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第21話「恋の雑音」第二部

「秋山さんに、キスしろ」


 颯太の言葉は単なる命令ではなかった。それはドォォンと、目に見えない鉄槌となってリビングに降り注ぎ、かろうじて生き残っていた祭りの余韻を粉々に打ち砕いた。


 世界が、止まった。


 プツン……


 キッチンの冷蔵庫が発していた、あの聞き慣れたモーターの唸りが唐突に途絶えた。窓ガラスを叩くヒューヒューという風の音も、虚無へと溶けて消えた。呼吸のリズム、誰かがゴクリと唾を飲み込む湿った音さえも、絶対的で無慈悲な真空に飲み込まれてしまった。


 常に「音」を自分の存在の避難所としてきた竜斗にとって、その静寂は異質な質感を伴っていた。重い。息苦しい。ギチギチと鼓膜を圧迫するような濃密な気圧が、まるで周囲の空気を琥珀のように凝固させ、彼らをその中に閉じ込めているようだった。


「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待ってよォッ!!!」


 ガタッ!


 真琴の絶叫が、ガラスが砕け散るように鋭く緊張を切り裂いた。彼女は弾かれたように上体をのけぞらせ、両手を前に突き出して必死の拒絶バリアを作った。さっきまで微かな桜色だった頬は、今や燃えるような深紅に染まり、彼女の髪の色と張り合うほどだ。緋色の髪がバサッと激しく揺れ、彼女は首がもげるほどの勢いで頭を振った。大きな緑色の瞳がウルウルと潤み、今にもパニックの涙が決壊しそうになっている。


 部屋の隅では、南千尋がササッと身を縮め、カーペットの繊維と同化しようとしていた。彼女は両手で顔を覆い、わずかに開いた指の隙間から、恐怖と好奇心がない交ぜになった瞳を覗かせている。喉まで出かかった悲鳴は、ヒュッという音にならない音として消えた。


 そして、夏川由美。オレンジ色の髪の少女の顔には、つい先ほど奪ったキスによる赤みがまだ残っていた。だが、彼女を包んでいた勝利のオーラはガラガラと音を立てて崩れ去りつつあった。唇をムッと尖らせ、興味がないふりをして顔を背ける。だが、その視線は裏切り、横目でしっかりと光景を追っていた。そこにはジロリとした、苦く鋭い嫉妬が渦巻いている。彼女が力ずくで勝ち取った注目が、今、残酷にも彼女から引き剥がされようとしているのだ。


 このカオスの建築家である颯太は、氷の彫像のように動かなかった。スーッ……彼の視線は武に注がれていた。虚ろで、死んだような、しかし鼓膜が破れそうなほど大音量のメッセージを放つ瞳。「お前が望んだのは、これだろう?リーダー?」


 反対側で、武はまるで腹に一発重いのを食らったような顔をしていた。由美とのキスでグルグルと混乱の渦にあった思考が、今度はこの究極の選択を突きつけられたのだ。彼の右手がワシャワシャと、神経質に自身のうなじを掻きむしる。由美とのふざけたゲームとは違う。これは生傷に触れるようなものだ。真琴への想いは本物だ。その可能性、その秘めた願望が、冷徹な命令として衆目に晒されたことで、彼の胸がズキリと痛んだ。


「お、俺は……わかんねぇよ……」武が声を絞り出した。ガサガサと、まるで紙やすりで喉を擦ったような声だ。拒絶される恐怖と、晒し者にされる重圧で、筋肉が硬直している。


「う……うん……」真琴がか細い声で同意したように聞こえたが、それは誰かにこの狂気を止めてほしいという無言の哀願だった。


 その瞬間、室温が氷点下まで急降下した。ゾクッ。


「逃げるのか?」


 颯太の声が空気を切り裂いた。低く、危険な振動を帯びて。普段の穏やかで優しい瞳から、慈悲の色が消え失せていた。今やそこにあるのは、武の存在を飲み込むような暗く重圧的な闇だけ。彼はヌッと、わずかに身を乗り出した。


「もし拒否するなら……俺への『罰ゲーム』を受けてもらうぞ」


 颯太の目がギロリと細められ、鋭い捕食者のスリットへと変わった。声に込められた脅威は肌で感じられるほどで、研ぎ澄まされた刃物のように鋭利だった。


「言っておくが……俺は容赦しない」


 竜斗の背筋を、ゾワワッと冷たい悪寒が駆け抜けた。全員の視線が山本颯太に吸い寄せられる。いつもニコニコと場を和ませていた少年の像が蒸発し、代わりに静かで冷たい怒りの化身がそこに鎮座していた。「本当に恐ろしいのは、忍耐強い男の激怒である」――その場にいる全員が、その真理をビリビリと肌で理解した瞬間だった。


 誰も息ができない。誰も逆らえない。武は友を見、真琴を見、そして逃れられない運命の重さに肩を落とした。退路はすべて、破壊されていた。


「わかったよ……」


 ついに彼は、奈落へと身を投げるように言葉を吐き出した。


 ズズッ……武が動いた。さっきまでの傲慢な自信は霧散し、教室で見せる天性のリーダーとしての立ち振る舞いも消え失せていた。彼はフカフカのラグの上を這い、その動きは遅く、機械的で、見ているだけでヒリヒリするような痛々しい躊躇いに満ちていた。そこにいるのは、ただの等身大の少年。好きな女の子の前で震える、無防備な「俺」だけだった。


「ま……待って……」真琴が囁いた。彼女はジリッとわずかに上体を引いた。背中をソファの土台に押し付け、まるでそこをすり抜けようとするかのように。激しく拒絶していた両手は空中で凍りつき、彼を突き飛ばすこともできず、かといって受け入れることもできず、宙ぶらりんになっていた。口では弱々しく拒んでいても、体は従わなかった。逃げない。動かない。ただ、見開かれた緑色の瞳に、ジリジリと距離を詰めてくる武の顔を映しているだけだった。


 由美は息を呑み、その光景に釘付けになっていた。颯太はサディスティックな輝きを目に宿して身を乗り出す。南は指の隙間から、耐え難い緊張のクライマックスを凝視している。


 武が目を閉じた。顔の距離は、あとわずか一掌分。彼はわずかに首を傾げた。ハァ……ハァ……二人の荒い呼吸が混じり合い、張り詰めた空気を共有する。


 その刹那。接触のコンマ一秒前。宇宙の構造が、崩壊した。


 世界が。無音になった。


 プツン。


 冷蔵庫のモーター音が、存在ごと削除された。荒い息遣いも蒸発した。外の風の音も途絶えた。まるで透明な巨人が現実のオーディオケーブルを引き抜き、絶対的で鼓膜を圧迫する静寂の泡の中に彼を隔離したかのようだった。


 目の前の光景――真琴に口づけようとする武――から奥行きが失われ、ペラッとした二次元の絵のように平坦になった。まるで、手の届かない遠くのスクリーンに映し出された映画のように。


 そして、その静止画の上に、記憶がパッ、パッとフラッシュバックのように明滅し始めた。鮮やかで、残酷なほど生き生きと。


 キラキラと午後の日差しが降り注ぐ教室。彼女の机に寄りかかり、ケラケラと笑う武。ポカッと彼の肩を軽く叩く真琴。彼女の顔には、太陽のような眩しい笑顔。廊下を歩く二人から発せられる、自然で完璧な調和。人気者の男子と、元気な女子。自分が単なる観客でしかない物語の、完璧な主人公たち。


(彼らは友達だ)竜斗の冷徹な論理が、思考の真空の中で囁いた。(相性は抜群だ。否定しようがない)


 武は彼女が好きだ。それは絶対的な事実だ。あいつはそれを明確にした。この馬鹿げた計画を企て、全員をここに集め、恥をかいてまで、すべてはこの一瞬のために収束していた


 そして彼女は……彼女は、彼を受け入れている。拒絶していない


 ギチチ……竜斗は膝の上に置いた両手が、ズボンの生地を強く握りしめているのを感じた。指の関節が白くなるほどに。


(僕たちは、「友達」なんだろ?)


 その言葉が、壊れた音声ファイルのように頭の中で歪んで響いた。(友達なら、これが正しい反応だ。祝福。応援。僕は笑っているべきだ。「頑張れ三浦くん」と心の中で叫ぶべきだ。結局のところ、僕は共犯者だ。順番を譲った。ここに来ることを承諾した)


(山本くんの計画に頷いた)


(僕が、お膳立てをしたんだ)


(それなのに……なんで……?)


 ドロリ……胃袋の中に、煮えたぎる鉛が流し込まれたような感覚。


(なんで、こんなに胸が押し潰されそうなんだ?)


 まるで重い錨が足を掴み、光の届かない、冷たく空気のない深海へと彼を引きずり込んでいくようだ。


 ジリジリと焼き付くような映像。触れ合う寸前の武と真琴。それは美しい青春のワンシーンのはずだ。


(なんで……なんで……)


 喉が完全に塞がった。空気が通らない。キィィィィン……周囲の静寂が叫び声を上げ、内側から響くホワイトノイズが耳を聾する。


 顔を背けたいという、暴力的で制御不能な衝動が体を駆け巡った。目をギュッと強く閉じて、星が散るまで開けたくない。この光景を存在ごと消去して、現実を書き換えたい。


 深淵のような心の虚無の中に、たった一つの問いが、孤独に浮かび上がった。


(どうして……)


(僕は、見たくないんだ?)

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