番外編 事件前夜
番外編
本編始まりの事件。
桜花殺害の前夜、二人の様子です。
寝室の床の間に置いた椛の盆栽。赤ん坊の掌のような葉が、少しずつ色づいてきた。朝の水も冷たさを感じるから、もう秋なんだろうな。
この館から滅多に外に出ることがない俺にとっては、季節なんて知らない間に通り過ぎて行く。
ただ、雪の朝、桜花たちとはしゃいだのは今でも思い出す。ガキの頃は良かったな。こんな日々であっても、生きてさえいれば、いつかは変わるってどこかで思ってた。
「ユメ、入っても構わない?」
襖の向こうから細い声が届く。桜花だ。
「もちろん、入って来いよ」
すっと襖が開けられた。その向こうにすらりとした垂れ髪の美形が笑みを湛えて立っている。少し頬が赤いのは、紅のせいだろうか。
「どうした? 今日は惣兵衛さんが来る日だろ?」
「うん。これからの段取りを親父さんと決めるんだ。後はその日が来るのを待つだけだよ」
「もう、惣兵衛さん以外の客は取らないんだよな」
「前金を支払った時からそうしてもらってる。親父さんがしてくれた。助かるよ」
ほうっとため息のような息を吐く。桜花は俺とほとんど同じ頃にここに来た。気付けばもう七年だ。長い奉公という名の拷問からようやく解放される。
「良かったな……体に気を付けろよ。桜花は頑張り屋さんだから、働き過ぎるんじゃないかと心配だよ」
桜花は大店の若旦那、菱田惣兵衛に身請けされることが決まった。惣兵衛の父親の言いつけで、桜花も仕事をするように言われているらしい。
俺はそれについては悪い話じゃないと思っているが、あくまでそれが『普通の人間に対する仕事』であればだ。もしかして、桜花を苦しませるようなことがあってはならない。それだけは許さない。
「大丈夫だよ。俺もそんな馬鹿正直じゃないし。惣兵衛さんも守るって言ってくれるし……。それに、別れの挨拶にはまだ早いよ」
確か十日後だったか。この陰間茶屋『市村』を出て行くのは。
「盛大に見送ってやるからな。うん」
俺は桜花がここから抜け出て行くことに、心から喜んでいたし嬉しかった。やっかむ奴がいなかったわけじゃない。いや、みんなずっと疑心暗鬼だった。
そんな夢のようなことが起こるわけない。すぐにやっぱり駄目でしたってなるに決まってる。だから、信じちゃ駄目だ。そんな空気があった。
――――それが、現実になったんだ。夢じゃない。自分たちにもそんな未来がまかり間違って降ってくるかもしれない。
少しの間でも、陰間や修行中のちび達が夢見てる。いずれそんな未来は来ないことを思い出しても、今だけでも信じてていいだろう。俺はそう思っている。だけど……。
「寂しくなるな……」
「ユメ……俺、いつでもここに……」
「ここには絶対に戻ってくるな。大丈夫さ。俺は平気だ。幸せになってくれ」
桜花は長い睫毛を少し揺らして頷いた。
「録治にも同じこと言われた……ここのことは忘れろって。でも……そんなこと……できない……」
「できるよ。幸せになれば……きっと」
桜花は俺の手を取る。少し冷たいのは気のせいだろうか。
「ユメ……今までありがとう」
「なんだよ。まだ早いんじゃなかったのか?」
桜花の形の良い双眸がうるうると滲んでいる。まだ早いと言ったが、本当はすぐだ。だから桜花も感傷的になっているんだ。俺はそっと両手で桜花の手を握り返した。
「ユメ、ユメ、起きてくれっ! ユメ!」
昨夜は俺に客もなく、静かな夜を一人で過ごした。つい夜更かしして書物を読んでいたのだが、それにしてもまだ早朝。こんな時間に起きる陰間なんていやしない。
「なんだよ……佐之助。火事でも起きたか。それなら焼け死ぬから放っておいてくれ」
「ユメ、冗談言ってる場合じゃないんだ」
声とともに襖が開けられた。隣の部屋に漏れる朝日が俺の寝所も明るくする。逆光で佐之助の表情はわからなかったが、様子がおかしいとすぐに気づいた。
「なにごとだ」
「桜花が死んだ。殺されたんだよ」
「な……なにを……馬鹿……な」
俺は佐之助が何を言ったのか、瞬時に理解出来なかった。だが、胸が急に苦しくなって、息をしようとするのにうまくいかない。ひゅーひゅーと聞きなれない音が俺の耳を襲っていた。




