世の中は物語であふれてる。
「読み手のことを考えずに書くから読まれない」
件のエッセイの感想欄に書かれた批判の中の一文です。
正直ね、エッセイの本文で、「好きなように書くというのは適当に書きなぐるという意味ではない」とはっきり書いてあったのに、それを無視して真逆のことを、適切な反論も無しに主張してくるのはどうなんだろうと結構本気で思ったのですが、他にも色々と言いたいことがあったので、そこはスルーしてしまいました。――全体として、この感想自体、読み手である私のことを考えて書いてないよねと本気で思ったのですけどね。
でもそうですね。ちょっといい機会なので、ここでもう一度、主張しておきたいと思います。
「別に、作者は読者のことなんて考えなくていいと思います。ただ、物語や表現に気を配り、作品としての完成度を上げることを考える。そうすれば、自然に読み手にとっても価値のある作品になるはずです」
創作者の基本的な姿勢は、こうあるべきだと思いますが、どうでしょう。
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――小説とは、物語とは、何でしょう。
何事も、基本というのは大切です。ですが、ここで創作活動をしている方は、系統立てて基礎を学んだ人間は、あまりいないのではないかと思います。
……というか、そもそも「小説の基礎」とは何かということ自体が、結構な哲学だと思います。「小説を書く上でこれは絶対に知っておいた方がいい!」みたいな知識はなかなか見当たらないというのが実情ではないかな、と。
だからそうですね、どちらかというと、いろんな情報を読み込んだり実践したりして自分に向いた方法論を構築していくのが一般的かな、なんて思います。
ただ、少なくともツイッターとかでよく見かける「なろうテンプレ論」のようなものは、基礎にはなりえないと思います。……もしかしたら基礎として機能するのかもしれませんが。ですがその基礎は、なろう(というか正確にはweb小説界隈)の中でしか通用しないのは、ほぼ確定しています。
でなければ、世の中はもっと「なろう」っぽい物語であふれるでしょうし、そもそも「なろう系」みたいな分類もできていないはずです。
よく見るweb小説界隈の創作論は、物語のジャンルのことを型と誤認していたり、物語の中でよく使われる属性や様式のことを型と言ったりと、控えめに言って無茶苦茶です。
――そうですね、例えば「水戸黄門のテンプレは?」と聞かれて、「チャンバラをしてから印籠をかざして一件落着」と答える位には、浅い論であふれていると思います。
水戸黄門は確かに毎回、チャンバラをしてから印籠をかざして終わります。だから、それをテンプレと言いたくなるのもわかります。ですがそれって、単に視聴者が印象の残る場面を口にしているだけですよね。
実際に水戸黄門に使われているテンプレはどんな感じなのか考察すると、多分下記のような形になっているのではないかと思います。
1.善良な町人と権力者・大商人が対立する。
2.その騒ぎに黄門さま一行が通りかかる。
3.表で町人の相談に乗りながら、裏で調査を進める。
4.お銀が入浴。
5.最終局面で黄門さまが介入、権力者側の不正を裁く。
どうでしょう? 確かにこんな感じになっていると、なんとなく納得していただけるのではないでしょうか。
――ここで、この水戸黄門テンプレに納得できるというのは、結構大切なことでして。
多分、この水戸黄門テンプレを見て「な、なんだってぇーーっ!」と衝撃を受ける人はほとんどいないと思います。「言われてみれば確かに」とか「そうそう」とか、なんとなくわかっていたことの再確認になった人が多いのかなと。
つまり、ほとんどの人が、この水戸黄門テンプレのことを既に知っています。それは言葉を変えれば、「水戸黄門のような話を創るための基礎は、作者、読者に関わらず、ほとんどすべての人の中に眠っている」と言うことになるかと思います。
◇
物語を創る上で、基礎が大切なのは確かです。基礎を無視して良い物語が創れるかと言われれば疑問だと、私も思います。
ですが、私たちは日常生活のいたるところで物語に触れています。テレビをつければ物語が流れますし、書店に行けば常に新しい小説が並んでいる。映画館では多額のお金を費やして制作された物語を見ることができますし、インターネットではその物語を定額で好きなだけ見ることもできる。
現代に生きる私たちは、途方もない量の物語に接して、その物語からさまざまなものを吸収しながら生きているのです。私たちは誰しもが物語の良し悪しを判断することができますし、物語を妄想することもできます。その位のことができる程度には、物語の基礎を感覚として学んでいるのです。
――だから実のところ、作者が「基礎から外れること」を個性だと勘違いしない限り、物語の基礎を学ばなくても、大抵の場合は問題になりません。
何も知らないままに執筆しても、わざと物語の型を外そうとしない限りは、物語の型から外れたりはしないんです。だって、私たちはそれを知っているのですから。読者だけでない、作者も「型から外れた」ことは気付けるのです。
だから、自分の中にある物語を大切にして、ちゃんと構成を考えて、真面目に執筆すれば、ちゃんと物語になります。決して形無しになんてなりません。
……ただ、なろうテンプレを型と誤認すると、高い確率で物語の型から外れます。なろうテンプレは基本的に、スタートダッシュをするための型でしかありません。だから、なろうテンプレ「だけ」を頼りに執筆を始めるのは、ちょっと考えた方が良いとは思います。
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完結した物語を書くのって、そこまで難しくないですよ。少なくとも私は、初めて書いた話、約25万字ほどでちゃんと完結させましたし。
そりゃあ「何があってもエタらない」とか言い出すと、超絶難度になったりするのも確かですが。私の好きな作家だとアシモフとかね、偉大な作家だと思いますが、その代表作の一つと言っても良いであろうファウンデーションシリーズ、30年くらいエタってましたからね。
……まあ、長くなればなるほど物語として完結させるのが難しくなるのも一つの事実だと思います。ですが、単行本1冊、10万字程度の話であれば、それが2〜3冊分の分量にまで膨れ上がることはあるとしても、どこまでも膨れ上がって完結できなくなるなんてことは稀なはずです。
始めから完結するつもりで話を考えて、その通りに筆を進める。もしその作品が完結できなかったとしても、次の作品も同じように完結を目指して頑張ればいい。そうやって書き続けていれば、いつかは完結することができると思います。
基礎は大切です。ですが、基礎はすでに感覚として自身の中に眠っています。だから、自身の中に眠る物語をじっくりと見据えて地道に執筆をすれば、例え一作目でエタったとしても次で挑戦すれば、いずれ必ず完結させることはできるはずです。
地道に書き続けていれば、物語を完結させるのは決して難しいことではありません。そして、よりよい形で完結させればさせるほど、その経験は作者を成長させます。
――その経験は、きっと自分の中に眠っている基礎の大切さを、自分自身に教えてくれることになると思います。
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なお、25万字という分量が少ないと感じるのなら、色々と感覚が狂っていると思います。本来ならもっと小さな、3万時未満の短編小説とかに挑戦して、中編、長編と少しずつ大きな物語を書けるようにしていくのが筋だとは思います。
ただ、短編には短編の難しさもありますし、書きたい物語を書くのも大切ですからね。読んでくれる人が支えになって書き進められるという側面もありますし、どちらが良いとは一概には言えないと思います。
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私は初めから「頭の中にある物語を形にしたい」という動機で投稿を始めました。執筆速度は遅い、テンプレ無視して自分の書きたいものを書く、なのにファンタジーで投稿したがる、技術が拙いと、ここまでランキングとは無縁の道を歩んでいます。なので正直、ランキングに熱中する人の気持ちは正確にはわかりません。……仮にプロを目指すにしてもまあ、自分ならあのランキングに挑むよりは違う道を選ぶかなぁと思いますし。
ただ、変な夢を見てランキングを目指して書き始めるのか、好きで書き始めてからランキングに載って変な夢を見るのかはわかりませんが。「自分が良いと思える作品を書いて」「それを読んでもらうためにはどうするか」というように、「作品」と「宣伝」を分けて考えられない人はね、変な夢なんて見ない方が良いと思います。
読者はね、常に「良いと思える作品」を求めているのです。作者に言葉通りの意味で「読者のことを考えてほしい」なんて思う読者はあまりいないと思いますし、そんな読者は切り捨てても構わないと思います。
作者に「読者のことも考えてほしい」と言うのは、要するに「作品を読む立場になって考えてほしい」ということです。あなたが読者なら、どんな作品が読みたいですか? 作者が情熱を傾けて書いた作品が読みたいですか? どうすれば良くなるだろうと頑張って勉強をした末に書かれた作品が読みたいですか?
――私は、作者自身が誇りをもって「これは自分の作品だ」と胸を張って言える作品を読みたいと思います。そして、私自身も、たとえ未熟でも、その時々で作品と向き合って最善を尽くしたと、胸を張ってそう言えるだけの作品を公開したいとも思っています。
そうですね、だからどんどん筆が遅くなっていくのですが。まったく、偉そうなことを言うたびに私の中から生まれてくる作品が減っていくというこの矛盾。本当に世の中というのはままならないものです(笑)
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結局はね、作者も読者も、作品のことを考えるのが一番大切なのだと思います。売れることを考えて売れる作品を創るのも悪いとは言いませんし、作品の向こうにいるであろう作者に気を遣うのも悪いことではないと思います。
ですが、こうも思うのです。――作者は作品のことを考えて執筆すればいいし、読者も作品を見て感想や評価をすればいい、と。
注目されるのは作品でいいし、評価されるのも、好かれるのも作品でいい。世の中の作品なんて、みんなそうやって生み出されてきたと思うのですよ。そうやって生み出されてきたからこそ、世の中にはこんなにも物語であふれているのかなと。
水戸黄門の原作者なんて誰も気にしないでしょう。でも、水戸黄門は誰もが知っているし誰もが楽しめる。水戸黄門の原作者が自己主張する世界はちょっとめんどくさそうですし、そんな原作者の手で作られた水戸黄門が果たして今のようになっていたか、個人的には疑問に感じます。
作者のことなんて意識せずに物語を楽しむ。その物語から何かを学び、その称賛は物語に与えられる。それでいいし、その方が良いと、私は思います。




