15 楽園
この世に一切の不幸が無い『楽園』なんて存在しないよ!在ってほしいけど。
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シャワーのみを目的としていた肇と日下部は、露天風呂に入ることなく洗い場から出た。
しかし神楽と祷は、制服の洗濯乾燥を終えるのが1時間後であると聞いてゆっくりと風呂を楽しもうと思ったのだ。
気が合う2人である。
気が合う故に、事故が起きてしまった。
神楽の目にはバッチリと、祷の引き締まった体躯と割れた腹筋と立派な逸物が映った。
祷の目にもバッチリと、神楽の滑らかで真っ白な体躯と引き締まった腰と豊満な乳房が映った。
「露天風呂は繋がっているのだな」
神楽はそう言いながら、平然と露天風呂を見渡す。
しかし。
バチーンッ!!と勢いよく祷は両手で目元を覆った。そして逃げ出そうと男性用の洗い場へと足を踏み出した。
しかしそれを神楽が許してくれない。
ガッと腕を掴まれて祷は急停止した。
「む。風呂に入るのではないのか」
「貴方がいるから出て行きます」
「何故だ?一緒に入ったことがあるだろう?」
「いつの話をしているのですかっ!」
確かに祷は神楽と一緒に風呂に入ったことがある。
しかしもう10年も前、幼稚舎にいた頃の話だ。
「貴方には恥じらいというものは無いのですかっ!?」
「恥じらい?お前と私の仲だろう」
「誤解を招くようなことを言うのはやめなさいっ!!」
「誤解も何も、ここにはお前と私しかいないが」
神楽は何としても祷と共に露天風呂に入りたいようだ。
祷が必死に抵抗するが、放す気配は全く無い。
「何なのですかっ、また姉だから弟だからとか言い出すつもりですか!」
「さすが祷だな。その通りだ」
「実の姉と弟でも、俺たちのような歳になっていたら一緒には入りませんよ!!」
「む。そうなのか?」
「そうですよ!!後で妹さんがいらっしゃる桐生さんにも訊ねてみてください!そう言いますから!」
「……………そうか。……………そうなのか」
神楽はしょんぼりと眉根を下げながら、祷の腕から手を放した。その、放し方がいけなかった。
祷は祷で全裸の神楽から一刻も早く離れたくて、全力で身体を後方に引っ張っていた。
神楽は神楽で、何としても祷と一緒に温泉に浸かりたくて祷の腕を全力で引き寄せていた。
そんな両者の全力の力が拮抗していた時に。
神楽は声を掛けず、さらになんの前触れもなくパッと手を放したのだ。当然、祷の身体が勢いよく後ろに傾く。
「祷っ…!!」
神楽は慌てて祷に手を伸ばし、抱き込んだ。
いつもの通常の祷であれば、後ろに倒れ込みそうになれば類稀なる運動神経の良さでバック転などをして転倒を回避するのだが。今の祷は全裸の神楽が目の前にいるせいで、思考も何もかもがストップしていた。
だから祷は大人しく神楽の腕に抱かれ、そのまま2人そろって湯船の中に落ちてしまった。
つまりは予想外の流れで神楽の願望が叶ったということになる。
バッシャーンッ!と大きな水飛沫が上がり、次いでブクブクと大量の泡が浮く。
祷を抱えたまま湯の中から顔を出した神楽は、急いで祷の頭部を確認した。
「大丈夫かっ!?祷っ」
「……………………………………………ええ」
神楽の豊満な乳房に顔を挟まれた祷は、死んだ目をしていた。
「大丈夫そうには見えないが」
「大丈夫ったら大丈夫なんですよとにかく早く放しなさい」
神楽は祷が心配で、躊躇いながらも手を離した。
途端、ジャバババババと物凄い水音を立てながら祷が勢いよく神楽から遠ざかる。湯船から出て男性用の洗い場へ逃げれば良いのに、祷はわざわざ湯船の中で移動して神楽がいる場所の反対側へと逃げた。
さながら、釣られたもののリリースされて命拾いした魚のような動きであった。
とにかく祷は混乱して、冷静な思考も判断もできない状況である。額を押さえながら「おのれ神楽おのれ神楽」とブツブツ呟いている。怖い。
「頭は痛くないか?気分は悪くないか?」
「動かないでください」
動くなと言われたので、神楽は遠巻きに見ながらも祷を心配する。
「貴方のおかげでどこも打っていません。それより、俺を庇った貴方の方こそお怪我はありませんか?」
「問題ない。湯の中に身を投げたからな」
「そうですか。それはよかったです」
会話が終了してしまった。祷にとっては気まずい沈黙が広がったように思えたが、神楽は瞼を閉じてうっとりと温泉を堪能している。
この状況で。
馬鹿なのだろうか。と、祷は学年首位の成績を取り続けている神楽を信じられないモノを見る目で見る。
そんな祷の視線に気付くことなく、神楽はふぅと息を吐いてリラックスしている。
祷も思わず溜息が出た。
「はぁ…」
今更だ。神楽は祷のことを弟のようにしか思っていない。
いつもいつも心を乱されるのは祷だけなのだ。
怒りで少しだけ冷静になってきた祷は、湯船から立ち上がって静かに男性用の洗い場へ出て行こうとした。しかしそれを神楽が呼び止める。
「む?もう上がるのか?」
「動かないでください」
こちらはなるべく神楽の裸体に視線が向かないように必死なのだから。祷は神楽から顔を背けたまま、湯船から出て男性用の洗い場へ繋がる扉に手を伸ばした。
しかし、いつの間にか背後に迫っていた神楽に肩を掴まれた祷はドアノブを掴めなかった。
「……動くなと言いましたよね」
「む。まだお前と湯船に浸かっていたい。駄目か?」
「駄目です」
「何故?」
「貴方が女性で、俺が男だからです」
祷が神楽に視線を向けずにキッパリと言い切った。
すると、微かに神楽の呼吸が震えた。
そして震えた吐息のまま、神楽が口を開いた。
「………私が、男であれば良かったのか」
神楽の呟きに、祷は思わずピクリと肩を跳ねさせる。
「……お前も、そう望むのか」
いつもぶっきらぼうだが堂々たる口調で話す神楽らしくない、弱々しくて途方に暮れたような声音だった。
祷はドアノブを見つめたまま、少しだけ顔を神楽の方へ向けた。
「そうは言ってないでしょう」
「では何故、今、共に入浴することを嫌がる?いつも危険を理由に私の行動を制限する?たまに、私の荷物を持とうとする?」
珍しく神楽が質問を重ねる。
「何故、お前は、私を『女』として意識した言動をする?」
何故、だと?
──────愚問だな。
祷は嗤った。
「無粋なことを聞くな」
祷は自身の肩を掴んでいた神楽の白い右手を握った。その手を掴んだまま身を翻し、素早く神楽の左手も掴んだ。
瞬間的に腕に強い力を入れて、驚きに目を見張る神楽を引き寄せて体勢を崩させた。
よろめいた神楽を、そのまま男性用の洗い場へ繋がる扉に押し付ける。
ダンッ!と背中を強く打って顔を顰める神楽の両手を、祷は扉に縫い付けた。
両手を拘束された神楽が、動揺で揺れる宙色の瞳で祷を見下ろす。
「何をする」
「動くなと言ったのに聞かなかった貴様のせいだろう」
祷はクツクツと喉奥で嗤いながら、月食の如き昏い瞳で神楽を見上げる。
「貴様は聡明だが、色事になると愚鈍だな」
「色事?お前と私の仲だろう」
「俺と貴様はただの隣人だろうが」
「しかし幼き頃からの付き合いだろう」
「貴様、この状況でまだ姉だ弟だなどとぬかすか」
「そうだが?」
神楽は至近距離で祷の瞳を見つめ返しながら、その目に真っ直ぐな光を宿す。
「そうでなければ何だ。幼き頃から共に行動し、肩を並べて成長した。姉弟のようなものだろう」
「姉弟?」
神楽の瞳から放たれた一直線の光が、祷の瞳の中でグチャグチャに捻じ曲げられる。
太陽の光が、太陽と月の間にある地球によって遮られ、月面が陰るように。
神楽の瞳に宿る陽光が、祷と神楽の間にある大きな隔たりによって、祷の月のような瞳には陰しか届かないのだ。
「以前も言ったが、俺は貴様を姉などと思ったことは一度も無い」
「知っている。お前が私を慕いながらも、同時に私を嫌っていることも」
──────嫌っている。
その言葉が祷の腹の底にゴンと落ちる。
(その通りだ。俺は貴様が大嫌いだ)
──────俺たちの因縁を『姉弟』などとぬかす貴様のことだ、神楽!
「貴様では俺の姉にはなれん」
「では、女である私はどうするべきだ?」
神楽の瞳に浮かぶ光が、焦燥と狼狽で揺れ堕ちていく。
「女である私は、星野や黒田のように気軽にお前と肩を並べて歩けない。それに……それに」
神楽は言いかけてやめた。
祷が夢遊病を発症し、無意識の状態で必死に呼び続けていた『真澄』という名を思い出したのだ。
「それに?何だ?」
挑発的な鋭い眼差しで見上げてきた祷に、神楽は首を横に振って見せた。
「何でもない。………何でもなくはないが」
「は?」
神楽は嫌なのだ。
祷の口から『ただの隣人』という言葉が出るのが。
許せないのだ。
神楽にとって祷は特別だ。唯一無二と言っても過言ではない。だから許せない。
訂正して欲しい。今すぐ、ここで、私を特別だと言ってはくれないか。
「とにかく今だけでいい。今だけは、共に湯の中に浸かり、語り合うことくらいは許してくれないだろうか」
女であるせいで父は落胆した。母は胸を痛めた。
だから人一倍、私は努力している。
いつか父も母も、心の底から安堵してくれるように。
女であるせいで、祷と対等になれないのなら。
私はどうすればいい?どのように努力すればいい?
お前の『他人』にはなりたくない。
でも、男でないから星野や黒田のようにお前の親友にも相棒にもなれない。
祷にとっての身近な女性だったら、『姉』になるしかないのではないか。
私とお前が絶対に離れられない関係性だろう。
──────いつか、お前が『真澄』という女性と一緒になったとしても。
「………なんて、顔をしているのです」
祷に言われ、神楽は目を瞬かせる。
「私は、どんな顔をしている?」
「美しい顔です」
祷は溜息を吐いた。落胆ではなく、恍惚とした吐息で。
「貴方は美しい。そのような顔を、決して俺以外に見せることは許しません」
「む。では、仮面を付けて生活をしろと言うのか?」
「違いますよ。そんな表情で他の男を見るなと言っているのです」
「どのような表情だ」
祷は神楽の質問には答えなかった。
「貴方が、『男』である必要はありませんよ」
だってもう、祷のその一言で神楽の表情が一変したから。
「何を心配しているのか知りませんが、貴方が男だろうと女だろうと関係ありませんよ。貴方が俺の隣にいるのは当然ですから」
祷はいつも、神楽の欲しい言葉をくれる。
それはもう、的確に、適切に、最適に。
「祷…」
──────祷の言葉がいつも、神楽の瞳を最も美しく輝かせるのだ!
「神楽」
「祷」
2人きりの世界で、2人は見つめ合う。
朝と夜の境界線が朧気になって重なるように、蕩け合う。
生まれたままの姿で羞恥も何も無く。それはまるで、聖書に書かれた原初の男女のように。
しかしその2人のように、祷と神楽が禁断の果実に惑わされることはない。余所見をすることはない。
お互いに、お互いだけを見つめる。
その時だった。
「神楽さ〜んっ!!」
突然、バァンッ!と女性用洗い場へ繋がる扉が開く。
「大丈夫神楽さ…………………………」
勢いよく扉を開けたのは、花蓮だった。
制服の洗濯乾燥が終わったので、神楽を呼びに来たのだ。
ちなみに花蓮は風呂には入らないので、制服を着たまま裸足で露天風呂に来たのだが。
花蓮は目撃してしまった。
神楽に迫っている祷の姿を。
男性用の洗い場へ繋がる扉に背中を押し付けられて、壁ドンされている神楽。祷はそんな神楽の両手を掴み、神楽の肩の横に縫い付けている。
しかも祷と神楽は全裸。中学生とはいえ男女が全裸で2人きりだなんて大変エッチだ。
大変エッチだ。
「あヒャ────────────!!?!?!?」
テンパった花蓮は奇声を上げながらも慌てて2人を引き剥がし、神楽の腕を引っ張って女性用の洗い場へと逃げ込んだ。
バーンッ!と思い切り扉を閉め、神楽をなるべく露天風呂から遠ざけるために洗い場の奥へ奥へと押し込む。
花蓮は混乱した頭を落ち着かせるため、何度も深呼吸を繰り返してから神楽に訊ねた。
「神楽さんっ!!?何今の!!?どういう状況!?!?えっ、大丈夫!?不純異性交遊は校則違反だけどぉ!?!?」
だだっ広い洗い場に、花蓮の大声が木霊する。
おそらく隣にある男性用の洗い場へも響き渡っていることだろう。
鬼気迫る花蓮を前に、しかし神楽は照れくさそうに目を細めながら頬をほんのりと桜色に染めた。
「問題ない。祷と語り合っただけだ」
神楽は嘘を吐けない。だから神楽が言うのなら、本当に祷とは語り合っただけなのだろう。
花蓮はその言葉にほっと安堵しつつも、さらに頬を紅く染めた神楽に愕然とした。
『前田さんもシャワーに行けば良かったのに』
花蓮の頭で、渚に言われた言葉が反響する。
花蓮はあの時、破廉恥だー!と叫んで全力で首を横に振ったが。
「祷にとっての私という存在を、再確認できた」
神楽は祷と2人で露天風呂に入り、イイ雰囲気になったということだ。
花蓮はガタガタと震えた。
せっかく想い人である日下部と同じ班になれて喜んでいたというのに。肇が日下部にベッタリ引っ付いていて近付けない。
──────否。自分に積極性が無いから近付いていないだけだ。
「神楽さぁああああん助けてぇええええええ!!」
突然、花蓮に抱きつかれて神楽はギョッと目を見開いた。
「どうした花蓮」
「師匠っ、先生っ、コーチッ!お願い私に教えてぇ〜!!」
「何をだ」
「恋愛指南をっ!!お願いしますっ!!!」
隣の男性用洗い場から、カポーンッ!と洗面器を落とす音が響いてきた。




