第16話「不意の微笑み」第二部
武の家のリビングは、雑音で満ちていた。紙に鉛筆が走るカリカリという一定のリズム。スマホのガラス画面を指が叩くトントンという鋭い音。二組の手がノートPCのキーを叩くカタカタという乾いた音。歴史の教科書のページがパラリとめくれる微かな摩擦音。そして、そのすべてを突き刺すように響く、スナック菓子を噛む音。バリボリという…どうにも落ち着かない咀嚼音。
竜斗はふわふわのラグの上に座り、ソファに背を預け、膝の上にノートを広げていた。
隣のダイニングテーブルでは、南千尋がモクモクと集中してキーボードを叩いている。長い黒髪がカーテンのように垂れて顔を隠し、シンプルなフレームの眼鏡がノートPCの青白い光を反射している。彼女は一人、スライド資料の作成に打ち込んでいた。
竜斗の隣、ラグの上では、赤茶けた髪をぐしゃっと無造作にまとめた秋山真琴が、武とスマホを覗き込みながら話している。二人とも、一応は調べているフリをしている。ソファ、竜斗の真上では、鮮やかなオレンジ色の髪が灰色のクッションと対照的な夏川由美が、純粋な退屈を顔に浮かべ、ひたすらスマホをいじっていた。そして、あのうるさい海老スナックの主、山本颯太が、「ちょっと休憩」中だった。
(…違う雑音だ。少し…ストレスが溜まる。僕の家とは、かけ離れている)
家なら、咲がギャーギャー騒ぐカオスな音と、賢進のゲラゲラうるさい笑い声、それに鍋がグツグツ煮える音。あれは慣れ親しんだ家庭の交響曲だ。ここ、武の家での雑音は社会的なもの。押し付けられた共同作業の音。
そして、どういうわけか、それも同じくらい疲れる。
(だけど、家の音は…好きだ)
「あ、あの…この延暦寺の部分、すごく大事だと思います」テーブルから、南の声がした。か細いけれど、意志が感じられる。彼女はノートPCに身を乗り出した。「朝廷との関係とか…僧兵の力とか…一番複雑なところです」
竜斗はただ頷き、ノートにカリカリと書き留める。(彼女だけが、真面目に作業している)。彼はもうその部分は読んでいた。意志のない、虚ろな目が、隣を見る。
武と真琴が、スマホの画面を挟んで、ほとんど頭がくっつきそうなくらいキャッキャと楽しげに話しているのが見えた。
「マジで!絶対こっちだと思ったのに、チーム全員、山の反対側まで連れてっちゃってさ」武が笑いながら言う。
「迷子になったの?自分の近所で?」真琴が楽しそうな声で返し、彼の腕をパシッと軽く叩いた。そのやり取りは、気安くて、親密だ。
すぐ後ろのソファでは、由美がスマホからじっと視線を外さない。だが、ほとんど本能的に、彼女は視線を感じた。竜斗の、疲れた視線だ。彼女は竜斗を見返した。少し、戸惑ったように。
竜斗はすぐに彼女を無視し、膝の上のノートに視線を戻した。しかし、真琴と話す武の、どこか「浮かれた」顔をチラリと見た由美は、ついに動いた。
「あ、そうそう、仏教!超重要!」由美がソファからよいしょと立ち上がり、ラグの上にぎゅぎゅっと割り込んできた。「ね、武くん?」彼の浮かれた空気を止めようと、必死さが滲んだ笑顔だ。
「もちろん」武は笑って答えた。彼はテーブルの南に向き直り、優しい笑顔で続けた。「延暦寺の部分、南さんにとってすごく大事みたいだし。そこ、発表してみたらどうかな?」
南は椅子の上でカチンと固まった。彼女はバタバタと必死に両腕を振って否定しようとし、危うく椅子から転げ落ちそうになる。「む、む、む、無理です…私…」
「どっちにしろ、全員が何かを発表しなきゃいけない」竜斗は、意志のない声で、ノートを見たまま言った。「だから、せめて自分の好きな部分を発表すべきだと思う。あるいは、もっと簡単な部分を…」
「だよな…?」武が疲れたように笑った。「でも、難しいところやボリュームがある部分は、俺と由美と秋山さんでバリバリ片付けるから!」彼は自信満々に笑った。
「ちょっと!勝手に私に仕事振らないでよ!」真琴が武の肩をポンと軽く叩き、武は「俺じゃない」とでも言うように顔をしかめた。
嫉妬にメラメラと燃える由美が、武の反対側にドスンと身を投げ出した。彼と竜斗の間に、ぐいっと入り込む。その勢いで彼女の体が竜斗の肩にドンとぶつかり、居場所を追いやられた竜斗の、こめかみの血管がピクッと浮き上がった。ほとんど、誰にも気づかれないほど微かに。
「そんな意地悪しないでよ、武くん!」彼女は媚びた声で文句を言った。
武はあははと曖昧に笑った。「まだ名前で呼ばれるの、慣れないな…」彼は首筋を掻いた。真琴が二人を見て、指先で口元を隠し、クスクスと笑いをこらえている。
「だって不公平だもん!この前、咲ちゃんがずっと『タケルお兄ちゃん』って呼んでたのに!」由美は片方の頬をぷくーと膨らませ、目を閉じてそっぽを向いた。
竜斗はその光景を見ていた。そして、考えていたのはただ一つ。
(…こいつら、全然作業に集中してない)
「今日、ここで集まって正解だったな」山本が、いつもの穏やかな笑顔で、テーブルの横から言った。「竜斗の家じゃ、終わらなかったと思う。特にお前の親父さんが帰ってきてからは」
その言葉に、真琴がビクッと固まり、竜斗を横目で見た。
「でも、竜斗の親父さん…強烈だよな」山本は楽しそうに続けた。「『パーティーだ!』とか叫びながらドカドカ入ってきた時、家が壊れるかと思ったぜ」彼はゲラゲラと笑った。
竜斗は、屈辱を思い出して耳がジーンと熱くなるのを感じた。義理の父親が、竜斗がクラスメイトを連れてきたというだけで大騒ぎし、文字通り作業を中断させて祝宴を始めてしまったのだ。
(そうだ。僕が今日ここにいなきゃならない元凶がいるとしたら、アイツだ!)
「ちょっと、集中!」真琴がパンパンと手を叩き、場を仕切った。「まだ荘園制度の調査も終わってないよ!それに源氏物語なんて、ほとんど手もつけてない!」
「リーダーは南さんと竜斗じゃなかったか?」山本が二人に視線を向けた。「どう思う?」
全員の視線が、竜斗たち二人にグサッと突き刺さる。南はキュッと身を縮こませたが、竜斗はただ肩をすくめ、ノートのページをめくった。「お前らが勝手に決めたことだろ…正直、なんでそんなことしたのかも分からない…」
山本は疲れたように笑った。真琴は戸惑った顔。由美は、つまんなそうな視線。そこで、武が弱々しく笑いながら言った。「調査の方針を、二人に決めてもらおうと思って…」
「だったら…」竜斗は南に向き直った。「南さん、作業が終わるまで、あとどれくらいだ?調査の進捗は別として」
「わ、私…ええと…その…スライド、まだかなり残ってて…調査も…」
「じゃあ、間に合わないな」
彼の声は単調で、ただ事実を述べただけだった。この課題は、うるさくて集中力のないこのグループには重すぎた。
「えー?でも、もう何時間もここにいるんだけど!」由美が抗議した。
「りゅ、竜斗くんの家でも終わらなかったし、ここでも終わらないね」真琴ははぁ…とため息をついたが、その目はすぐにキリッと引き締まった。「分かった。残りは分担して、また集まろう」
竜斗は答えなかった。ただ、ノートにカリカリと書き続ける。
だが、武がすっと立ち上がった。彼は竜斗を見た。その眼差しは、いつもの人気者のものではない。真剣で、冷たい光を宿していた。竜斗は、落ち着いたまま、遠い視線で彼を見返した。
「悪かった…竜斗…」
その言葉に、竜斗は驚いて顔を上げた。武は、部屋にいる全員を見渡した。「プレゼンは俺たちに任せろって言ったけど…このままダラダラして、あいつらに押し付けてたら、調査が進まない」
山本が、食べていた海老スナックの袋をテーブルの真ん中にすっと押しやり、横に置いていた自分のノートを引き寄せた。
由美はふんと鼻を鳴らしたが、ラグから立ち上がると、南の隣の椅子にドカッと座った。「スライド、手伝ってあげる」南は、突然の接近にビクッとして固まった。
武も再び座り直し、今度は、本気でスマホを操作し始めた。竜斗は、半信半疑で彼らを見ていたが…
その時、ふと視線を上げた。モクモクとキーを叩く武の、俯いた頭の向こうに。彼女がいた。
緋色の髪。
彼女は、武も由美も見ていなかった。その緑がかった瞳が、竜斗をじっと射抜いていた。優しい笑みが、その唇に浮かんでいる。
竜斗の虚ろな目が、彼女の視線と交わった瞬間。
カッと目を見開いたのは、竜斗じゃない。
彼女の方だった。
竜斗の口元に、自分でもほとんど気づかないほどの、微かな笑みが浮かんでいた。
その予期せぬ反応を見て、彼女の驚きは、さらに深まったようだった。
◇ ◇ ◇
数時間が過ぎた。春の終わりの、あのムシムシとした不快な暑さもようやく和らぎ、開いた窓から涼しい夜風がリビングに入り込んでくる。そして彼らは、ついに、その日のうちに課題を終わらせることができた。
鳥はもう鳴いていない。共同作業の社会的な雑音は消え失せた。今、武の部屋に響くのは、キッチンから聞こえる冷蔵庫のブーンという低い唸り音と、南がノートPCのファイルを保存する最後のクリック音だけ。
その後の静寂を埋めたのは、疲労と安堵が入り混じった、**ふぅ…**というため息と呻き声の合唱だった。
そこは、作業後の戦場だった。南はダイニングの椅子からガクッと崩れ落ちそうで、頭を手で支え、眼鏡がズレている。山本はローテーブルにぐったりと突っ伏し、ピクリとも動かない。武はソファの背もたれに頭をだらりと預け、両腕を広げている。由美はソファの反対側で、デローンと溶けているかのようだ。真琴もテーブルに**ふう…**と突っ伏し、顔を腕に隠している。
そして竜斗も、大袈裟な態度は取らないまでも、自分なりの苦痛の中にいた。足の感覚がジンジンする。何時間もフカフカのラグとソファの背に体を押し付けていたせいで、血が止まっている。
(若いのに…背中が痛い。…もちろん、尻も。同じ姿勢でじっとしてるのは、誰にでもできることじゃない)
最初に動いたのは真琴だった。彼女はダイニングテーブルからむくりと起き上がり、うめき声を漏らす。顔には寝起きの跡がついていた。「私…お兄ちゃんに電話してくる…」しゃがれた声で呟く。「家まで送ってもらえるかも…」
「おい!まだ早いって!」
武の声が、静寂を切り裂いてカンと響いた。彼はソファからガバッと、あまりにも素早く立ち上がった。その顔から疲労は消えている。
真琴は、その突然のエネルギーに戸惑い、少し怯えたように彼を見た。「え?でも…終わったよ…」
「まだ七時にもなってない」武は食い下がった。「この前、竜斗の家では八時くらいまでいたじゃんか」
「そうだけど…」山本が突っ伏したまま、親指を立ててグッと応えた。
「で、一体何するっていうの?」真琴が、ジト目で彼を見ながら尋ねた。
武は笑った。さっきと同じ、いたずらっぽい笑みだ。「ああ。それについてな…」
竜斗はそのやり取りを見ていた。胸が、いつもより少しドキドキと速く打っている。内なる雑音、低い不安感。それは、今日の昼過ぎのことを思い出したからだ。武が言っていた、「頼み」とやらを。
◇ ◇ ◇
数時間前の光景が、竜斗の脳裏に蘇る。
「…お前らに、頼みたいことがあるんだ」
「頼み?」
竜斗と山本の声が、ほとんど同時に響いた。山本はまだ竜斗に抱きついていて、竜斗は無言の苦痛の表情でそれに耐えていた。
「ああ!作業が終わった後でな」武は言った。彼は二人に背を向け、勝利のポーズのように腕を上げ、そして完璧に自信に満ちた笑顔で横を向いた。
「女子たちに、『真実か挑戦か』ゲームをやらせる!」
二人は顔を見合わせ、それから戸惑いながら彼を見た。
「なんだ、それは?」竜斗が単調な声で尋ねた。
「王様ゲームみたいなもんだ。ただ、もっとヤバい!アメリカの映画で見たんだ」武は、それが当たり前のことであるかのように説明した。
「はぁ…」山本はようやく竜斗から体を離し、その穏やかな表情が不審なものに変わった。「なんでそんな…『もっとヤバい』王様ゲームを?」
武が近寄ってきた。自信に満ちた笑みが、共謀者のそれに変わる。
「決まってんだろ。それを口実に…秋山と寝るためだ!」




