⑮舟で山に登ろう
ナヴィス王国には「舟で山に登る」という諺があるのだよ。聞いたこと、ないかい?
この諺ね、二つの意味を持ってるんだ。
一つ目の意味は、「不適切な手段を取る」ということ。だって本来、舟は水のある場所、そう川や湖で使うものだからね。
もう一つの意味は「ありえないほど、素晴らしいこと」を表すのさ。
こっちの意味が生まれたのは、王国を縦に流れるフルメン川が、幾度も幾度も日照りと洪水を繰り返していた頃だね。
ある年、長雨が続き、この辺一帯が水浸しになった。
丘の上に住んでた年寄りが一人残されて、食べ物が尽きそうになったそんな時だったよ。
一艘の舟が、川の流れに逆らうかのように、上流目指して進んで行った。
それはそれは、不思議な光景だったろうねえ。
ありえないだろう? 舟を漕いでいたのは、二人の子どもだったよ。
舟は丘の上まで辿り着いて、無事に年寄りを救ったんだ。
多分、彼らは今のあんたたちと、同じくらいの年齢だった。
え、その話、もっと詳しく知りたいのかい?
じゃあ、椅子を持っておいで……。
1. はじまりの川
カロリーナの遊び場はいつも野原。彼女は領主エイガー伯の娘なので、王都に行けば令嬢だ。
領地では単に「嬢ちゃん」と呼ばれている。
エイガー伯の領地は、ナヴィス王国の真ん中に流れるフルメン川の西方にある。
「おおベルン、今日は川の機嫌が良いよ」
邸を出て裏山に登り、カロリーナは目を細める。
滔々と流れゆく川は、領民の生活の一部であり、神のようでもあり、時として悪魔にもなる。
「へえ、川に機嫌の良し悪しなんてあるの?」
王都からやって来たばかりのベルンハルトが、真面目な顔で尋ねる。
ベルンハルトはカロリーナより一歳ほど年上だが、体が弱いらしく背丈も低めだ。
サラリとした水色の髪と琥珀色の瞳を持っている彼は、王族所縁の少年なのだろう。
「うん! 今日は川面が緑色でキラキラしてるから、川の神様の機嫌が良いよ」
空は晴れて、雲も少ない。
川原近くまで行っても大丈夫だと、カロリーナは判断する。
カロリーナの瞳も新緑のように輝く。
「じゃ、じゃあさ。川の神様の機嫌が悪い時って、どんな感じなの?」
恐る恐るといった体で、ベルンハルトがカロリーナを見る。
「まず川の水が濁るの。緑じゃなくて土の色に変わるわ。だいたい何日も雨が降ったりした後は、川の神様はご機嫌ナナメよ」
ふと、ベルンハルトは指を舐め、空を指差す。
風の向きは東からだ。
天気の変化はないだろう。
「あれ、何してんの? ベルン」
「え、あ、ああ、何だろう……」
ベルンハルト自身、何でそんなことをしたのかは分からない。
「まあいいや。ヨシ! 行こうベルン!」
間もなく十一歳になるカロリーナは、ベルンハルトの手を取り駆け出した。
領地育ちのカロリーナの足は速い。ベルンハルトはすぐに息が切れる。
(間もなく元服だというのに、情けないことだ)
自身の内なる声に、ベルンハルトは思わず咳き込む。
げん、ぷく? 何だソレ。
「ベルン、大丈夫?」
「う、うん」
カロリーナの心配顔に赤面しながら、ベルンハルトは頭を掻いた。
エイガー伯の領地を流れているのは、フルメン川の支流の一つである。
初夏の時期は水が少なく、支流の河原は良い遊び場だ。
川原の葦が途切れる手前までは、遊んで良い場所だと教えられている。
ところどころに水たまりがあり、溜まった水は川に向かってチロチロ流れていく。
二人は、流線型の葉を折り曲げて、水たまりに浮かべる。
葉っぱの舟は、くるくる旋回しながら、じきに下流へ向かう。
くるくる回る葉っぱの舟……。
くるくる、くるくると……。
見ているうちに、ベルンハルトは意識が遠くなる。
『父上、公方様は何と?』
『農地への水を切らさぬよう、用水路の整備を仰せつかった』
くぼう、さま? 誰?
父上って、我が父、ナヴィスアレックス三世のことではない、のか。
僕が父上と、呼ばれていた?
いつの話?
「ちょっと、ベルン! ベルンてば!」
カロリーナの声にハッとして、ベルンハルトは体を起こした。
気を失っていたようだ。
「あ、ご、ゴメン。僕、今どうしてた?」
「いきなり頭が下がって、コロンと横になっちゃった。もうビックリしたよ」
「どれくらい、倒れてた?」
「そうね、ほんのちょっとだけ」
ベルンハルトの項が汗で濡れていた。
渡っていく風が心地よい。
徐々に覚醒しながら、ベルンハルトは自覚する。
ここではない別の場所、異なる時代に、自分は生きていたことがあるのだと。




