其の漆 試合開始
将軍家ゆかりの寺、西浄寺の広々とした境内。仁王門から本殿に向かう通りに沿って、何十本もの桜が今は盛りと咲き誇っている。
青天に柔らかい春の風が吹き、集う人々の足取りは軽い。いつもなら参拝客のみならず、花見客でごった返すのだが今日は違った。
「それでは、ただいまより、南北奉行所親善試合を行う。両代表剣士、前へっ!」
ドンッと腹に響く太鼓が鳴らされた。奉行から賜った真新しい道着に袴、鉢巻を額に締めた俺は、低い声で呼応して立ち上がった。
西浄寺本殿前の広場は鯨幕で大きく囲われ、二人の選ばれた剣士の登場を待っていた。
両奉行所関係者やその家族、主だった江戸城家臣だけでなく、江戸幕府の重鎮たちまでもが開け放たれた本殿から観戦と洒落こんでいる。全く、見世物小屋の晒し者になった気分だ。
「北町奉行所代表、定町廻り同心、火浦忠親殿!」
俺は綺麗に掃き清められた試合場の真ん中へと進む。目の端に、ユメが固唾をのんでいるのが見える。あんな真ん前に場所取りやがって……。
「南町奉行所代表、臨時廻り同心、林原京之介殿!」
相手の男は臨時廻り。これは昨日ようやく耳にしたことだ。臨時廻りというと、軽んじる奴もいるかもしれないが、臨時廻りというのは、往々にして隠密稼業のことが多い。
つまり、仕事柄から力戦派なのだ。同じくらいの年回りと思うが、精悍な顔立ちをした若者。一筋縄ではいかないだろう。かといって、負けるつもりはねえけどな。
「はじめっ!」
このような模擬試合では、竹製の刀を用いる。防具は胴着のみが認められているが、腹や頭は無防備なので、一発喰らえばかなり痛い。
二発先取だが、一発も喰らいたくはない。開始の合図と同時に、鋭い剣先が俺を襲う。だが、俺は冷静にその攻撃を躱し続けた。
不安と期待の入り混じった表情がちらりと見える。ユメだ。そしてその隣には、あいつの妹、琴が、許婚の昭之進とともにこちらを凝視している。俺は、ひと月前に起こった事件を思い出し、思わず笑ってしまいそうになった。
「この野郎、琴になにするつもりだ!」
天下の江戸城下町大通り。琴の後をこそこそ付けていた不審者を、ユメが取り押さえた。賊は一人じゃなかった。
複数の仲間がいたようで、あいつは得意の立ち回りであっという間に伸してしまった。
衆人の前で転がる男たちは、どういうわけか身なりがいい。あれ? とさすがのユメも戸惑ってしまった。
「待て。そこの男。おまえこそ怪しい。私が相手だ!」
するとそいつらの首謀者らしい、頭巾を被った男が飛び出してきた。
琴に付きまとってたくせに何を偉そうにっ! 声から察するに若そうだが、不届きものは許さない。ユメはその男と対峙し、じりじりと詰め寄った。
――――こいつ……。
予想外にこの男は腕が立つように感じた。あのユメに隙を与えない。だが、相手の男も同様に感じていたのは間違いない。
「あ、あの! もしかしてあなたは!?」
そんな膠着状態の場。ユメの背後に隠れるように怯えていた琴が、大きな声で叫んだ。その声に驚いたのか、男は突然狼狽え後ずさる。その隙を逃さんとばかりに踏み込んだユメだったが……。
「待って! 待って、兄上! その人は……」
ユメの体に縋り付いて止めたのは、誰あろう、琴自身だった。
つづく




