表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

6/19

6


「ジョオ、こちらだよ、下手だ」 


そう言ってどんどん西へ歩いてゆく。ジョオは不審そうに首をかしげながら、ベニヤミーノの後を追った。


「船着き場が変わりましたか」 


ジョオはベニヤミーノの背中に向けて尋ねた。


「いや」


相手は短く答え、工事中の区画を通り過ぎてさらに歩き、古い土手の外れに停泊している、ひときわ大きい船のところまできた。


「これに乗るんだ」


ベニヤミーノは船を示した。エルマは、高くそびえる二本の帆柱を中心に、複雑に張りめぐらされた綱の束に圧倒されて、ただ見上げている。ジョオは頭を掻いて、


「これは海船です、川上へお帰りではないんで?」


と遠慮がちに確かめる。


「うん、ジョオ、これを」


ベニヤミーノは財布から硬貨を出してジョオに手渡し、ジョオは額面に驚いて二度見した。


「尋ねられたら仕方ないが、できるだけ行く先を伏せてほしい」


「それは、まさか、駆け落ちで?」


ジョオは思わず、エルマに目を走らせた。彼女は少し離れたところで、口を半開きにして船をみあげている。ベニヤミーノは笑って、


「西の国に、仕事で招かれたので、女中を連れていく、それだけだよ」


と説明する。


「実家に連れて行くはずだったが、私の母も大概なので」


言葉を切って、ベニヤミーノも肩越しにエルマに目をやった。


「私が帰らなくても、気にする者はいないし、あの子も同じだろうな」


もう一度、ジョオに向き直ると


「家では皆、弟に跡をとらせたがっていてね、このほうがいいんだ。もし旦那様と奥様にご迷惑が掛かりそうなら、私がお詫びしていたとお伝えしてくれ。頼んだよ」


と、ジョオの腕を叩いた。ジョオは困惑しながら額に手をあてて、了承を伝える。


 運んできたトランクが機械で吊り上げられて、船に載せられると、ジョオは空の手押し車を押して帰って行った。この船は2日かけて西の国との海峡を往来し、両国の産物と若干のお客を運搬する。西の国は人口が少なく、旅客だけの船はない。船便自体、数が限られている。この船を逃すともう来月までないため、急な旅立ちとなってしまったのだ。


 ベニヤミーノはエルマを伴って船に乗り込んだ。船員が案内した、わずかな乗客のための船室は、長旅でもないので、ごく簡素なものだった。甲板の下の天井の低い居住層の一部を仕切ってあるが、扉の上と下には隙間が空いていて、物音を遮る役はあまり果たしていない。扉の正面は船の側面に当たり、丸い窓があった。窓の下には折りたたみの机、その横の壁の下部が折りたたみの細長い腰掛けになっていた。反対の壁に造り付けの二段の棚が寝床だった。扉の横の隅に固定された蓋付きの桶は、船酔いへの備えらしい。この季節には、海峡が時化ることはしばしばある。


 折りたたみの机を広げ、買った食べ物を外套から取り出して並べる。エルマもパンをそこにおいた。続いてベニヤミーノは外套を脱いで、エルマに渡し、壁の釘にかけさせた。折りたたみの腰掛けを広げ、腰をおろす。


「お前もまあ、お掛け」


 エルマは下の寝棚のヘリに固くなって座った。ベニヤミーノはこれからの予定を告げる。

 

「この船は海峡を渡って西の国のフィノーネに行くんだ。昼に出て、明日の夜までには着けるだろうが、今のうちに腹ごしらえをしておこう。お前、船には弱いほうかい?」 


エルマの答えは


「いいえ」


だった。


「具合が悪くなったらすぐ言いなさい」


そういって、ベニヤミーノは買ったパンや干し肉を食べ物をエルマに切り分けた。エルマは目を輝かせて夢中で食べ始めたが、途中で緊張した様子に戻った。ベニヤミーノは気を利かせて


「もっとほしいのか?」


と尋ねたが、彼女はあわてて


「いいえ」


と答え、食べ物を置いた机からできるだけ離れて座りなおした。あまり食べすぎても船酔いにはよくないかもしれないので、ベニヤミーノもほどほどで止めることにした。残り物は、窓の上の戸棚に置くことになるが、


「このままだと、ねずみが出そうだな」


と彼はあたりをみまわした。


「包みますです」

 

とエルマが持っていた小さい荷物から、エプロンを取り出して包みんだ。


「さて、ここに篭っていなくてもいいだろう。外の景色を見に行こう。外套を」


ベニヤミーノはエルマに手を伸ばした。エルマが釘に掛けた外套を外してただ差し出す。人に服を着せたことがなかったのだ。


「手を通せるように、広げて」


とベニヤミーノに教えられ、重そうに持ち直した。ベニヤミーノが伸ばした片腕を袖に通していく。通しすぎてはもう一つの腕が入らなくなる。ベニヤミーノはもう片方の手を振って合図した。エルマは外套をグイと引っ張って、合図した方の手にも通した。最後に背中を持ち上げ、襟を合わせる。ベニヤミーノは前合わせを両手でつかんで、


「よし、行こう」


と言った。エルマは額の汗を押さえてうなずいた。


 甲板に出ると船員が出船の準備で、慌ただしく動き回っていた。邪魔にならないところの船端から見ていると、大きな巻き上げ機に何人も取り掛かって力一杯に回している。それにつれて船はゆらゆらと揺れ始めた。そのあとで船着き場に結びつけた綱が解かれ、引き潮の力と追い風とで船は河をくだり、海へと向かった。


 エルマは左舷の手すりをしっかりつかんで、船尾の船着き場の方を見つめた。ゆっくり、ゆっくり、町全体が揺れながら船から遠ざかる。建物が小さくなる一方で農地の茶色と緑色が広がり、その後ろの遠くの山の存在がわかるようになった。今日、河岸まで歩いた道も、昨日女中に連れられて通った路地も広場も、そしてエルマがあんなに長い間、途轍もなく遠くと感じて往復を続けた、井戸から水がめまでの小道がある「お店」の裏庭も、なにもかもがあそこにあるのに、あんなに小さく、遠くなってしまつた。


 エルマは悲しいわけではなかった。もっと悲しいことを、彼女はいろいろ知っていた。ただ、これまで知ってきた世界から切り離されて、よく知らない旦那様にお仕えする心細さを、あらためて感じただけだ。手の甲のあかぎれが沁みて痛んだ。

 

 ベニヤミーノはエルマの船首側に立って、背中で手すりにもたれながら、


「なるたけ遠くをみないと、具合が悪くなるぞ」


とエルマに声をかけた。


「遠くにあって動かない物を見なさい。山とか雲なんかがいい。後ろに離れていく物は見るんじゃない」


そう教えて、進路にあるはずの西の陸地を目で探したが、この距離ではまだ水平線と雲しか見えるものはなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ