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1908年6月30日 ツングースカ

 その研究所は、北緯60度55分 東経101度57分の ロシア帝国領中央シベリア、エニセイ川支流のポドカメンナヤ・ツングースカ川上流のタイガの奥地にあった。


 付近に人家は全くなく、数十キロ離れた場所に小規模な遊牧民のキャンプが時折報告される程度で、通年に渡って猟師や木こりもわざわざここまで分け入って来る事はない。


 それもそうだろう。

 この一帯では夏であっても野兎の足跡もなく、鬱蒼とした針葉樹に覆われた空の向こうには跳ぶ鳥の影すら見えないのだから。


 研究所は、一見すると獣道すらないタイガの中に忽然と現れた簡易な観測施設のようにしか見えない。


 事実、申し訳程度の鉄製のプレートには『寒冷地気象観測所』とのみロシア語で書かれ、入口であろう小さな鉄扉には、まるで象でも拘束するかのような太い鎖に、これまた仰々しい南京錠が無造作にぶら下がっているだけだ。


 人の気配は全くなかった。


 だが、施設の本体はその地下深く、永久凍土の更に下にあった----。


 日露戦争を終えて間もなくのロシア情勢は非常に混沌としていた。

 世界大戦はいつ起きてもおかしくないと囁かれ、貧しい民衆の帝政への不満は膨らみ、どこの酒場でも不穏な噂が囁き交わされていた。


 誰もが求めていた。


 新しい世界を。

 新しい秩序を。


『強いロシア』を----。


 そして、その『強いロシア』を実現すべく、とある組織が極秘裏に建設したというのが、この地下施設だった。


「それにしても、よくこれだけの数を集めたものだな」


 実験室というプレートの掲げられた部屋の割には薄暗いガランとした部屋に、男の声が響く。


 丸眼鏡を掛け、白衣のポケットに両手を突っ込んだ男の前には白い拘束衣姿の様々な年齢の少女達が十二人----まるで黄道十二級宮を描いた図のように、頭を中心に向けて円台に寝かされている。


 円台の中央には、サッカーボールほどの黒い球体が置かれ、少女達の頭から伸びた数十本細いコードがそこに繋がれていた。


 少女達の目は、一人残らず閉じられている。

 誰一人、身じろぎすらしない。


 その手足は金属製の枷で固定されている。


「適合者はこ二十倍くらいはいたんですがね、拒絶反応が予想以上でね……最後まで生き残ったのがこれだけですよ。さすがにちょっとやりすぎだとは言ったんですが」


 その隣で書類に目を落としていた細身の男が言い訳がましい口調で言う。


「いや、十分だ……そのくらいしなければこの実験は成功しない」


 男の他にも研究者然とした男達が、少女の周りで忙し気に動き回っている。

 少女の瞳孔に光を当てて覗き込む者、円台の下を這い回り、ケーブルの接続を確認している者。


 機械のモーターだろうか、虫の羽音のような低い音が絶え間なく聞こえ続けている。


「……そろそろか?」

「そうですね、全員鎮静剤も効いているようですし、注入を始めても問題ないでしょう」


 腕時計に目を落としながら細身の男は言い、他の研究者達に向かって手を上げる。


「全員バイタルは最適値だ。『器』の状態も変化はない……5分後に実験開始だ」


 顔を上げた白衣の男達の顔が一様に緊張を帯びた。

 あるいは、恐怖に近い色さえ浮かべた者もいた。


「……本当に、成功するんでしょうか?」


 独り言のような声が、誰かの口から洩れた。

 

「当たり前だ! これまで我々がどれほどの苦労をして今日この日を迎えたと思っている!」


 丸眼鏡の男の檄が飛ぶ。


「必ず! 我ら誇りある帝政ロシアのためにもこの実験は必ず成功させる! そのために密かに彼らの力を借りてこの装置を完成させたのだ!」


 彼ら、というその響きにある者は頷き、ある者は眉を顰めた。


「帝政ロシアの未来を守るためには世界の覇者にならねばならない! そうだ、たとえこの『魔女』の力を使ってでもな……!」


 唾を飛ばし、拳を振りながらそう叫ぶ男の周りで、看護服の女性達が無言で少女達の腕に何かを注射し始める。


「そうだ! この少女達と同化した『魔女』が我々を導くのだ! 帝国の未来を透視するのだ!!」


 男の絶叫が響く中、異変は現れた。


 それは、初めは小さな音に過ぎなかった。


 ミシミシミシ。


 ギシギシギシ。


 円台の上のあちこちから、革と布を擦り合わせるような音が響き出した。


「……始まったのか?」


 身じろぎ一つしなかった少女達の全身が、小刻みに震え始めていた。

 拘束衣が擦れ、それぞれの身体の間から耳障りな音が部屋全体を満たし始めていた。


「鎮静剤が効いてないんじゃないのか!?」

「そんなはずはありません! 規定の5倍は入れています!」


 そんなやりとりのうちにも、音は次第に大きくなっていく。

 少女達の身体が、円台の上で打ち上げられた魚のように、ビクビクと不随意に跳ね始める。


カタカタと歯の鳴る音。

 奇妙な歌らしきメロディーを発し始める少女もいる。


「な、何だ! 聞いてるだけで頭……が……あぁぁ……ッ!?」


 若い研究者が哄笑している。

 見えない何かを目で追いながら部屋を駆け回り始める。


 バチン!


 一人の少女の枷が、弾け飛んだ。


 そしてまた一つ。

 もう一つ。


 バチン!

 バチン! 

 バチン!


 男達が駆け寄ったと同時に、少女達の身体が歪な風船のように大きく膨れ上がった。

 拘束衣が千切れ飛ぶ。

 

 肉片と血飛沫が、部屋にいた全ての人間に張り付いた。

 十二個の頭だけが、円台に行儀よく並んだまま喉も裂けよと『歌って』いた。


 「いやぁぁッ! 出して! ここから出して!」

 「やっぱり私達も『魔女』に食べられるのよ!」


 看護師達が悲鳴を上げて扉に殺到するが、扉が開く事はなかった。


「見ろ! 『器』が光っている!」


 丸眼鏡の男の声は、他の研究者達の絶叫に掻き消される。

 もう誰の目も男を見ていない。


 部屋に満ちた何かの幻影を追いながら、笑い、泣き、絶叫している。


「くそッ、コイツらもやられたか」


 それでも丸眼鏡の男の見開いた瞳孔に映っているのは、熱された鉄の如く輝きを増し始めた球体、ただそれだけだった。

 薄暗かった部屋は、今は灼熱の太陽の真下にいるかのような明るさだった。


「素晴らしい! 何と美しいんだ! 起動してるぞ! 我らの魔女が、目覚めたぞ!!」


 その言葉が、最後だった。


 その刹那、球体は爆発した----研究者達どころか、研究所を中心とした約2,150平方キロメートルの範囲の樹木も全てなぎ倒して----。

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