第27話 砂漠の人
『蒔絵、蒔絵──』
誰かが名前を呼んでいる。
その声は歪みながら蒔絵の耳に届く。それは聞き覚えのある懐かしい声のようにも、聞き覚えのない不吉な声のようにも聞こえた。
気がつくと、蒔絵の意識は広大な砂漠を漂っていた。
見渡す限りの青い空と砂。風に流された砂が、蒔絵の足元を蛇のように流れていく。
生暖かい向かい風は、幾重にも重なり、強さを増していく。蒔絵は歩き出そうとするが、なかなか前に進むことができない。小さな砂をさらに細かく砕いたような砂が身体を襲う。
風に乗る砂には意思がある。蒔絵にはそれが分かる。砂はあらゆる場所に入り込む。口や目、耳、爪の間──穴という穴、隙間という隙間を塞ぎ、蒔絵の感覚を奪っていく。
やがてそれは激しい砂嵐になる。風が砂を、砂を風が巻き上げ、目を開けることができない。口の中は砂だらけで、歯を合わせるとジャミッと嫌な音がした。
(ここはどこだろう? 夢でも見ているのかな……)
風は一向に止む気配がない。蒔絵は額に手を当てて、なんとか前に進む。姿勢を低くして風に逆らう。足元を見ながら、少しずつ少しずつ。
ときおり風向きが変わる。前後左右に身体が揺さぶられる。砂は蒔絵の身体を洗うように、容赦なく吹きつけた。顔に砂が当たるたび、肌が痛かった。
痛み……蒔絵は肩口の痛みが消えていることに気がつく。見れば、切り落とされたはずの腕が戻っている。
(やっぱりここは……夢の中……?)
太陽は頭上で白く輝き、容赦なく地表を照りつける。それでも暑さは感じない。相変わらず、砂は波のように四方から吹きつけ、蒔絵の五感を奪おうとする。
不思議な風だと蒔絵は思った。気まぐれに層の厚みが変わる。上から吹きつけ、下から吹き上げる。風向きに一貫性というものがない。東の森でもこんな風は吹かない。
風が少し弱くなると、蒔絵はゆっくりと歩を進めた。何故だかは分からない。とにかく前に進まなければという衝動が身体を動かした。
(お姉ちゃんみたいに、風の色が見えたらな)
蒔絵は思う。栄生のように風の色が見えれば、層を正確に見分けて、もっと速く前に進むことができる。感覚だけで風に乗るには、ここの風は自由過ぎた。
どれくらい歩いただろうか。蒔絵は歩き疲れて、立ち止まる。感覚では1時間くらいは歩いたはずだ。立っていると足が砂に埋もれていく。埋もれてしまう前に、次の足を踏み出さなくてはならない。
ありがたいことにまだ暑さは感じない。というより、ここには温度や匂いというものがなかった。
あるのは白い太陽と青い空、そして砂。動物も植物もオアシスもない。それでもどこかに辿り着かなくてはならない。
お姉ちゃんを助けなくちゃ……。
不思議と恐怖はなかった。『行かなくては』という漠然とした衝動が、蒔絵のあらゆる感情を麻痺させていた。
しばらく進むと、霞む砂塵の向こうに薄っすらと人影が見えた。
「誰?」
蒔絵は歩くのを止めて問いかけた。返事はなかったが、ふと影が笑ったような気配があった。
「あなたは誰?」
「僕は誰だろう?」
優しく穏やかな声で影が答えた。中性的な声色が頭の中に響く。音を立てずに舞う羽毛のように、それは心地良く鼓膜を震わせる。
「ねぇ、ここはどこ? 私はお姉ちゃんを助けなくちゃいけないの」
「ここは僕の庭。お客さんが来るのは……うん、すごく久しぶりだね」
次第に砂嵐が消え、影が少しずつ人の輪郭をつくりだしていく。
「やあ、蒔絵ちゃん。初めまして、だね」
そこに立っていたのは二十歳くらいの青年だった。森の祭りで着るような薄緑の着物に白い袴、くるぶしまである長い羽織を纏っている。肩までの銀白の髪は蒔絵に栄生を思い出させた。
青年は蒔絵を真っ直ぐに見つめながら、優しく微笑んだ。
(綺麗な人……)
男性とは思えない美しい顔立ちに、猫のような大きな吊り目が輝いている。
(この人、やっぱりお姉ちゃんに似ている)
「お客さんは嬉しいんだ。本当に久しぶりのことだからね」
青年は微笑みを崩さずに続けた。
「まさか『薄羽蜉蝣』を召喚するなんて予想外だよ。あれは興味半分、余剰した式で組み上げた遊びの術だったのに」
「……?」
「アレは効果範囲が広すぎるし、妖力も大食いするだろう? 王族以外が呼び出すなんて考えもしなかった。血脈の制限式をつけておくべきだったかな?」
蒔絵は青年が何を言っているのか、理解ができなかった。
「実はね、あの術式は僕も試したことがなかったんだ。というか、実はさっきまで忘れてたんだ。蒔絵ちゃんはとんでもない子だね。でも──」
青年は一度言葉を切り、少しだけ笑みを消す。
「君がここに来るのはまだ早い」
「早い?」
「うん、まだまだ早い」
青年はそう言うと、ふたたび笑みを戻す。薄い三日月のような唇が美しい弧を描いた。
「最初にここへ来るのは、君の主だと僕は考えていたんだ。あの子はもうすぐ目を覚ますからね。良い壁に恵まれたようだ」
「お姉ちゃんのことを言ってるの?」
蒔絵は訊いた。しかし青年は微笑むだけで答えない。
「今日は……たしか12月24日だったね。うん、夜は雪になるもしれない」
そう言うと、青年はゆっくりと背を向けた。
「次は……そうだ、ふたりで来るといい。主と一緒に。今日は会えて良かったよ。芝崎の血がきちんと受け継がれているみたいで良かった。あ、それと……離れた腕はすぐにつけた方がいい」
蒔絵の視界は少しずつ白く染まっていく。やがて目の前は、吹雪の中のように何も見えなくなった。
「少し早いけど、メリー・クリスマス」
遥か遠くで青年の声がした。蒔絵の意識は空に引き込まれるよう、上へ上へと昇っていく。
(なんだろう、気持ちいいな)
全身の力が抜けて、身体の感覚が曖昧になる。意識だけが浮かび上がり、蒔絵はとても眠くなる。すべてが溶け出して混ざり合うような感覚の中で、蒔絵は遠くで別の声を聞いた。
「蒔絵、しっかりしなさい!」
また誰かが私を呼んでいる。
でもあの人じゃない。
この声は……知っている人だ。
「蒔絵! 術を仕舞いなさい!」
──ああ、これは、おじいちゃんの声だ。
蒔絵は覚醒する。深い湖の底から浮かび上がるように。
切り落とされた傷口の痛みが、蒔絵を現実に引き戻した。
◇
「間に合って良かった。戻ってきましたか」
晶は蒔絵の目に光が戻るのを確認すると、安堵のため息をついた。
「おじいちゃん……?」
晶は蒔絵の頭に掌をトンと置くと優しく撫でた。
「蒔絵、術を仕舞いなさい。どんな理由があるにせよ、彼らを虚無に送ってはなりません。これは開皇帝自らが禁じた術式です」
蒔絵は砂漠で出会った青年を思い出した。
500年前、散り散りだったかまいたち一族をひとつにまとめ、私たちの国を初めて打ち立てた、初代にして最後の皇帝、杏季。
国が落ち着くと見るや、自らはすぐに退位して、国を4つの王国に分けたという。四方の森の王国すべての始祖であり、妖帝術の設計者。
(でも開皇帝はとっくに亡くなられたお方。さっきの人は……)
蒔絵は首を振って、目の前の現実に集中する。
「でも、おじいちゃん、あのふたりは……」
「分かっています。それでも仕舞いなさい。じきに虚無に堕ちる。間に合わなくなります」
蒔絵は顔を上げて、しばらく不満気に晶を見つめたが、晶の険しい表情に押されて術を仕舞った。
拡張された召喚空間が消え去ると、路地は元の姿を取り戻した。砂で覆われたすり鉢も宙に飛散し、地表はざらついたアスファルトに戻っていった。
「それでいい。蒔絵はよく頑張りました。さあ片腕を回収して、早く三太に治療して貰いましょう──蒔絵?」
蒔絵は晶にもたれながら気を失っていた。
無理もない、と晶は思う。止血しながらの妖帝術、おまけに空間拡張の術式まで連結させたのだ。それにしても──
(いったいどこでこんな術を覚えたのか……。本来、妖帝術は王家にしか伝わらない秘術。やはり早急に計画を変更しなくては)
「じいちゃん、遅えよ!」
三太の怒鳴り声が晶の思考をかき消した。傍に駆けつけた三太は、半目になって晶を睨む。が、蒔絵を見るなり震え出した。
「……ま、蒔絵! う、腕が……ああぁ」
蒔絵の片腕がない。三太の顔はみるみる青ざめた。
「いやいや、申し訳ない。私としたことが帝の御業にしばし見惚れてしまったよ」
「いや、そうじゃなくて、う、腕ぇ……」
「早く取り戻さないといけませんね。三太の血で戻してあげなさい」
晶はそう言うと蒔絵を横抱きに抱え、ランとモカに目をやる。ふたりは肩で息をしていたが、眼の力は一向に衰えていなかった。
ランは落ちていた蒔絵の腕を拾い上げると、座り込むモカの頭にそっと手をのせた。
晶は大きな声で問いかける。
「此度の侵攻、北森王・カタクリ陛下の承諾を得ての行動か?」
沈黙。
「答えられませんか。もうすぐ東の煉界警備団がやってきます。我が国の煉界に干渉した罪は大きい。彼らに捕まるとかなり厄介なことになりますよ」
沈黙。
ランとモカは視線を合わせると、互いに小さく頷いた。ランはモカの耳元で問いかける。
「モカ、楔はいくつ打った?」
「ふたつかなぁ……たぶんね。鎌を2回突き立てたから」
「うん、発動条件クリアだ。モカ、よくできました」
「そんなことより、さっきの怖かったよぉ。死ぬかと思ったよぉ。もっとヨシヨシしてよぉ」
「うん、怖かったね。あとでたくさん褒めてあげる。とりあえず、あの連中を閉じ込めちゃおう」
「約束だよ」
「うん、約束だ」
ランは蒔絵の腕をモカに手渡すと、顎を上げてニヤリと笑う。それからモカが地面に穿った楔を確認した。
(大丈夫だ。空間召喚が消えても楔は残っている)
「妖術・縛界──百花壁」




