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 翌朝目覚めたときは、身体を包む毛布の温もりから身を離しがたかったが、経験上、朝には自分が水を汲むのだと思いこんで、エルマは起き上がった。井戸があるはずの裏庭への出入り口を探していると、物音を聞きつけた男の使用人が、水汲みは自分の仕事だからと、エルマに厨房に戻るよう命じた。仕方なく、竈に火を起こそうと道具を手探りする。そこへ料理人が入ってきた。眠そうに生え際のあたりを掻きながら


「早く起きたもんだ」


とエルマに声をかけた。


「だいたい、ここの使用人でもないんだから、ほどほどに手伝ってりゃいいよ」


灯りを点して料理人が言う。エルマはこの家で働くことになったのだと思いこんでいたので、料理人の言葉にとまどった。


「あんた、アラトロ様のところに行くんだろ、アラトロ様はここの下宿人だよ」


なおも、エルマが腑に落ちない様子だったので、料理人は


「下宿人ていうのは、主人の家族がずっと住んでるのと違って、いっときだけ住む人だ。あたしらがお仕えするには違いないけど」


と説明してくれた。


「アラトロの旦那様は、遠くの町の出でね、ここの学校に通う間、下宿しておいででだったが、この度出て行かれるのさ、あんたもその町に行くんだろうよ」


喋りながら、料理人は火を興して、汲み置きの水を沸かして、カップにその湯とちょっぴりの砂糖を入れてエルマに飲ませてくれた。熱い湯をふうふう吹きながら飲むと、甘味が身体にしみわたる。エルマは先のことを考えるのをやめた。


 料理人は気前がいいし、仕事は少ないしでエルマは「お店」にいたときよりにくらべて、ずっと楽に過ごすことができた。細々した仕事を手伝ううちに午後になって、女の使用人が、アラトロ様がお戻りになったとエルマを呼びに来た。

 この家の《上》に上がる階段は一つで、毛織の敷物が敷かれている。エルマはおそるおそる踏みしめて上り、アラトロ様の部屋に通された。「お店」では《上》の使用人の領域すらほとんど足を踏み入れなかったのに、ご家族のお部屋にはいったということで、エルマはひどく緊張した。扉を入ったすぐ前で、両手をこぶしににぎって、お辞儀をした。 


 アラトロ様というのは、短い鼻と丸い目のまだ若い男で、学業を終えて下宿を引き払うことになっていた。名を、ベニヤミーノ・アラトロという。ポケットに手を入れて立って、エルマの身なりを確認するようにながめた。


「お前がグリエルマ・フォンテか?」


と尋ねられ、エルマは小声で、


「はい」 


と答えた。


「私の家からフォンテに書いた手紙があるそうだが」


エルマは昨日「お店」の女中に渡された手紙をポケットから引っ張り出して、あかぎれの手でアラトロ様に差し出した。一緒に入れていた櫛が転がり落ち、飛び上がりそうになった。相手はポケットから手を出して受け取り、背後に向きをかえて机上のナイフで封を切る。その隙をねらってエルマは急いで這いつくばって、櫛を拾い上げた。ベニヤミーノはちらりとそれを見たが、べつにとがめることなく、片手の指を唇にあてて手紙に目を走らせた。


「ここには15と書いてある」


読み終えたベニヤミーノは言った。それが年齢のことだとはエルマには分からず、また質問の口調ではなかったので、エルマは黙っていた。


「なぜ私のとこへ来ることになったか、聞いているか?」


これは質問だとわかったので早口で答える。


「はい、他所へやることになったと」


彼は不審そうに、


「何と言った?」


と聞き返した。エルマは女中頭に言われたことを一生懸命思い出して


「他所へやることになったから、戻されないように、と言われたです」


と説明し、この答えが気に触りはしないかとかったか、相手の様子をうかがった。彼は眉を擦って考える様子だ。エルマは不安に息をひそめたが、ベニヤミーノはひとつ大きな息をついて、


「そうか」

と言った後、改めてエルマの顔をみて、


「だが、私は遠くに行くことになっているんだ。お前を連れていったら、もうフォンテの人には会えなくなるんだよ。お前はそれで困らないかい?」


と、口調を柔らかくして尋ねただけだった。エルマはぼんやりと考えてみたが、「お店」には会えなくなって困るような人は誰もいない。


「困らない、です」


と告げた。ベニヤミーノはその返事に、


「よし」


と両手を打ち合わせた。


「なら、お前を預かろう。そのまえに家主夫人に挨拶だな。一緒においで」


 今度はベニヤミーノの背中を見ながらエルマは敷物のある階段を降り、玄関のある階の居間を訪れた。家主夫人は昨日エルマがあった婦人で、長椅子に掛けていたが、彼らの来訪に顔をあげた。


「奥様、ご迷惑をお掛けしました、これは結局、私が連れて参るのがよかろうと存じます」


ベニヤミーノは、後ろのエルマの方を手で示した。


「急なことで事情がわかりませんでしたが、実はこれの母が私の母方の身内でして」


「あら、そんなことが」


婦人はエルマとベニヤミーノを見比べた。


「はい、ちょうど私がこちらを発ちますので、アラトロで引き取ることが決まったようです。私には、フォンテという娘が訪ねるという話だけが伝っていたもので、不在の折でしたから、お帰りいただくよう奥様にお願いしてしまいました。実のところはこういうことでして…色々とお手数をおかけして、誠に申し訳ありません」


 ベニヤミーノは丁寧にお辞儀をした。エルマは話にあまりついていけず、自分も頭を下げるべきかと、おろおろと様子を伺うばかりだった。夫人は、ベニヤミーノに向かって、


「まあ、アラトロ様も、それは善いことをなさいますね」


と追従するような笑みを浮かべた。


「すみませんが、出立まで、この子をおいてよろしいでしょうか」


「ええ、心得ました。何日ほどかしら」


「さて、船の都合でなんとも。今から問い合わせますので、改めてお願いに参りましょう」

 

 またお辞儀をすると、ベニヤミーノは、エルマの肩を押すようにしてその部屋をでた。こういうなめらかな口上のやり取りを初めて耳にしたエルマは圧倒されてぼうっとしていた。


 ベニヤミーノは階段を上がりかけ、振り向いてエルマに、


「私は出かける。お前は私のところへ来るわけだから、上で待つかい?」


と尋ねた。彼女は恐縮して、首を左右に振った。


「下で、仕事があります、です」


と言葉を押し出す。ベニヤミーノは


「ならそうしなさい」


と、うなずいて階段を駆け上がった。エルマは馴染んだ厨房へと降りて行った。


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