第15話 3つの質問、道連れの抱擁
「対妖術・蛇崩」
山梨は身体の前で両手を合わせた。
湿り気のある風が足元から吹き上げると、周囲にはたちまち霧が立ち込め、やがてその霧は白い大蛇と化して蒔絵の背後に迫った。大蛇は瞬く間に蒔絵に絡みつくと、ぎりぎりとその華奢な身体を締め上げていく。
「……っ、なに、これ……い……痛い」
蒔絵は堪らずに声を上げた。
大蛇の白い鱗がぬらぬらと蠢きながら、蒔絵の身体を這いまわり、宙へと登っていく。
最後には細い首に巻きつき、これで仕上げとばかりに赤い舌をチロチロと出した。
「妖力を食べる蛇だから、大人しくしてね。暴れると窒息して死んじゃうからさ」
山梨がそう声をかけると、蒔絵は苦しそうにもがきながら、大きく目を見開いた。
妖力は枯渇するだろうが、死ぬことはないはずだ。
山梨が背を向け、歩み出そうとしたそのとき。
「待ちなさい」
──やはり来た。
背後から野太い声が響いた。山梨は溜息をつき、ゆっくりと振り向く。そこには大蛇を見上げる二人のかまいたちがいた。
ひとりは学ランを着たオレンジ頭の高校生、そしてもうひとりは、山梨が最も警戒していた初老の男、四眼の風刀である。
山梨は戦闘に時間をかけすぎていた。
飛びかかってきた格闘ゴスロリ少女が、想像以上に強すぎたせいで蛇崩を使わされた。
このレベルの妖術は、完成までに若干の時間を要する。それゆえ、相手に時間を与えてしまったのだ。
山梨はポケットに手を突っ込み、ニヤリと笑う。
「誰かと思えば四眼の風刀、生ける伝説とお会いできて光栄です。てっきり引退されたと聞き及んでいましたが」
「ほう、懐かしい二つ名だな。お若いのによくご存じだ」
晶は不敵に口角を上げて言うと、腕組みをしたまま山梨を見据える。
「蛇崩とは驚きました。我々の森でも使える者はごく少数です」
「伝説にお褒め頂けるとは光栄ですね。まあ、本来はあなた方の術ですけれどね。それより……」
山梨はいったん言葉を切ると、少女を締め上げる大蛇を指差した。
「その娘、助けなくていいんですかね?」
蒔絵は動かない。妖力を吸い取られ、気を失っているのだろう。山梨が術を解くその瞬間まで、大蛇は妖力を吸収し続けるのだ。
ただ……ふと違和感を覚えて、山梨は目を細める。
白い大蛇が少しだけ青ざめて太って見えるのは気のせいだろうか。
「ははは、そうでしたな。まあひとりで突っ込んだ上にこのザマですからね、子供とはいえ、少し灸を据えております」
晶は傍の三太に視線を向け、かすかな微笑みを浮かべた。
「おーい、蒔絵、いつまでそこで寝ているつもりだ?」
三太が囚われの蒔絵を見上げて声をかける。
「だって、お姉ちゃん、すごく、落ち込んでる……」
「ほら、兄ちゃんが受け止めてやるから、もう降りてこい」
「そーゆーの、キモい、自分で、できる」
山梨は目を疑った。あろうことか、大蛇が白く光りながら細かな塵になって飛散していく。
拘束が解けた蒔絵は、ふわりとアスファルトの上に降り立った。
「ええええええええっ、うそ、お嬢ちゃん、芝居だったの!?」
山梨はこめかみを両手で押さえながら天を仰いだ。
「本当に痛かったもん、でも妖力、たくさん、食べさせたから」
「たくさん食べさせたって、ああ、それで青白く太って……」
つまりはパンクである。蒔絵の強大な妖力を取り込みきれず、大蛇は自ら身を滅ぼしたのだ。
「あまり、術の中身、教えない方が、いい」
「蒔絵は蛇崩を知りませんでしたか?」
「うん、知らない、びっくりした」
「へへ、爺ちゃん、俺は知ってたぜ。式が複雑すぎて使えねーけどな」
「三太は別として、蒔絵にはきちんと高等妖術の勉強をさせないといけませんね」
「なんで俺は別枠なんだよ」
「お兄ちゃん、どーせ、難しいの、使えないでしょ」
眼中にないとはこのことだな──。
山梨は見下された自分に呆れつつ、逃げ道を探した。だが考えれば考えるほど、状況は絶望的に思える。
そして背後から、事態を破滅へと誘う声が響いた。
「ねぇ、ちょっと」
透き通るような、まるで鈴が鳴るような声だった。
振り向くと、白い制服にパーカーを羽織った小柄な少女が立っている。
気がつかないうちに挟まれていたのだ。
銀髪の少女──遠くからでも感じとれた存在感に、山梨は圧倒された。空気そのものが質量を帯び、ずしりと沈むように重く感じられる。
美しく陶器のような肌と整った顔立ちは、高貴さと威厳を湛えていた。表情というものがなく、そこには感情を拒む冷たさがあった。
「さっき撃ったのはあなたなの?」
栄生は戸惑うことなく山梨に歩みよると、小さな顔を真っ直ぐに向けて訊いた。
「そうだよ。申し訳ないけれど、君たちを狩るのが僕たちの仕事だからね」
「仕事か……」
栄生は山梨が肩にかけたライフルケースにチラリと目をやってから、言葉を続ける。
「私はね、今日、初めてこっちに来たの。いろいろあって森から追い出されたんだ。もしかしたら、あなたたちをたくさん殺せば、戻れるかもしれない」
「姫さ……」
晶が何かを言おうとするが、三太がスーツの裾を引っ張って止めた。
「それはまた物騒な話だね」
山梨は平然と言ったが、額に汗が浮かぶ。
こいつはヤバい……理由なしに本能が告げる。真打ちは“四眼”ではなくこの“少女”なのだと。
「具体的なことは何ひとつ言われてないの。『ひとりでも多く』って、ただそれだけ。でも……私は迷ってる」
栄生はわずかに笑みを浮かべ、夜空を見上げた。
「人界はすごく楽しそうだから。あなたたちとも仲良くできたらなぁなんて考えたりもしたの」
仲良くなる? この娘は何を言っているのだろうか……。
栄生は続ける。その声は、路地裏に上擦って響く。
「けれど、今夜、いきなりあなたたちに襲われて、追いかけられて、迷い子だった幼生も殺されてしまった……あなたではない、誰かに」
バレてやがる。だが山梨は表情ひとつ変えない。栄生の言葉に耳を傾けながら、脇腹をさするふりをして、腰の小刀にそっと手を伸ばした。
「森ではね、同族の争いでも、やられたら必ずやり返すの。低くく見られたら終わり。なあなあにしない。でも私はほかのみんなとは違う。さっきもお仲間を見逃したばかり」
ふたりの間を冷たい風が吹き抜け、栄生の銀髪を揺らした。
山梨にはまだ話が見えない。
「私は、たぶん……混乱してる。いろいろなことが起きすぎて、頭がぐるぐるする。だから、あなたは運がいい。3つの質問に答えたら今日はそれで終わり。あなたはお家に帰れる。どう?」
「ダメだよ、お姉ちゃん!!」
蒔絵が抗議の声を上げると、晶がなだめるように、そっと小さな頭に手を置いた。
「君が本気なら、とてもありがたい提案だね。どう考えても俺に勝ち目はなさそうだから」
おそらくこの提案は本気だろうと山梨は考えた。殺そうと思えばいつでもやれたはずだ。それほどの実力差を山梨は感じとっていた。
「じゃあ最初の質問」
栄生が人差し指を立てる。
まっすぐな眼差しは、一瞬たりとも視線を逸らすことなく、山梨の目を射抜く。グレーがかった色の瞳は、まるで心の奥底を見透かすようで、山梨は落ち着かない気持ちになった。
「私たちの情報はどこから?」
「知らない」
山梨は即答する。
「俺たちへの指示は、渋谷地区に第1種が現れるって話だけだ」
「質問に答えていない」
山梨は肩をすくめて小さく笑う。
「情報源が現場まで流れてくると思うか? 嘘なら無限に思いつくけどな。得意だぜ、そーゆーの」
状況は不利だが主導権は渡さない。たとえ生殺与奪を握られていても言いなりにはならない。そう、彼女の言うとおり、舐められたら終わりなのだ。
「まあ、俺の予想で良ければ答えてやる」
栄生は目を逸らさず、続きを待った。
「出どころはおそらく北の連中だ。分かるだろ、北の森。たぶんウチの上層部は北と繋がっている」
栄生は静かに目を瞑り、短く息を吐く。それから苛立たしげに、美しく光る銀髪を掻き上げた。
「次の質問。なぜあれほど憎める?」
信じられない問いに、山梨は言葉に詰まる。
かまいたち──しかも高位種の言葉とは思えない発言である。
「俺の部下には、君たちに妹を攫われた者がいる。あるいは父親を殺された者がいる」
「それをしたのは私じゃないし、迷い子でもない」
「でも君たちの仕業だ。憎しみが一族全体に向けられるのは必然と言えなくはないか?」
会話を黙って聞いていた晶と三太が、示し合わせたように溜息をついた。しかし栄生は真剣そのものである。
「人間同士だって過去を背負って憎しみ合う」
「あんな小さな子を殺して、骨にして、恨みが晴れるの?」
栄生の声が震えた。
「一族に責任がないと君は言えるのかい?」
押し問答を続ける栄生に、三太が歩み寄った。そして耳元で囁く。
「この話さ、ちょっと栄ちゃんには難しいかも」
「うるさいっ、バカにしないで」
栄生の潤んだ目を見て、三太は優しく続ける。
「バカになんてしてない。ただ、昔から戦っている敵から、納得できる答えなんて返ってこないよ」
栄生は涙をこらえながら、しばらく三太を睨みつけていたが、諦めたように身体の力を抜いた。
山梨は隠し持った小刀から手を離す。このかまいたちは変だ。何もかもが違っている。不安定な感情、無垢な疑問……それなのに、どこか気高さと危うさが漂っている──この娘は王族かもしれない。
「じゃあ、最後。これでおしまい」
「OK。ラストはなんだい?」
栄生は狭い路地裏から見える細長い夜空を、もう一度見上げた。ユンの竜巻が消え、辺りは嘘みたいに静かだった。大きく息を吸い込み、そこに含まれる風の色を確かめる。
薄い紫と水色。落ち着いた良い風だ。しかしわずかに流れが揺らいでいた。その揺らぎは、不吉な死の予兆と重なる。
栄生は信じられない行動に出る。
銀髪を撫でる風に押されるように、栄生は山梨の目の前まで歩み寄ると、背中に腕をまわして、静かに抱きついた。
「ちょ、ちょっと……え、なになに……?」
さすがの山梨も動揺を隠せない。想定外の一撃。いつもなら甘い言葉をもって抱きしめ返すところなのだが……。
「“はぐ”って言うんでしょ?」
身長差があるので、栄生は山梨の胸のあたりに額を寄せる。
「私たち、やっぱり仲良くはできない?」
栄生はそのまま山梨を見上げると、背筋が凍るような鋭い視線を向けた。
そして低く感情のない声で問う。
「あなたも道連れ。後ろから私を狙うのは誰?」




