第69話 悪魔は無事に一夜を乗り切ることが出来るのか
いつもの部屋のいつものタタミの上では無い、地下室の居間。椅子に座る俺は一人、物思いに耽っていた。
「……はぁ」
溜息が出てしまう。どうしてこうなった。もう、こっそり逃げてしまおうか。
マナは現在、入浴中である。今ならこの部屋を出て、魔王城へと帰ることも容易だろう。だが、それはあまりにも情けない。かと言って、このままズルズルと流されて、過ちを犯してしまうわけにもいかない。うん、どうしよう。
俺は悪魔として、今まで女性との関係は可能な限り深めないようにしてきた。悪魔は仕事として異世界に呼ばれている以上、いつかは元の世界に帰らなければならない。同じ異世界に再び行ける可能性は高くなく、たとえ行けたとしても数十年、数百年の時間が経っているだろう。文字通り生きる世界が違う相手に入れ込んでしまうのは、お互いにとって不幸な結末をもたらすことが多い。
他人との関わりをもっと気楽に考えられたら良いのだが、それが出来るのなら元の世界でもっと真っ当な仕事に就いていただろう。世渡りが下手だからこそ、俺は異世界に来たのだ。世渡りが下手なのに世界を渡ってるのは冗談みたいな話だが、要するに逃げているだけなのだろう。
「逃げてばっかりだな、俺……」
ちょっと自己嫌悪に陥りそうになる。魔王やヒメが相手なら冗談ということで何もかも済ませられるのに、この部屋だとそれが通用しない。こうなったらテレフォンで魔王に連絡して……いや、それも格好悪すぎるだろ。マナと向き合うことを決めたのは俺なのに、そこから途中で逃げ出すなんてもはや恥である。後で王妃やマリアに無茶苦茶バカにされるわ。
俺は深呼吸して、冷静になろうと努める。俺は何をすべきか。マナの話をちゃんと聞き、穏やかな夜を過ごす。つまり、会話だけをすればいい。なんだ、いつもと同じじゃないか。落ち着いて考えれば何も問題は無いな。
「すみません、長くなりました」
風呂上がりのマナが、寝間着を着て現れる。仄かに香る石鹸の匂い、少し湿った艶のある茶色い髪、僅かに上気した顔、それらがとても色っぽく見えた。
「どうか……しましたか?」
「いや、なんでもない」
小首を傾げるマナから目を逸らしながら、俺は何でもない風を装って言った。
いかんいかん、呑まれるところだったわ! っていうか、異世界って俺の世界と比べて不衛生なはずなのに何でこんなにドキドキする香りの石鹸なの!? これも王妃の仕業か!?
「悪魔さんもどうぞ、お風呂に入ってください」
「いや、俺はいい」
「お風呂は毎日入らないとダメですよ?」
いやいやいや、中世ファンタジー世界は普通毎日入浴なんてしないからね? この世界だと多分魔王城周辺以外では通用しない常識だと思うよ、それ。
「俺は床の上で寝るからな。風呂は明日、魔王城に帰ってから入る」
「悪魔さんにはベッドを使ってもらおうと思ってたんですけど……」
「女の子からベッドを奪うようなことはしたくない。それに、俺にはこれがあるしな」
異次元収納装置を起動し、俺は寝袋を取り出す。この世界に来てからは使用していないが、他の世界には悪魔用の寝床を用意しない召喚者も時々いるわけで、そんな場合に便利なのである。召喚するならぐっすり眠れる部屋くらい準備すべきだと思うが、そういう気配りが出来なかった奴らは大体不幸な末路を辿ったので恨むに恨めない。
「便利な魔法ですね」
「魔法では無いんだが、まぁ、便利だろ」
「どこか別の世界から転送してきたんですか?」
「そんなところだ。俺の荷物を収納する空間と繋がっているんだ」
「転送の魔法は大魔王様しか使えなかったと教わったんですけど、それと同じことが出来るなんて悪魔さんはやっぱり、凄いんですね」
「俺が凄いわけじゃ無いが、俺の世界は凄いと思うぞ」
「そうなんですか……」
マナはそう答えた後、何かを考え込むような顔になって、じっと黙り込む。
「どうかしたのか?」
「あの……悪魔さんはやっぱり、自分の世界に帰りたい……ですか?」
何故、そんなことを尋ねるのだろうか。マナの目を見返すと、その瞳は怯えや寂しさの色を俺に伝えていた。それは口に出すよりも強い懇願となって、正しい答えを俺に促してくる。
だが彼女の望みに関わらず、俺の答えは既に決まっていた。
「正直に言って、分からない」
分からない。それが今の俺の、答えだった。
「わからないん……ですか?」
「ああ。帰りたい気もするし、帰っても仕方ない気もする。どっちが自分にとって良いのか、分からない。だから俺は当分、この世界にいるつもりだ」
仕事だから帰れないしね!
「でも、それはこの世界が……この世界の人たちのことが、嫌いじゃないってことですよね」
「そうだな。嫌いじゃないかもしれない」
「私も……私も周りの人たちが大好きです。だからこそ、今の自分が嫌いなんだと、思います」
自分に対する嫌悪。勇者の断片によって引き起こされたこの現状は、マナの中に鬱屈した感情を数多く生み出したことだろう。その中でも自己嫌悪は、彼女のような大人しい人間にとっては根深いものとなる予感がした。
「お前自身は今の自分が好きになれないかもしれないが、俺も他の奴らも、お前を嫌いになってないはずだぞ」
「そうなの……でしょうか」
「そうだろ。さもなきゃ、俺はここに来ていないと思うぞ」
「……ありがとう、ございます」
マナの目に、また涙が溜まりそうになる。
「泣くな」
「ごめんなさい、本当に、涙もろくなっちゃって」
後ろを向いた彼女は目のあたりに右手を持っていく。そしてすぐに振り返って、俺に笑顔を見せた。
「もう夜遅くですし、そろそろ寝ちゃいましょうか」
「ああ、そうだな」
俺は寝袋を床に広げ、その中に入る。マナの不安、マナの苦悩。それらを解消できたとは到底思えないが、今日一日でどうにかなるようなものでも無い。というわけで頼んだぞ、未来の俺と魔王とその他大勢。
「明かり、消しますね」
マナが照明型魔術装置の操作器を動かし、部屋が薄暗くなる。完全な暗闇になることを防ぐためか、照明の光はぼんやりと弱い光を放っている。
「おやすみなさい、悪魔さん」
「ああ、お休み」
マナはベッドに横たわり、掛け布団で身体を覆う。どうやら何事も無く眠りにつきそうだ。無駄にドキドキして恥ずかしいやら情けないやら。
俺もさっさと寝ようと思ったが、寝袋を使うのは久しぶりなのでちょっと寝苦しい。床も当然ながら硬いわけで、こりゃ眠りに落ちるまでに結構時間かかるかな。
目を瞑って、静寂に耳を澄ませる。地下室であるため外からの物音は無く、自分の呼吸さえも大きな音に聞こえる。こんな静かな夜を、マナは何日も過ごしてきたのだ。その寂しさは、俺が想像できるようなものでは無いだろう。
「……悪魔さん、起きてますか」
眠れないまま、何分経ったのだろうか。不意に、マナの声が聞こえた。
「ああ。眠れなくてな」
「私もです。夜は本当に、怖いです」
「静かすぎるからな」
「それだけじゃありません」
ベッドが軋む音がした。マナの方を見ると、上体を起こした彼女の姿が見えた。
「もしかしたら明日の自分は、もう自分じゃ無くなっているかもしれない。それがとても、怖いんです」
勇者の断片が魂にある限り、マナの自我が勇者の役割に塗りつぶされてしまう可能性は十分にあった。彼女にとって、眠りとは死の危険を孕んだものなのだ。
「怖くて、寂しくて、寒くて……誰か近くにいて欲しいって、ずっと、ずっと思ってたんです」
「……そうか」
彼女が俺を泊めた理由。寂しさを紛らわせるため。独りぼっちが、あまりにも辛いため。
「あの、悪魔さん……」
「なんだ」
「こっちで、一緒に寝て……くれませんか……?」
布団を持ち上げる、彼女の右手。
嫌なことを全て、ひと時の熱で忘れさせて欲しいという、誘い。
そこに救いがあるのならば、もしかしたら俺は同意していたかもしれない。
でも。
「マナ」
「……はい」
「俺は悪魔だ。悪魔は、知識や言葉以外を与えたりしない」
「…………はい」
言い訳だった。
彼女の誘いの先には、未来が微塵も見えない。満足感も、彼女の自由も、彼女と人々の穏やかな暮らしも、その行為の先には無い。
ただ、今を誤魔化すための交わり。そんなものを、受け入れたくは無かった。
「そうですよね……悪魔さんは、ヒメちゃんのものですから……」
「俺は誰のものでも無い。だから、ヒメは関係無い」
「……最低ですね、私」
そう言って、マナは再びベッドに横たわる。
ベッドの軋みと布団の被さる音が、マナと俺の隔たりを示すように響いた。
「仕方ないって、わかっているんです。誰とも会えないのも、自分さえ我慢すれば良いのも、それが正しいことだってことも」
違うと、言ってやりたかった。だけどそれを証明する方法が、何も無かった。
「それでも、私は優しくして欲しいんだって、気付いたんです。優しさが欲しいから、私は生きているんだって……」
「……そうか」
「ひどい女ですよね、私って」
「そんなことは無いと思うぞ。誰だって、優しくしてもらいたい気持ちはある」
「でもそれは私にとって、わがままなんです」
「良いじゃないか。ワガママを言ったって」
ほんの少しの時間、沈黙が部屋を支配した。
「やっぱり優しいですね、悪魔さんって」
「優しさから言っているわけじゃ無い。俺の周りの連中、魔王やヒメや王妃、その近くにいる奴らみんな、ワガママを言いまくっている。自分勝手に生きている」
「だけど私が自由になったら、色んな人に迷惑をかけます」
「だとしても、ワガママを言うくらいはいいだろう。優しくされるくらいいいだろう。本当にダメなことなら、周りの奴らが止めてくれる」
「でも」
「いいか。お前にダメな所があるとするなら、それは未来に期待していない所だ」
「未来……ですか」
「ああ」
酷な言葉だと思う。いつ自我を失い勇者という殺戮装置になるかも分からないのに、未来、なんて。
それでも、それを信じなければ終わりなのだ。
「お前にかけられた呪いは、いつか消える。この部屋からも出られる。また孤児院で、みんなと仲良く暮らせる。それだけじゃない。前に言ってたよな、生まれ故郷を見てみたい、って」
「……覚えてて、くれたんですね」
「魔王たちがお前を殺さないのは、そんな未来を諦めて無いからだ。それなのにお前がその可能性を捨ててしまったら――」
そう、可能性だ。魔王の行動原理は可能性であり、それは命よりも優先される。魔王と共に生きるためには、可能性を信じなければならない。
未来を、諦めてはならない。
「――自分自身も、優しくしてくれた全ての人も、何もかも裏切ることになる」
「……はい」
「それこそ、最低だ」
「だけど私はいつか、そんな存在に――」
それが間違っていることに気付いたのだろう。マナは途中で言葉を切った。
「そうとは限らない。確かに魔王も俺も、最悪の事態を考えて動いている。お前自身も、不安や恐怖、寂しさに負けそうになっている。状況としては本当に難しくて、未来なんて見えないようにも思える。それでも」
それでも、だ。
「それでも、可能性はあるんだ」
「……信じられないくらい、小さいかも知れません」
「存在していればいい。可能性の本当の大きさなんて、誰にも分からないしな」
「信じる価値は……あるんでしょうか」
「少なくとも、みんなその可能性を信じて動いている。それをバカだと嘲笑いたいか?」
「そんなのは、嫌です……」
「だったら、信じるしか無いんだ。辛くても心細くても、いつか楽しい日々が戻ることを。それを夢見て、生きてくしかないんだ」
「……厳しいですね」
「ああ、厳しいさ。その厳しさに負けて欲しくないから、みんな優しいんだ」
「……頑張ったら、また優しくしてくれますか?」
「当たり前だ。もちろん、口だけの優しさだけどな」
「……ふふっ」
マナの笑いが、狭い夜を微かに明るくした。
「わかりました。ありがとう、ございます」
「ああ。じゃあ、今日は大人しく寝るぞ。明日もあるからな」
「はい。明日も、あるんですよね」
それきりマナは黙り込んで、やがて寝息が聞こえて来た。
明日はある。それを信じることが、今の彼女にとって最も大切なことだ。そしてそれを信じさせることが、俺や魔王の仕事だ。
まったく、荷が重い。だけど投げ出してしまったら、これから迎える全ての明日に陰鬱な影が残るだろう。そんなん嫌だから、頑張るしかない。
俺は寝返りを打つ。ふと、室内にあった時計が目に入った。
時間は、午前0時過ぎ。
……明日、もう来てんじゃん!
勇者カウンター、残り1789人。




