第84話 彼らは不条理を否定できるのか(後編)
「無理、か」
「無理に決まっておるのじゃ! 父上なら、出来るかもしれないけど……」
「魔王には出来なかった。だけど、お前なら出来るかもしれない」
「無理じゃ……無理じゃよ、悪魔殿」
辛そうな顔で、ヒメは言い張った。
「魔王は、お前なら出来ると考えている。俺もそれしか無いと思っている」
「父上に出来なかったことが、私に出来るはずない!」
「決めつけるな。お前は、守られるだけの子どもじゃ無いんだろ?」
「……こんな時だけ、大人扱いして」
ヒメは下を向いて、頭を振る。
「出来ないのじゃ。失敗したら、もう二度と、マナに会えなくなる気がするのじゃ」
「……」
「私みたいなのが、あんな、あんなところからマナを助けるなんて、絶対に出来ないのじゃ……」
俺はちらりと、ヒメの後ろにいる王妃を見る。王妃はじっと、俺とヒメを見つめていた。どうやら、説得に協力する気は無いようだ。
婚約者として、一人の男として、しっかりと務めを果たせということか。
「ヒメ」
「なんじゃ」
「出来なくても、別にいい」
「え……?」
意外な言葉だったのか、ヒメはゆっくりと顔を上げた。
「失敗しても、誰もお前を責めたりしない。だけど無理だと言って、何もしないのなら、俺はお前を叱らないといけない」
「な、なんでじゃ!?」
「友達が、助けたい相手が目の前で苦しんでいるのに、言い訳をして何もしないなんて」
それは、あるいは悪魔である俺の姿かもしれない。
「そんな大人に、なって欲しくないからだ」
「……でも」
「心配だと思う。不安だと思う。こんなことをお前に頼むなんて、ひどい大人だと思う。だけど、それでもお前には、やる前から諦めて欲しくない」
「…………私だって、助けたい」
「ああ」
「マナを、助けたい。でも、出来ないと思う」
「出来なくて良い。手を差し伸べるだけで、充分だ」
「それで失敗したら、きっと私は、自分を許せない」
「そうなりたくないから、マナを見捨てるのか?」
「それは……もっと許せない」
ヒメはその小さな拳を握りしめ、歩み出す。そして地面に落ちていた魔導管の前で止まり、その中の2つを選んで拾い上げた。
「どれが儀式用の魔導管か分かるのか?」
「この2つから、マナを感じるのじゃ。マナが、呼んでいる気がするのじゃ」
「魔王の話では、マナは怖くて恐ろしいものに包み隠されているらしい。もしも危ないと思ったら、すぐに儀式を中断しろ」
「わかったのじゃ」
「……俺は、マナよりお前を守りたいからな」
「嘘でも……ううん、今のは本当みたいじゃな」
俺の方を振り返ったヒメは、笑みを見せる。
「何か、俺に頼みたいことはあるか?」
「手を……握っていて欲しいのじゃ」
「それだけでいいのか?」
「……やっぱり、ぎゅっと抱きしめていて欲しいかな」
俺は地面に膝を付き、後ろからヒメを抱きしめた。
「……本当に、やってくれるんだ」
「当たり前だ」
ヒメの震えが、俺の身体にも伝わる。不安、恐怖、様々な思いがあるだろう。それでも、ヒメは前を向いている。
せめて、支えてやりたい。心から、そう思った。
「それじゃあ、始めるのじゃ」
魔導管を握るヒメの手が、仄かに光る。儀式用の魔法陣を通じて、マナの魂に接触しようとしているのだ。
「……遠い」
目を瞑ったヒメが、小さく呟く。マナの魂を遠くに感じるということだろうか。その身体はすぐ近くにあるというのに。
マナの魂が宿る勇者は、両手足を失ったまま地面に転がっていた。しかし気のせいだろうか、少しずつこちらに近付いているようにも見えた。魔王が超高速化で勇者を攻撃している以上、危険は無いわけだが。
「マナ……聞こえる……?」
ヒメが小声でマナに呼び掛ける。勇者には、変化が無い。全身にまとった白い霊気に黒い濁りを揺らめかせ、じっとこちらを見ていた。
「いるんじゃろ……怖いんじゃろ……」
震えの大きくなるヒメの身体を、俺はより強く抱きしめる。大丈夫だと伝えるために。魂は無くとも、俺はここで支えているのだと伝えるために。
「……マナ。私は、マナに帰ってきて欲しい」
「マナは、怖いんだよね。自分が逃げたら、『それ』がどうなってしまうか、とても、怖いんだよね」
「でも、大丈夫だから」
「父上が、悪魔殿が、みんながいるから」
「怖くても、嫌でも、マナが全部、背負わなくて良いから」
「逃げて良い、逃げて欲しいんだ、私は」
「だって……だってさ」
「マナは、友達だから」
「一緒に、美味しいものも食べたいし」
「いろんな場所に行きたいし」
「楽しく遊んだり、お話したり」
「だから」
「そんな所にいたら、ダメだよ」
「そんな暗くて、怖くて、悲しい場所になんて、いて欲しくないから」
「マナは、いつも、笑ってくれたから」
「笑っていて、欲しいから」
「だからさ、帰って来て」
「帰って来てよ、マナ」
「マナ」
「マナ……」
「……」
「帰って来て、――――――――」
ヒメが、奇妙な響きを発した。文字にできない、だが間違いなく、彼女の口から出た言葉。
それはつまり、俺の世界の言葉では無いもの。俺の世界には、微塵も存在しないもの。
――ああ、そうか。
ヒメが口に出したのは、マナの本当の名前だ。
ふざけた語尾や遊びで付けた愛称なんて、思考の外に追い出して。
ヒメは純粋に、彼女を求めたんだ。
彼女の魂に、想いを届けるために。
勇者の身体に、変化が現れる。
肌色の右手が霊気の層を破って、胴体から突き出る。同様に左手も現れ、両手で地面を引っ掻く。
「あ……」
それを見たヒメは、勇者に近付こうと動く。だが、俺はそれを抑え付けた。
「呼び続けろ。まだ、終わってない」
「うん……」
ヒメは魔導管を握り、集中を再開する。両手はやがて地面を押し、身体を起こそうとする。それに伴って両腕が、そしてマナの顔が、霊気の先に現れた。
「ヒメ……ちゃん……」
「マナ!! 大丈夫じゃ、あと少しで帰って来れるのじゃ!」
「ごめん……」
「謝るな!! 早く、早くこっちに来るのじゃ!」
勇者の白い霊気が、マナを覆って行く。黒い濁りが、マナの両腕に絡みついて行く。
再び、マナが勇者の中へ取り込まれそうになる。
「……私は、ここにいる。そして、繋がっている」
ヒメの握る魔導管が、それに繋がる魔法陣が、勇者の中のマナが、柔らかな橙色の光を放ち始める。
「そのまま、まっすぐ来れば、大丈夫だから」
マナの右手が、勇者の霊気を掻き分けて地面に触れる。続いて左手、さらには右膝が霊気の中から現れる。そしてマナの顔も、霊気の覆いから脱する。
そんなマナを引き戻そうとする、白い霊気と黒い濁り。それに抗い、立ち上がろうとするマナ。勇者としての使命と人間としての意志は、彼女の中で相反するものとなっている。
「頑張って、マナ」
つまり、マナの魂と勇者の断片は、明確に異なるものなのだ。
「ヒメ……ちゃん……」
マナの右足が霊気の中から現れ、大地を踏みしめる。2つの手と1つの足に力を込め、彼女は宿命から逃れようとする。
「私は、マナと一緒にいたい。マナは、どこにいたい?」
「私……私も……」
黒い濁りが、一斉にマナから遠ざかる。そして、マナが放っていた微かな橙色の光が、弱まっていく。
「私も……ヒメちゃんと、一緒にいたい」
マナの身体から、霊気が離れていく。露わになった彼女の左足が、立ち上がろうと最後の力を入れる。
「一緒に、生きていたい!」
そしてついに、マナの身体から勇者の霊気が完全に分離した。
「マナ!」
立ち上がろうとしたマナは、しかし転倒し、地面に倒れた。
そこにヒメが駆け寄り、彼女の身体を起こす。
「マナ……おかえり、なのじゃ」
「うん……ただいま、ヒメちゃん」
お互いの身体を強く抱きしめる、少女と乙女。
それは正に、勝利であった。
創造者が齎した、1万もの不条理。この世界に生きる者では絶対に抗えないはずの、運命。
だけど、その中のたった1つ、たった1人でも、この世界の者によって救えることが出来たのなら。
それは即ち、創造者の完全性が否定されたということ。絶対が、運命が、不可能が否定されたということ。
それを勝利と言わずして、何を勝利と言うのか。
「ごめんね……ヒメちゃん」
「謝らないでよ、マナ……謝っちゃ、ダメ」
「そうだよね……ありがとう、ヒメちゃん」
「マナが願ってくれたから、出来たんだよ……私だけじゃ、絶対に出来なかった」
「私も……ヒメちゃんの声が聞こえなかったら、帰って来れなかったと思う」
人々の思いが、創造者の指図に打ち勝てるのなら。この世界は、この世界に生きる者によって変えることが出来る。
創造者など、もはや不要なのだ。
なぁ、見ているんだろう。
お前の、負けだ。




