18
カルロの家から、町までは森の中を30分近く歩かなくてはならない。馬車や牛車が時折通るので道幅はそれなりだが、足もとがぬかるんでいる。ベニヤミーノはカルロの妹のヴァレリアについて歩きながら、他愛ない話を続けていた。
「カルロが、自分でお粥を作るのかい?」
「それくらいはするわよ、パン焼くよりは全然簡単だもん。燕麦か蕎麦をやらかくなるまで煮るだけでしょ、味つけも塩入れれば十分だし」
「それはあれだろう?白いというより茶色い、粒ツブの粥だね」
「うん、そうね。東の国にもある?」
「燕麦の粥は食べるよ。でも蕎麦は、馴染みがない。ねえ君、粥を作る蕎麦とお茶にする蕎麦は違うのかい?」
「え?お茶のほうは煎ってあるのよ、それでお粥なんて無理でしょ」
「そうなのかい?ともかく、私は知らなかった。教えてもらえて助かったよ」
「もしかして、お粥つくったこと、ない?」
「ご明察」
ベニヤミーノの言葉に、ヴァレリアは戸惑った。
「なんて?」
「そのとおり、ということだよ。幸い、ラメッラが町なかに家を借りてくれたからね、私のほうはパンに不自由することはないさ」
「ジャンナの隣の家よね」
「ああ、君たちの親戚なんだってね」
「前に住んでた人が《参事会》に行っちゃったから、空家になったの。ジャンナは薬師だから、怪我したら隣に駆け込めばいいわよ」
「それは安心だ」
「あ、ここ分かれ道があるでしょ、この先に友達が住んでる」
ヴァレリアの言葉は、彼女の思考と共に素早く飛び出してくる。そこには気取りもてらいもなく、ベニヤミーノは自分も兄妹の一員とみなされているように感じた。
町の通りで、ベニヤミーノは
「さて、私は蕎麦茶を買おう」
と言った。
「もう道はわかるよね?あたしは買い物ないから、このまま帰るね」
ヴァレリアはそう告げて、ベニヤミーノに手を振った。
「道案内ありがとう」
「しゃべりながら歩くと楽だからね、気にしないで。じゃあまた、明日。さよなら」
ヴァレリアは軽く言って、帰って行った。
森の中を歩いていた間に、夕暮れが近づいていた。ベニヤミーノも、夕日に急かされるように、食料品店で蕎麦茶を買った。それから、雑貨店ではなく、港の際まで足を伸ばして、船具の店を覗いた。日暮れで、店は閉まる直前だったが、店員の男は
「気にしなくていい、引っ越ししたてじやあ、不自由だろう」
と言ってくれた。
「引っ越ししたてと、見てわかりますか」
ベニヤミーノが、我が身を見回して尋ねると男は笑った。
「地の人間は顔見知りでなけりや、親戚だからさ」
彼は細いロープを重さで量ってから、それに合う滑車を見繕ってくれた。こういうロープはこのあたりで作るられるのかとベニヤミーノが尋ねると、南の地方から来るのだという答えだった。
「ラメッラじゃ、ロープを作る気かね」
店員は冗談を言い、ベニヤミーノは頭を振って答えた。
「材料の産地相手じや勝負になるまいよ」
「まあ、何でもいいさ、しっかりやってくれ。新しい商売は回り回ってうちの儲けにつながるんだ、あてにしてるぜ」
彼は笑ってベニヤミーノの肩をパンとはたいた。
店を出ると、もう日が落ちていた。夜になると、一層風が強くに感じる。町の家の多くは鎧戸を閉じていたし、そうでなくても木に囲まれているのでて、灯りが戸外に漏れ出ることもなく、寂しい景色だった。ベニヤミーノはロープの束を腕に通して、手を外套のポケットに入れ、足もとに気をつけて家に戻った。ちょうど昼間エルマがしたように、肘でハンドルを下げて家に入る。玄関にはオイルランプが置かれ、油煙の匂いに混じって、魚の焼かれる匂いがした。
「ああ、寒かった」
と思わずベニヤミーノは口に出した。暖炉のほんのりとした温もりをありがたく感じながら、北の部屋に入る。エルマが竈からぱっと振り返った。
「あ、旦那様」
ベニヤミーノはロープの束を貯蔵室の前の床に適当におき、竈に歩み寄って手を暖めた。エルマが後ずさって場所を譲る。
「魚だね」
鍋の中を見てベニヤミーノは何気なく言った。エルマはそれをきっかけにエプロンの端を掴んで話し始めた。
「旦那様、あの、買い物に、お金を持って行きましたが、魚を売る人がお金をくれなかったです、それでお金がない、です」
ベニヤミーノは彼女の言葉の意味を考えるのに、瞬きするほどの時間を要した。
「それはきっと、お釣りのことだな、魚売りがお釣りをくれなかったのかい?」
「はい…」
ベニヤミーノは鍋の魚を見た。昨日買った魚の値段を思い出して頭の中で比べてみる。
「これだけ買ってお釣りをくれないのはおかしいようだな」
ここでは他所者はすぐにわかるらしい。その上、小娘だからと、暴利をむさぼられたのかもしれない。ベニヤミーノは懸念を覚えた。しかし、他の要因も考えられる。
「よっぽどいい魚なのかもしれない。1匹いくらだった?」
エルマは首をふった。
「わかりません」
「120銭貨だったろう。二匹買ってお釣りが貰えなかったということは、1匹60」
そう説明しかけて、ベニヤミーノはエルマの困惑した表情から、彼女にはおそらく割り算ができないのだと思い至った。ところが、エルマは、
「二匹ではない、です」
と言って竈の上に下げた魚を示した。5匹ばかりある。その上外にも同じくらい干したと言う。
「それだけ買ったならお釣りがなくても当然だろう」
ベニヤミーノは安心した。
「もう夕食に出来そうかい?」
と尋ねると、エルマはまだ深刻な表情のまま
「はい」
とうなずく。
そして、ベニヤミーノのトランクの上に並べられたのは、魚と葱のほかに、蕎麦粉と卵を混ぜて焼いた平たい粉焼だったが、ちぎれてばらばらになっていた。鍋に酷くこびりついて、剥がすのにエルマが苦心した結果である。
「パンがないですから、粉焼です。それが、破れた、です」
エルマは沈痛な面持ちで告げたが、ベニヤミーノは気にしなかった。
「食べれば同じだろう」
彼が平然と破れた粉焼と魚を食べ始めたので、エルマは安堵の息をついた。しかし、途中で彼が急にフォークを置いて立ち上がった。エルマは動きを止めた。しかし、彼はエルマを気にせず、壁に吊るした外套の所に行くと、ポケットを探ってお茶の包を取り出した。
「お茶を買ったのを忘れていた。食事の後で淹れてくれるかい」
ベニヤミーノは魚の皿の横にお茶を置いた。エルマは緊張を緩め、口の中の魚を飲み下して
「はい」
と答えた。




