいる。空のヒビから差し込む青紫色の光が、朝靄の中に幻想的な柱をつくり出していた。
「栄生が住んでた東の森と人界を繋ぐ場所がまた“森”ってさ、どんだけ森が好きなんだよ」
リクは歩きながら呆れたように笑う。辺りはしんと静かで、砂利を踏む音だけが聞こえるだけだ。
「森は私たちが風から生まれた特別な場所なの。だからこの煉界もほとんどが森なんだ」
「じゃあ、栄生の国も森の中にあるんだ」
「うん。あ、でも、私たち、森で暮らしてるわけじゃないよ。街は森に囲まれてるけどね。王宮も街も大きいから、きっとびっくりすると思う」
リクはふーんと頷く。どこか嬉しそうに説明する栄生は少し幼く見える。
「それは行ってみたいな。かまいたちの王国かぁ、ホントにあるならこの目で見てみたい」
「人間が行ったらきっと大騒ぎになるよ」
「そっか、人間はいないんだよな」
栄生は言葉に詰まる。
人間はいる。かまいたちの“壁役”と成り果てた人間が、あそこにはいる。
「ねぇ、リクは怖くないの?」
「怖いよ」
リクは即答した。
「女の子の前だから格好つけたいんだけどさ、うん、めちゃくちゃ怖いな。だって妖術だぜ。よく知らんけど」
あまりに素直な反応に、栄生は笑ってしまう。
「この先から妖怪が歩いて来るんだろ。やる気満々の強いヤツがさ」
「あ・や・か・し! 妖怪じゃない」
栄生は唇を曲げて訂正する。
「そうだった。妖」
ふたりは顔を見合わせて、それから、どちらからともなく笑い出した。
「青山まで……煉界口まではあとどのくらいかかる?」
「20分くらいかな」
「侵入してくるヤツも、この道を歩いてくるんだよね」
「うん。一本道だから。森の中を隠れながらってタイプじゃないと思う」
「じゃあさ、“風ちゃん”を斥候に出そう」
「風ちゃん?」
栄生は首を傾げる。
「肩で寝てる分身ちゃん。名前がないと困るだろ?」
「なんで風ちゃん?」
「風から生まれた妖だから風ちゃん」
「……単純」
栄生は半目になって隣のリクを見る。
「でも……まあ、悪くないかも」
栄生は頬と耳が熱くなる。分け身に名前──今まで考えたこともなかった。それは恥の“印”みたいなものだったから。
「5kmくらい離れても意思が通じるなら、先行して見に行くってのはどうかな。視界も共有できるって話だし」
「うん。そうだね、やってみる」
私はどうかしてる。どうしてこんな当たり前のことが思いつかなかったのだろう。話に夢中になって……私……。
栄生はすぐに妖力を分割して“風ちゃん”を走らせた。
「名づけて“風ちゃんドローン作戦”だな」
胸を張るリクに、栄生はまた吹き出して笑ってしまう。
「“どろん”って何よ」
こんなに笑ったのはいつ以来だろう……。
栄生の頭上を、静かに風が吹き抜けた。




