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陰間由夢乃丞と八丁堀  作者: 紫紺
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其の参 琴



 結局、俺はユメとともに、運河沿いの甘味処に入った。二階に上がり、河を行き交う小さな運搬船を眺めながら、薄茶を飲んでいる。


「ユメ、龍之介って名だったんだな。今まで、全く考えもしなかったよ」


 おまえに、由夢之丞以外の名があること。あって当然なのに。


「辰年生まれだったってことだけだよ。俺も忘れてた」


 自嘲気味に唇を歪ませて笑う。少々胸が痛い。


「それで、あの子は……」

「俺のすぐ下の妹、琴っていうんだ。あいつは器量よしだし、弟妹のなかで一番頭も良かった。仙台藩の家老、橘家の養女になったんだ。今は江戸詰めなんじゃないかな」


 仙台藩の家老といえば、相当な良家だ。そこらの小さい藩の大名よりも禄高は大きいだろう。


「仙台藩か……。うん、確かに色白の美人さんだったなあ」

「なんだよ、それっ」


 じろりと俺を睨みつけるユメ。


「おいおい、妹にヤキモチ妬くなよ。めんどくせえな」

「だって……」


 さっきは言葉遣いから普段と全く違って、俺は正直ぞっとしなかった。こんなふうにヤキモチ妬くおまえのほうがよっぽどいいけどな。


「まあいいさ。でも、あんな言い方しなくても。兄だと名乗ってやればいいじゃないか……」


 今はもう、陰間じゃない。おまえが言ったとおり、『西三河藩、田所由夢之新』という、立派な名前もある。

 ユメは湯呑を両手で抱えるようにして、ゆっくりとすする。それから、空気を漏らすように言った。


「無理だよ。弟妹たちと別れる時、俺は言ったんだ。俺のことは忘れろって」


「それはもう、済んだ話だろ」


 俺は少し声を荒げた。あいつが弟妹と別れるとき、ユメは現老中、水谷の情夫になった。弟妹達を水谷の力で良家に養子縁組させる代償として。だからそのとき、自分のことを忘れろと言ったのは百歩譲って理解できる。だが、今は。


「あいつらに、俺が取った行動の負い目を負わせたくないんだ。俺の過去は、今がいくら幸せでも変わらない。ああ、でも、俺は自分のしたことに後悔はしてないよ。こうして、忠親様のところに来れたんだもの」


 無理やりな笑顔を俺に見せる。それでも、おまえの気持ちはわかってるつもりだ。

 ユメは御館様を通じて、ずっと弟妹達の様子を気にかけていた。いくら良家にもらわれても、酷い扱いをされていたり、家そのものが傾いては元も子もない。だが、弟妹達は養子先で愛され、不自由なく暮らしていたようだった。


「最近も佐之助に探らせてたんだ。弟妹達は、文のやり取りをしてるみたいだし、みんな元気でいる。俺はそれだけで十分だよ」


 だんごをふた串も食べたからか、ユメは元気が出てきたようだ。いつもの調子を取り戻している。やせ我慢しているのは見え見えだが、今はこれ以上突っ込むのはやめてやるか。

 ユメの弟妹は幼かった。自分たちの兄が、まさか男の、しかも幕府重鎮の情夫になったとは思っていなかっただろう。


 ――――だが、すぐ下の妹だった琴は、なにか気付いていたんじゃないだろうか……。


 俺の胸の中に、そんな疑念が湧いた。あの、『人違いです』と言われたときの顔。無念さが滲んでいた。


「そんなことより、明日も稽古、楽しみだなっ」

「ふん、明日にはなまった腕もがんがんになってるからなっ」


 ようやく明るさを取り戻したユメの声。俺の懸念は朝霧のようにあっさり霧散してしまった。




 つづく



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