鮮血の輪舞曲
フルンティングを振り下ろしさえすれば、車椅子の皇女はひとたまりもない----はずだった。
だが、もちろんそんな事は二人共最初から分かっている。
「……ッ!?」
弾き飛ばされるように後退ったのは、私の方だった。
「ふぅん、なりそこないとはいえ、やっぱり魔女は魔女なのかしら? どうやら普通の人間の時みたいには大人しくなってくれないみたいね」
それは、指一本動かしていないというのに、凄まじい威圧感だった。
その発生源は、やはり眉間の第三の目だ。
(あれが、ラスプーチンが彼女に施した術の成果……じゃあ、やっぱり彼も『魔女』だったとでもいうのか……?)
『気を付けろ! その目はアージュニャー・チャクラだ! アージュニャーとは教令や教勅を意味するサンスクリット語で……つまり、他者の意思を操作する力を持っている! ソイツはただの邪眼なんかよりずっとタチが悪いモン付けられやがってるんだ!』
『今それを十二分に味わってるところよ……でもチャクラだなんて、ラスプーチンはチベットで山籠もりでもしてたの?』
皇女の眉間の瞳が、今度は揺らめく蝋燭にも似た橙色の光を湛え始める。
まるで彼女とは別の命を持った生き物のように。
『ラスプーチンは巡礼僧だ。各地の異端という異端を訪ねて歩いたばかりかキリスト教ですらない新興の宗教団体や秘密結社にも触れ、洋の東西を問わず神秘学の知識を吸い上げて来た男だ……トゥーレの親戚みたいなもんだと思え』
なるほど、ただの破戒僧かと思っていたが他人のチャクラを開かせるとはかなりの『力』の持ち主だったのだろう。
そう、まるでイエスに初めて神の声を聞かせたヨルダン川の洗礼者ヨハネのように。
(また繋がってる……紫の衣に包まれたペテロの遺骸に、それよりも更に遡る青い薔薇の血の流れに……)
Blue Rose----。
青い薔薇の血。
その正当な継承者と、ロシア帝国を崩壊に導いたとされる怪僧。
(そして、ナチスの鉤十字はスヴァスティカをモデルにしている……サンスクリット語で幸運を示すシンボルだ……ラスプーチン……彼は、Blue Roseについて一体どこまで知っていた? 誰にそれを伝えた?)
眩暈がする。
これが、いわゆる運命というものなんだろうか?
そして私もマヌエルも、その運命から逃れられないまま永遠に回り続ける糸車に囚われ、操られてるだけなのか----?
「ほら……自分の飼い主は誰なのか、ちゃんと教えてあげるわね……」
「ウゥ……」
まぁいい。
とにかく、チャクラだかアージュニャーだか知らないけれど、厄介な事をしてくれたものだ。
「さあ可愛いワンちゃん、今からお前は私の犬よ」
魔女アナスタシアが囁く。
見てはいけないと分かっているのに、目を閉じられない。
視線が逸らせない。
そう、これまでは戦いの内には入らない。
これからが、本番----。
初めは淡く。
そして次第に痛いほどの白い光が、私の目から頭の中に入り込んで来る。
それは、意思を持った光。
いや、意思そのもの----。
アナスタシアの本当の『力』はこれなのだ。
(まずい……これ、思ってたよりもギリギリかも……!?)
私の意識ならば、ちゃんとある。
だけど、それを押し退けて割り込んで来ようとするアナスタシアの意識が、焼けた鉄のように熱くて、私は頭を何度も振る。
「ウッ……ウウゥッ!」
私を見守る兵士達の緊張を背中で感じながら、私は何でもいいから破壊したいという衝動を堪えるため奥歯をギリギリと噛み締める。
(ダメ……違う……! 私の敵は、この魔女とその使い魔であるコイツらなんだから……ッ!)
これが獣化の本当の恐ろしさなのだ。
背後の存在が味方であると頭では分かっているのに、いつでも飛び掛かれるように筋肉が指示を待っている。
それでもなんとか自我を保っていられるのは、アナスタシアの干渉を防ぐための念話回路を維持しているからだ。
『よし、始めるわよ!』
アナスタシアの疲労を誘い私の脳への干渉を阻むのなら、長期戦に持ち込んだ方がいいのだろう。
しかし、扉の向こうで待っているはずのアネモネの消耗を考えれば時間はもう残されていない。
私は床に膝をついた。
グルルル……という自分の低い唸り声が、遠くに聞こえる。
「よしよしいいコね、じゃあ私の言う事が聞けるわね?」
誰が聞くか。
法王の剣の二つ名は、ダテじゃないのだと思い知れ。
『引き続き念話回路は最優先で維持して! 私はコイツらを片付けるから全員援護に集中させて!』
『分かった! だがカーラは既に活動限界を超えてる……熱ダレで停止したら一気に侵入されると思え!』
「ウアアアアアァ……ッ!!」
返事の代わりに、私はアンソニーとメリッサから一番離れた場所にいた獣に飛び掛かる。
どれも大柄だが、ソイツの背丈は特に私より二回りほど大きい。
「ウッ、グァ……ッ!?」
滾る衝動を解放して牙を立てたのは、獣の首筋だ。
そのまま首を振り、牙を喰い込ませ頸動脈を食い千切る。
「ガァッ!? ウッ……グハッ……!」
痛みと怒りに目を剥きながら、獣は反撃して来る。
私に掴みかかり、血を吐きながらも首筋を狙って口吻を近付けて来たその瞬間、私は屈み込み、滑り込むようにしてその身体の下に潜って腹に大剣を突き刺した。
「……ギャアア!!」
やはり獣化しても私と同じように腹の辺りは比較的毛も少なく、皮膚も薄い。
剣先は背中から突き出し、鬣を鮮血で染めた。
「オオオ……ッ!」
「ウォッ、ウォォ……!」
他の獣達が、バネにでも弾かれたかのように一斉に飛び掛かって来る。
「オオオオッ!」
私は血塗れの口を開き咆哮した。
そして大剣を握り直す。
獣の血の味など、知るのは一度で十分だ。
(頼んだわよフルンティング!)
カウントダウンはもう始まっている。
「ガゥ……ッ!」
飛び掛かって来た一匹を頭上で真っ二つにする。
雨のように降り注ぐ血を大剣で受け止め、返す一太刀を正面で大口を開いているその中に突き入れる。
(これで三匹! あと七匹……!)
ちらと見た先では、メリッサが目隠しをしたまま詩編を唱え続けている。
(残り二分……そう、もっと猛り狂いなさい! 私はここよ……!)
整列していたのが嘘のような勢いで、獣達は次々と私に突進して来た。
その背中に、無数の銀の銃弾が撃ち込まれる。
「ンギャァッ!?」
撃たれたうちの数匹が兵士達に向かって走り出す。
「撃て! 撃て! 撃ち続けろ!」
法王の兵達は怯まない。
一歩も退かずに獣達を撃ち続ける。
「グアァッ!」
全身に銃弾を受けながら獣は隊列に突っ込む----寸前に、私がその前に立ちはだかる。
そして、肩を思いっ切り噛まれた。
千切れなかったのが奇跡だと思えるほどの激痛が私を襲う。
(痛ッ! 獣化したってやっぱり普通に痛い!)
私が噛まれている間に隊列は組み直され、再び銃撃が始まる。
もう、傍から見ればどの獣が私か分からないであろうというくらいに、私も、獣達も鮮血に汚れていた。
それでも先によろけたのは獣の方だ。
全身から血を噴き出しながらなおも私に噛み付こうとする。
(……その頑張り、来世ではまともな事に生かしなさいね)
首を斬り落とし、振り向いた先で首を狙って来たもう一匹の腹を刺す。
身長差が、今回は私に有利に働いている。
既にほぼ全身が噛み跡だらけにされているが、ここで止まったらリズムが乱れてしまう。
魔女はひとたび戦場に出れば、踊り続けるしかないのだ。
贖罪という名の、焼けた鉄の靴を履かされて----。
(あと五匹!)
隊列から離れて走り出した私を、獣達が追う。
残り一分----。
その時、私の頭の中で何かが弾けるような感覚がした。




