第21話 襲撃、ひび割れた空
「半結界が外から攻撃されてる」
空を見上げる栄生の表情は、さっきまでとは別人のように強張っていた。
雷鳴に似た轟音は鳴り止むことなく、一定の間隔で響き渡る。その度に空の亀裂は大きくなっていく。誰かが巨大なハンマーで空の裏側を叩き続けているみたいに。
「半結界というのはココのこと?」
と、リクは訊いた。
「ちょっと違うかな。ここは煉界。人の世界と森を繋ぐ真ん中の場所。半結界は煉界に入るための扉みたいなものね」
「なるほど。ということは、昨日の神社はその扉だったんだね」
栄生は目を丸くしてリクの顔を見ると、それからにっこりと微笑んだ。
「そのとおり! もうひとつハナマルあげちゃう」
「小学生以来で嬉しいよ」
「いま、誰かがアレを壊そうとしているみたい」
栄生は目を細め、再び空に目を向けた。リクも栄生の視線を追うように黒い亀裂に目をやった。ガラスにヒビが広がるように、それは轟音の度に少しずつ大きく広がっていった。
「姫さま」
とつぜん低い声がして、リクは思わず、
「うあっ」
と、奇声をあげた。
見れば、昨日の老人が栄生の傍で片膝をついている。
「晶、状況は? 鳥居は無事なの?」
そう尋ねた栄生の声は淡々としていた。そこには、人を使役することに慣れた響きとかすかな威厳――その声色に、リクは彼女が王女であることを思い出した。
「分かりません。いま三太と蒔絵を向かわせました」
「この力は……」
栄生は言いかけて、灰色の空を睨む。
「たぶん……鎌狩りじゃない」
「同族……ですか?」
「分からない。でも鎌狩りにここまでの力があるとは思えない。もし同族なら、煉界への干渉は宣戦布告と同じ……嫌な予感がする。私は平気だから、晶も──」
「承知。私も向かいましょう」
晶は立ち上がるなり、力強くリクの肩に手をかけた。
「少年っっ!」
迫力のある声に、リクの背筋はビクリと震えた。晶は生真面目な顔を近づける。
「かような事態になり申し訳ない。私がここを離れる間、少年、姫さまをお頼い申します」
それだけを言うと、晶は答えも聞かずに姿を消した。
◇◇◇
国道246号線の路地の奥、小さな神社の前にふたつの人影があった。路地が細いせいか、朝の冷気を含んだ北風がビル風となって吹きつける。
ピンクに染めた髪を振り乱し、モカは巨大な鎌を打ちつける。刃が目に見えぬ結界面に弾かれても、モカは目を輝かせ、嬉々として鎌を叩きつけた。
「モカはなかなかヤバいことしてるね。分かってる?」
スウェットのポケットに手を突っ込んだまま、ランは呆れたように薄ら笑う。
「モカ、ヤバい? そうなの? よーいしょっ!」
お構いなしにモカは鎌を振り上げ、刃を叩きつける。
「硬いなぁ、ランちゃん、なんなのよ、これ?」
「半結界だよ、モカ。東の森に至る入り口。暗黙の不可侵領域。壊したら戦争になる。モカは立派な侵略者だ」
「でも、ぜんぜん止めないじゃん」
「だって面白いもん」
ランは肩をすくめてニヤついた。見ればモカの額にはうっすらと汗が滲んでいる。
「モカ、暑くなってきたよ」
オーバーサイズのパーカーを脱ぐと、モカはタンクトップにショートパンツという格好になった。厚底の白いスニーカーには汚れひとつない。
「それじゃ夏だよ、モカ。風邪ひくよ」
「夏だったらサンダル履くもん」
「いやいや、そういうことじゃなくてさ」
と、ランは首を振る。
「そんな汗だくになって……モカ、これさ、もし壊せたら中に入るつもりなの?」
「入るよ。あっちに栄生ちゃんがいるんでしょ。捕まえて持って帰る」
「うーん……でも僕たちが中に入ったら、ホント戦争になるからオススメしないなぁ」
「面白がってるのに?」
「モカを見てるのが面白いんだよ。可愛くてさ」
「可愛い?」
モカは顔を赤くしてランの顔を覗き込む。
「うん。可愛くて面白い」
「嬉しいっ!」
モカは鎌を放り投げると、力いっぱいランに抱きついた。
「ランちゃんが面白いなら、モカはすごく嬉しい!」
「苦しいよ、モカ……」
「ねぇ、ランちゃん。カタクリさま、怒るかな?」
モカは顔を近づけ、甘えた声を出す。
「北と東の問題になるからね。陛下は激怒すると思うよ」
「激怒っ!?……モカ、怒られるのはイヤだなぁ。カタクリさま、怖いし」
「それに、東とやり合うには時期尚早だ」
「じゃあ、モカ、やめようかな……」
モカは抱きついたまま不満そうに口を尖らせた。
「モカは賢いな」
ランは優しくモカの頭を撫でてから、鳥居に視線を向ける。
「でもね、ちょっと遅かったみたいだよ、モカ。ほら、めちゃくちゃ怒ってる」
ランの指差した鳥居の下、そこには三太と蒔絵の姿があった。
◇
三太は浴衣着のまま、眠そうに大きなあくびをひとつ落とす。
「お兄ちゃん、不真面目だよ。帯はちゃんと締めて。浴衣の前もはだけてるし……もう最低……」
そういう蒔絵も浴衣のままだったが、三太と違い、帯をしっかりと締め、その瞳には強い光が宿っている。
「昨日は鎌狩り、んで、今日は同族……って、うちの姫さまは大人気だな」
三太は腕を組んで、鳥居に寄りかかる。浴衣から下着が見えているのでまるで格好がつかない。
「だって、お姉ちゃん、可愛いもん」
蒔絵は三太を見上げて抗議する。何に抗議しているのかはよく分からないのだが。
「あのー、どちらさまかは知りませんが、これ以上、うちの庭を壊すの、やめてもらえませんかね?」
三太は自分の履いてきた下駄を眺めながら言葉を繋ぐ。
「今ならガキの出来心ってことで許してやってもいい。ただ、これ以上やるっていうなら、泣きながら森に帰ることになるぜ」
ランはモカを庇うよう前に立つと、胸に手を当て深々と頭を下げた。
「これは失礼しました、芝崎三太殿。そちらは妹君の蒔絵殿ですね。高名な柴崎家の方々にお会いでき大変光栄でございます」
「へぇぇ、よく知ってるじゃねえか。光栄だってんなら名前くらい名乗れよ。誰だ、お前?」
「僕は北の森のランと申します。こちらは妹のモカ。恥ずかしながら手前どもは、芝崎殿のような家名を持ち合わせておりません」
会話の内容に意味はない──互いが出方を伺っているだけだ。その最中、蒔絵はモカの鋭い視線を正面から受け止めていた。狂気に満ちた危うい眼光、いつの間にか手にした巨大な鎌、逆立つピンク色の長い髪……引く気がないのは明らかだった。
「家名がないとは驚いたな。“北”では平民崩れが人界を彷徨くのか?」
ランの顔色が変わる。目を見開き、頬がみるみるうちに紅潮した。
「近侍風情が……僕たちを侮辱にするのか?」
「なるほど、行儀が悪いのは平民だからか。いや、納得納得」
三太のあからさまな挑発は、蒔絵へのメッセージだ。
先に動いたのはモカだった。
鋭い瞬発力で、一瞬にして蒔絵との距離を詰める。互いの顔がくっつきそうな近さになったが、それでもふたりは視線を逸らさない。目を逸らせば、それは弱さを認めることであり、結果、敗北に繋がることを理解しているのだ。
モカは右手で蒔絵の首を掴むと、骨ごと握り潰すような勢いで絞めあげる。しかし──
「何を、しているの、ピンク頭?」
瞬間、背後から声が聞こえ、モカが振り向くと、鼻先に回し蹴りが飛んでくる。目の前にいたはずの蒔絵が背後にまわり、回転しながら蹴りを放つ。
「残像か!」
モカはかろうじて蒔絵の蹴りを両腕でガードする。顔面への直撃は防げたが、そのままモカは後ろへ吹き飛ばされた。
「お兄ちゃん、やっぱり浴衣だと動きにくい!」
蒔絵ははだけた浴衣を直しながら、三太に文句を言った。
「ハンデにはちょうどいいじゃんか。それとも戻って着替えてくるか?」
三太は適当に浴衣の帯を絞めると、面倒くさそうな表情を浮かべ、ランと対峙する。
女に見えなくもない白い肌に細い身体。おおよそ体術には向いてなさそうな身体つきから見て、おそらく妖術に特化した能力の持ち主なのだろう。
目鼻立ちは理想的に整っていて、顎のあたりまで伸ばした淡い水色の髪はゆるやかにうねり、それがいっそう中性的な雰囲気を漂わせるのに一役買っている。年齢は自分とたいして変わらないように見えた。
「こっちは男同士、仲良くやろうや」
「僕たちを侮辱した罪は身体で償ってもらうよ」
「なんか、お前、キモいな。その見た目で言われると余計に気色悪い」
ランは三太の言葉を受け流すと、吹き飛ばされたモカに目をやる。
「モカ、大丈夫かい?」
「痛い痛い痛いーっ!」
仰向けになったまま、モカはじたばたと足でアスファルトを叩く。
「えーん! 下駄の角が手に当たったよ! こいつら反則だ! 痛いーぃ!」
「あとで僕が見てあげるから、ね、モカ、起き上がれる?」
「ホントに? ちゃんとモカの手を見てくれる?」
「約束するよ」
「じゃあ、モカ、大丈夫になった」
モカは元気に立ち上がると、満面の笑みをランに向け「さっさとこいつら殺しちゃおう」と言った。
ふたりのやりとりを黙って見ていた三太が,口を開く。
「なんか、口の悪い妹だな」
「そうなんだ、三太殿。いつも注意するんだけど、なかなか聞いてくれない。それでもモカは大切な妹なんだ。分かるだろ? 君も妹は大事だろう?」
「いやぁ、どうかなぁ……」
三太は目を線のように細くして蒔絵を見た。真顔の蒔絵が小さな声で呟く。
「お兄ちゃん……私、あっちの味方していい?」
「冗談だよ、冗談! 嫌だなぁ、蒔絵ちゃん」
三太は慌てて訂正する。
「もちろん、妹は大切だ! 世界で一番大切だ!」
「なら、せいぜい頑張るんだね。モカは凄く強いから、三太殿の大切な妹が死んでしまうかもしれないよ」
「ご心配ありがとう。でも、俺の妹は大丈夫なんだ」
ふたりは言いながら、じわりと間合いを詰める。
「君の妹も強そうだけど相手が悪い。お前ら、ガチャ運、ねーだろ?」
三太は不敵に笑うと、右足で地を蹴り、一気にランへ突進する。が、その分だけランも後ろへ跳ぶ。
「東の芝崎家といえば瞬足と訊いていたのですが、こんなものですか?」
「俺はいいんだよ」
三太は得意げに笑う。
「追いかけっこなら諦めてください。あなたでは僕に追いつけませんから」
ランは後ろ跳びで距離を保ちながら、間合いを詰めさせない。
「追いかけっこは昨日でたくさんだ。それより、いいのか? 後ろ後ろ」
ランが振り返ると、白い影が視界の隅に見えた。
(なんだ……? なにかいる?)
次の刹那、ランは激しく回転しながら吹き飛んで、電信柱に背中を打ちつける。回り込んだ蒔絵の回し蹴りが、ランの側頭部を直撃したのだ。
生温い血がランの額から目を伝い、アスファルトに赤い血溜まりをつくる。
「おい、平民。せめて妖術くらいは使わせろよ」
血まみれのランを見下ろしながら、三太は無表情に言った。




