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厨房では、男の使用人が一服していたが、エルマの顔を見て、
「フォンテへ戻されずにすみそうか」
と声をかけた。エルマは
「はい」
と答えた。料理人は包丁を研ぎながら、
「それがいいや。男親なんて嫁と一緒になって我が子をいじめるくらいのもんだ」
と、何がしかの実感を込めて述べた。エルマには料理人の生い立ちを想像するだけの経験がなく、ただ聞き流した。それよりも、男の使用人が
「アラトロ様はおとなしい方で、めったに間違いもなかろうよ」
と言ってくれた言葉が、幸先のよいものとして心に残ったのだ。
エルマはその夕べを厨房の手伝いをして過ごし、賄の食卓についていたところに、呼び鈴が鳴って若い女が立ち上がった。そしてすぐに戻ってくると、エルマを一階の大きな部屋に連れて行った。ベニヤミーノ・アラトロが、かけていた椅子からエルマに振り返って、
「明日の午前中に、この家を出ることになった」
と伝えた。
「随分と急なことだ、見送りもできないな」
昼間はいなかった家主の男性が、長椅子の婦人の隣で、残念そうに言う。
「ちょうど昼前の船に二人分空席ができたそうで、あまり長居もご迷惑ですから」
あの後で船会社に問い合わせに出向いたベニヤミーノがそう説明した。
「うちは構いませんのよ、それよりベニヤミーノさん、荷造りは間に合いまして?」
夫人が懸念した。
「あらかたは、準備しておりましたから。2年の間、本当によくしていただき、ありがとうございました」
ベニヤミーノと主人はグラスを掲げあって、口をつけた。夫人は扉の前で立っていたエルマの方を向き、
「じやあね、お前も支度しておくのよ、ではおさがり」
と告げ、エルマはぴょこんとお辞儀をして、大きな部屋を出たのだった。
エルマの支度といっても、《お店》を出るときに与えられた肌着と靴下の替えの包だけだ。そう思っていたら、寝る前に料理人が、
「いいから持っていきな」
と洗濯されたエプロンを一枚くれた。この家のお仕着せなので、別に使用人の懐が痛むわけではない。エルマが大事そうにかかえて
「とてもありがと、です」
とお礼をすると、料理人は鼻を鳴らしてから、干葡萄を一掴み経木で包んで追加してくれた。
そればかりか、翌朝この家を出るときには、夫人がエルマに硬貨をくれた。エルマは小遣い銭など持ったことがなく、額面の価値こそわからなかったが、驚いて顔を上げた。婦人は嫌悪感を抑えた困り顔で、
「お菓子でも買うといいわ」
とささやいた。
「ありがと、です」
エルマはお辞儀をして、大切にポケットに仕舞った。
ベニヤミーノの荷物は、エルマが身体を丸めれば入れそうな大きな革のトランク一つで、男の使用人が手押し車に載せて船まで運ぶのだ。荷物の準備ができると、ベニヤミーノは夫人の肩に手をかけ、両頬に順にキスをする挨拶をした。
「ご主人にくれぐれもよろしく」
夫人のほうも彼の額にキスを返す。
「あなたも、お元気でね」
そして一行は、河岸に向かってゆっくりと歩きだした。新しいレンガ作りの建物が並ぶ通りはすぐに尽きて、一つ道をまたぐと小さな間口の店とその看板がびっしりと並ぶ商店街に置き換わった。大荷物を負わせた牛を牽いて歩く人もいるし、パンの大きな切れを片手に、惣菜屋でおかずを乗せてもらう人もいる。ふらつきながら、大声で独りわめく男は、エルマにも酔っぱらいだとわかった。ベニヤミーノは少しばかり食べ物や水を買って、エルマにパンの塊を持たせると、残りを外套の沢山のポケットにうまく収めた。
歩いていくと商店が減って、船着き場に近づくにつれ、周囲のざわめきの質が変わった。働く人も獣も数が増えて、たくさんある工房から、金属を鍛える音や木を削る音が耳に突き刺さる。少しづつ使われ始めた蒸気機関からガッシャンガッシャン、機械の音と蒸気の漏れるシューという男が鳴り響く。もちろん、地面を掘ったり土嚢を作ったりというような人力作業もなくならない。あちこちから、男たちが声をそろえ、歌うように掛け声をかけるのが聞こえる。
そして匂い、獣と魚と人の汗、タバコと肥料と排水の匂い。何の廃液か、油の虹を浮かべて赤にも紫にも見える水溜りがあって、エルマは気をつけて飛び越そうとしたが、靴に汚い跡がついた。
それらすべてを通り抜けたところに、途中まで築造中の新しい土手が、どん、とばかりに幅をきかせていた。それにそって船着き場が並び、緑がかった河の水には海鳥と川鳥がそれぞれに群れをなして浮かんでいる。
手押し車を押して来た使用人の男は、川の上流である東の方へ、土手を歩き出した。ベニヤミーノは彼を呼び止めた。
「ジョオ、こちらだよ、下手だ」
そう言ってどんどん西へ歩いてゆく。ジョオは不審そうに首をかしげながら、ベニヤミーノの後を追った。
「船着き場が変わりましたか」
ジョオはベニヤミーノの背中に向けて尋ねた。
「いや」
相手は短く答え、工事中の区画を通り過ぎてさらに歩き、古い土手の外れに停泊している、ひときわ大きい船のところまできた。
「これに乗るんだ」
ベニヤミーノは船を示した。それは、海を渡る船だった。




