番外編 春の夢 其の壱 南北奉行所対抗試合
我が火浦家の中庭に、紅白の梅の花が彩りを加える季節になった。障子窓を開けると、ほのかな梅の香りが鼻孔をくすぐり、一挙に春が来た気分になる。
「きえええいっ!」「まだまだっ!」
しかし、そんな平和な雰囲気をぶち壊す気合の叫び。今朝もまた日が昇り切るより前から、無粋な連中どもが朝稽古に勤しんでる。うぐいすも、びっくりしてどっかに飛んでっちまってるよ。
「忠親様、おはようございます。起きられたのなら、御一緒にいかかですか?」
ユメがきらきらした瞳で俺に呼びかける。全く、目ざとい奴め。
「遠慮しとくよ。俺はもう奉行所に行く」
早起きしたのは、本日早番だからだ。そうじゃなきゃ、どんなに五月蠅くても、こんな早くから起きるか。
「そろそろ体動かさないと、なまってしまいますよー」
うるせえ。俺は、師走の事件で腕を斬られた。傷は深くはなかったが、しばらく不自由したのは事実だ。だが、今はもうずいぶんいい。これでも、剣の修行はしてる。まあ、たまに、だが。
しかしこの日、俺は自堕落な日々を呪いたくなるような、とんでもないことを御立与力殿から言い渡されることになる。
「ええっ! いや、それは……私は怪我あけですし。他に適任者はおりますでしょう」
早番の仕事は、当直の同心からの引継ぎから始まる。昨夜は幸運なことに、大きな事件はなかったようだ。牢にも新しい住人はいなかった。
だが、その引継ぎが終わると同時に、与力の御立殿に呼ばれてしまった。全く、早番でもないのに、毎朝早くから来てるお人だ。
「いや、適任は火浦しかおらん。そんなこと、貴様が一番わかっておるだろう。それにけがはもう治ったと聞いておるぞ」
しかも、話の内容は寝耳に水のことだった。
「それは……治癒はしておりますが」
「なら、決まった。北町奉行所代表は火浦、おまえだ。まだひと月あるから、しっかり鍛錬しておけ」
こちらの話は全く受け付けず、御立殿は俺の肩をぽんぽんと軽く叩いて、さっさと行ってしまった。
――――卯月朔日、五年ぶりに南北奉行所の撃剣大会が行われることになった。
喜色満面の御立殿の第一声に、俺はみぞおちのあたりをぐっと掴まれたような気分になった。嫌な予感しかしない。俺がなんの声も発せないままに、与力はあっさりと言う。
「北の代表は、貴殿を推薦したからな。ま、問題なかろう」
「え、いや、それは……」
結局、怪我をした事実も無視され、俺は北を代表して、南奉行所の誰かと戦うことになってしまった。確かに怪我は治癒している。痛みも全くない。
だが、自分で言うのもなんだが、俺はこの冬の間、とことん怠けていた。俺は寒いのが苦手なんだ。怪我したのを言い訳に普通にさぼっていた。ユメの言う通り、完全になまってる。
――――しかし、泣き言を言ってる場合じゃないな……。あとひと月。なんとか体を作らんと……。
正直、奉行所には与謝野伊織のような化け物はいない。それに勝つ必要もないのだ。怪我しないようにすればいい。それなら、ひと月くらいあればなんとかなるだろう。
――――問題はユメだなあ。あいつの地獄耳になら、すぐにもこの話は届くだろう。
俺が簡単に負けるのを許してくれそうもない。俺も……あいつの前で無様な剣は見せられないし。これが今回、最も頭の痛い事実だった。
つづく




